1.3. 母が母となった日、父が父となった日
古都フェニクスの歴史の中でも、とりわけ激しい嵐が記憶される夜があった。今から十六年の歳月が流れる前の出来事である。
風が獣の咆哮にも似た音を立てて教会の堅牢な窓を揺らし、空を裂く稲妻が走るたび、礼拝堂の質素な木製の長椅子や、壁に掛けられた月と星をモチーフにしたタペストリーが一瞬、白日の下に晒されたかのように浮かび上がる。そのような荒れ狂う天候の中、クロノエルは一人、夜の教会の小さな礼拝堂で静かに祈りを捧げていた。彼女のヘーゼルの瞳は祭壇の奥の闇を見据え、その唇は声にならない祈りの言葉を紡いでいる。
(…あぁ、万象を司る大いなる流れよ、どうか彼の地に安らぎと導きを…そして、今宵訪れるであろう小さな魂に、祝福があらんことを…)
彼女には予感があった。数日前から、宮中の友人から託された言葉と、胸騒ぎにも似た直感が、今宵、特別な運命を帯びた赤子がこの場所に辿り着くことを告げていたのだ。その子は、光と闇が複雑に絡み合うこの世界の、未来を照らす一条の光となるかもしれない。しかし、同時に、計り知れない困難と危険をその小さな身に背負うであろうことも。
クロノエルは、これから訪れるであろう子の無事を、そして夫ナサニエルと共にその子を守り育てていく覚悟を、改めて胸に刻んでいた。彼女がこの地上で過ごしてきた永い歳月の中でも、これほどまでに世界の行く末と自身の心が強く結びつく出来事は稀であった。
その時、教会の重厚な扉を、嵐の音にかき消されそうなほど弱々しく、しかし必死に叩く音が響いた。三度、そして途切れるような四度目の音。
「…来はったわ」
クロノエルは静かに立ち上がり、ナサニエルが既に気づいて玄関ホールへ向かっているであろう気配を感じながら、自身も足早に礼拝堂を後にした。
玄関ホールでは、ナサニエルが扉を開け放とうとしていた。外からは、雨風と共に、何か獣のような荒い息遣いと、鉄錆にも似た微かな血の匂いが流れ込んでくる。
「あなた、気ぃつけよしや」
クロノエルの言葉と共に扉が開き、そこに立っていたのは、まさに満身創痍という言葉がふさわしい姿の女猫獣人――リアナ・ストームだった。彼女のしなやかな身体は泥と血に汚れ、普段は誇り高く輝いているであろう金色の瞳は苦痛に歪み、焦点も定かではない。しかし、その腕には、汚れた布にくるまれた小さな赤子を、命がけで守るようにしっかりと抱きかかえていた。
「…ナサニエル様…クロノエル様…」
リアナの声は掠れ、今にも事切れそうだ。彼女はよろめきながら教会の中に一歩踏み入れ、その場に崩れ落ちそうになるのをナサニエルが寸前で支えた。
「リアナ殿!しっかりなさい!」
ナサニエルの緊迫した声が響く。
リアナは、朦朧とする意識の中で、クロノエルに赤子を託すようにその小さな体を差し出した。
「どうか…この子を…エド様と…セラフ様より…どうか…頼みます…」
途切れ途切れの言葉と共に、リアナは赤子の襁褓に縫い込まれていた、古びた羊皮紙の小さな断片をクロノエルの手に握らせた。そこには、見たこともない複雑な紋様が、消えかかったインクで記されているのをクロノエルは見逃さなかった。
そして、リアナはついに意識を手放し、ぐったりとナサニエルの腕の中に沈んだ。彼女の衣服や持ち物には、常ならぬ激しい戦いを経て、ようやく追手を振り切ってきたのであろう痕跡が痛々しく残されている。遠く、嵐の向こうの街明かりが揺らめく方角で、何かを探すかのように不規則に動く複数の影のようなものが見えたのは、クロノエルの気のせいだっただろうか。
クロノエルは、腕の中の赤子を見つめた。驚くほど静かで、しかし力強い生命力を感じるその小さな存在。片方の瞳は深い闇夜を思わせる赤、もう片方は夜明けの空のような澄んだ青。その不思議な色の双眸が、蝋燭の光を受けて妖しく、そしてどこか神聖な輝きを放っていた。
