2.7.2 蠢く悪意と、最初の刺客
首都アストラリスの地下深くに、ヴァレン・フジシロの秘密の研究室は存在した。壁一面に古代の文字が刻まれ、中央には不気味な光を放つホログラムが空間に浮かび上がっている。フジシロは、そこに表示されたデータ(シェリーが引き起こした「時の歪み」の観測結果)を、満足げな表情で眺めていた。
「素晴らしい……!これほどのエネルギー、これほどの可能性!まさに『鍵』に相応しい」
フジシロは、片方の口角を上げて冷笑した。彼の言葉は、隣に控える忠実な側近に向けているようで、その実、自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「あの娘の力は、私の長年の計画……『人類の強制的な進化』を実現するための、最後の触媒となる。世界は常に不均衡と争いに満ちていた。愚かなる種族どもが互いを憎み合う様は、まさに地獄絵図。私が与えようとしたのは、絶対的な力による完全なる調和だというのに」
彼の瞳の奥には、数百年の時を生きた者の執念と、歪んだ野心が宿っている。
「だが、まだ力は不安定。それに、彼女の周囲には厄介な衛兵が増えましたか」
ホログラムのデータは、シェリーの力が覚醒したばかりで制御が不安定であること、そして彼女の傍にはエディたち仲間が固く守っていることを示している。フジシロは苛立ちを隠し、ゆったりと椅子に座り直した。
「学生の護衛ごっこなど、すぐに終わらせてやろう。……グロブナー」
その声に、部屋の隅の影が揺らぎ、人影が浮かび上がった。痩身で顔色の悪い男が、深いフードを目深にかぶり、フジシロの前に膝をつく。彼の眼は爛々と光り、獲物を狙う獣のようだ。
「王都で小規模な混乱を起こし、王室警備庁の目をそちらに引きつけろ。そして、あの娘を捕らえよ。殺すな。あくまで生け捕りにしろ。抵抗する護衛は、好きにしてよい」
「御意に」
グロブナーは短く応えると、再び影に溶け込むように消えた。
フジシロは、全てが計画通りに進んでいることに満足し、卓上のワイングラスを傾けた。グラスの中の赤ワインが、不気味に彼の野望を映し出していた。
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クロノエルたちのセーフハウスで数日を過ごした後、シェリーはアストラリス大学での日常に復帰した。しかし、それはもはや以前の「日常」ではなかった。
「シェリー、午後の講義、教室まで送るて」
「大丈夫だって、エディ。すぐそこだて」
カフェテリアから講義室へ向かうシェリーの隣には、常にエディ、マリア、ラゼル、サキの誰かが付き添っていた。ラゼルの提案で組まれた24時間体制の護衛シフトだ。シェリーの出自を知る一部の学生からの好奇や敵意の視線に戸惑いながらも、彼女は仲間たちに守られ、気丈に振る舞おうと努めていた。
そんな彼らのグループに、ごく自然に近づいてくる者がいた。
「あ、あの、グレイソンさん……。この前の講義ノート、見せてもらってもいいかな? 僕、転入してきたばかりで、まだ授業に追いつけなくて……」
人懐っこい笑顔で話しかけてきたのは、最近シェリーたちと同じ講義を取るようになった、「アル」と名乗る少年だった。少し気弱そうな、どこにでもいる普通の学生に見える。
「ええよ。はい、これ」
シェリーが快くノートを渡すと、アルは心底嬉しそうに礼を言った。
「ありがとう! 大変だったって聞いたけど、無理しないでね。僕、君の味方だから」
その言葉に、シェリーもマリアも、少しだけ警戒を解いた。「悪い奴じゃなさそうだ」とエディも呟く。
しかし、ラゼルだけが、その完璧すぎる演技と、アルがシェリーを見つめる瞳の奥に時折よぎる、爬虫類のような冷たい光を見逃してはいなかった。
数日後、その牙は剥かれた。
講義室への移動中、ほんの少し、シェリーが一人になる瞬間が生まれた。護衛役のエディが、教授に呼び止められた一瞬の隙だった。
「グレイソンさん」
背後からアルが声をかけてきた。シェリーが振り返ると、彼の顔はいつもの気弱な笑顔ではなかった。そこにあったのは、獲物を見つけた捕食者の、歪んだ愉悦の表情。
「さあ、おとなしく来てもらおうか、世界の『鍵』」
その言葉と同時に、シェリーの意識がぐにゃりと歪む。強力な精神干渉系の魔法だ。抵抗しようにも、思考が霧散し、体の自由が利かなくなる。
(ダメ……!)
まさにその時、シェリーが身に着けていたサキ特製の魔力探知機が、けたたましい警告音を発した。
「シェリーから離れろ!」
警告音を聞きつけ、ラゼルとエディが血相を変えて駆けつけてくる。
「チッ……邪魔が入ったか」
アル――フジシロの刺客は、忌々しげに舌打ちすると、シェリーの拘束を解き、幻術でその姿を人ごみの中へと消した。
仲間たちに支えられ、シェリーはかろうじて意識を保つ。
敵は、もう大学という日常の中にまで、深く潜り込んでいる。そして、そのレベルはこれまでのチンピラとは比較にならない。
シェリーは、自分のせいで仲間たちが危険に晒されたことに、唇を噛み締めた。
(守られるだけじゃ、ダメなんだ……)
ただ無力に守られるのではなく、自らも力と向き合い、戦わなければならない。
その決意が、シェリーのオッドアイの瞳に、新たな光を灯していた。