(この子こそが…託された希望…)
ナサニエルとクロノエルは、言葉もなく見つめ合った。彼らがこれから負うであろう責任の重さと、その先に待ち受けるであろう困難を無言のうちに理解し合いながらも、その瞳の奥には、この小さな命を何があっても守り抜くという、静かで、しかし鋼のように強い決意の光が、確かに灯っていた。
ナサニエルはまず、リアナを客間の寝台へと慎重に運んだ。クロノエルは手早く治療の準備を整える。彼女のエルフとしての知識――いや、それ以上の、遥か古から受け継がれてきたであろう癒しの技が、今、瀕死の猫獣人のために惜しみなく注がれようとしていた。薬草を煎じる香り、微かな治癒魔法の詠唱。クロノエルはリアナの傷口にそっと手を当て、静かにマナを流し込む。それは単なる治癒というより、乱れた生命の流れを整え、内なる力を呼び覚ますような、繊細で力強い儀式にも見えた。
「…ひどいなぁ。内臓までいくつか傷んでるわ。それに、これは…普通の武器による傷だけやないね。何か…良くない魔力が込められてるみたいや」
クロノエルの表情が険しくなる。
ナサニエルは、教会の全ての扉と窓に念入りに防御の魔法を施し、外部からの侵入者を阻む結界を張り巡らせた。嵐の音に紛れて、追手が近づいてくる可能性も捨てきれない。彼は時折、窓の隙間から外の闇に鋭い視線を送り、警戒を怠らなかった。リアナが残した羊皮紙の断片は、今はクロノエルが大切に懐にしまっている。
夜が明け、嵐が嘘のように過ぎ去った朝。ナサニエルが教会の前の掃き掃除をしていると、一羽のデンショバトが静かに舞い降り、彼の足元にとまった。その鳩は、どこから来たのかを示すようなものは何も身に着けておらず、ただナサニエルの顔をじっと見つめている。
「…デンショバト…?」
ナサニエルが訝しげに声をかけると、デンショバトは人の言葉で、しかし感情の乗らない平坦な声で告げた。
「宛先、ナサニエル・グレイソン様、クロノエル様。伝言ヲ伝エル。『ミスティスの天秤』。以上」
それだけ言うと、鳩は再び飛び立ち、朝靄の中に消えていった。
「ミスティスの天秤…?」
ナサニエルはその言葉を繰り返しながら、急いで教会に戻り、クロノエルに事の次第を伝えた。治療を続けていたクロノエルも、その奇妙な伝言に眉をひそめる。
ちょうどその時、寝台で呻き声と共にリアナが薄っすらと目を開けた。
「…リアナ殿、気がつかれたか」
「…ナサニエル様…クロノエル様…私は…あの子は…」
「赤子は無事ですよって。あなたも、もう大丈夫やから」クロノエルが優しく声をかける。
ナサニエルが先ほどのデンショバトの話をすると、リアナは僅かに目を見開き、掠れた声で言った。
「『ミスティスの…天秤』…それは…昨日お渡しした…羊皮紙の…鍵となる言葉です…」
クロノエルは懐から羊皮紙の断片を取り出し、リアナに示された通り、その複雑な紋様の一部に意識を集中させながら、「ミスティスの天秤」と静かに唱えた。すると、羊皮紙の表面に淡い光が走り、これまで読み取れなかった文字が浮かび上がってきた。
そこには、この赤子につけられた名前シェリーと、彼女を託した二人の親からの、言葉少なながらも切実な想いが綴られていた。それは、やむにやまれぬ事情で我が子を手放さねばならなかった親の深い悲しみと、この子の未来をナサニエルとクロノエルに託すという、苦渋の決断と未来への祈りが込められていた。
「シェリー…」
クロノエルは、腕の中で安らかに眠る赤子の顔を覗き込み、愛おしそうにその名を呟いた。ナサニエルもまた、その小さな寝顔と、羊皮紙に記された運命の重さに、静かに目を閉じる。
この日から、彼らの新しい、そして決して平坦ではないであろう日々が始まったのだ。