1.2. 少女シェリー・グレイソン
首都アストラリスの喧騒とは対照的に、古都フェニクスは夜明けの静寂に包まれていた。その一角、蔦の絡まる古い石造りの「夜の教会」では、朝日がステンドグラスを通して、堂内に柔らかな光の帯を落としていた。
簡素な白いワンピースに身を包んだシェリー・グレイソンは、祭壇に供える野の花を活け終えると、ほう、と小さな息をついた。十六歳になったばかりの彼女の銀色の髪が、朝の光を受けてキラキラと輝いている。
「おはようシェリー、もう朝の支度は済んだのかい?」
祭壇の奥から、穏やかで深みのある声がした。父ナサニエル・グレイソンだ。彼は夜の教会の牧師を務めており、その落ち着いた茶褐色の瞳は常に深い思慮に包まれている。手入れされた白い顎鬚が、歳以上の威厳を感じさせるのだ。その佇まいには、牧師としての柔和さとは別に、どこか夜の闇に馴染むような、それでいて近寄りがたいほどの静謐なオーラが漂っており、彼がただの人族ではないことを微かに感じさせた。事実、彼が人間ならざる者――吸血鬼であるという秘密を知る者は、このフェニクスにおいてもごく僅かしかいない。
「うん、パパおはよう!お花も替えたし、お掃除もだいたい終わったよ。パパこそ、今日はやけに早起きだね」
シェリーは振り返り、にこやかに答える。その言葉の端々に、この地方独特のイントネーションが混じる。
「あぁ、、、少し調べたい古文章があってねぇ。どうも年を取ると朝がはやくなってのう」
ナサニエルはそう言って苦笑し、シェリーの頭を優しく撫でた。彼の言葉にもまた、シェリーと同じ地方の響きが微かに残っている。親子揃って気を許した会話では、こうしてふとした瞬間に地元の言葉が顔を出すのだった。
「あら、シェリー、あなた。おはようさんです」
教会の奥、居住区へと続く扉から、柔らかな声が現れた。シェリーの母でありナサニエルの妻クロノエルである。彼女の温かなヘーゼルの瞳は、まるで悠久の時を見つめてきたかのような深みを湛え、物静かな佇まいの中にも、何事にも動じないであろう確固たる意志の光を宿していた。長く尖った耳は優美な銀の髪に隠れがちだが、その細くしなやかな肢体や、自然と調和するような独特の雰囲気は、彼女が亜人族―エルフであることを示している。落ち着いた色合いの茶色の髪を緩やかにまとめ、シンプルなアースカラーのエプロンドレスを身に着けているその姿は、どこか古風で雅やかな雰囲気を漂わせる。
「ママ、おはよう!見て!今日のお花、綺麗に活けられたと思わん?」
シェリーはクロノエルに駆け寄り、自分が活けた花を指差す。
クロノエルは優しく微笑み、「ほんま、綺麗にできたねぇ、シェリー。あなたが活けると、お花も嬉しそうやわ。…あら、でも、ここの水滴、拭き忘れとるんちゃう?ちゃんとしとかんと、あなた様が滑ってはったら大変やで」と、穏やかで、どこかゆったりとした響きの言葉で、そっと指摘した。
「あっ、ほんとだ!いかんわ、すぐ拭く!」
シェリーは慌てて布を取りに戻る。そんなシェリーの屈託のない後ろ姿に、ナサニエルとクロノエルの二人は、温かな愛情と共に、彼らだけが知るであろう、声にならない祈りにも似た想いを重ねていた。
ーーーーーー
「それじゃあ、パパ、ママ、ちょっと街までお使い、行ってくる!」
朝の片付けを終えたシェリーは、クロノエルから頼まれた薬草の仕入れと、ナサニエルに頼まれた古書の受け取りのため、中心街へむかった。白いワンピースの裾を軽く揺らし、銀の髪をハーフアップに束ね直しながら、石畳の道を弾むような足取りで進んでいく。
古都フェニクスは、遷都から数百年が経過した今もなお、ミスティス王国の魔法文化と伝統の中心地としての風格を色濃く残している。アストラリスのような喧騒とは無縁で、古い寺院や貴族の屋敷が立ち並ぶ街並みは、どこかゆったりとした時間が流れているようだった。しかし、その落ち着いた雰囲気の裏には、長年変わらぬ慣習や人間関係が深く根付いており、新しいものや異質なものに対する微かな警戒心も漂っている。
シェリーが通りを歩けば、そこかしこから親しげな声がかかる。彼女の存在は、この伝統ある街の日常にすっかり溶け込んでいた。
「あら、シェリーちゃん、お使いかい? 今日も元気だねぇ」
角のパン屋の恰幅の良いおかみさんが、焼きたてのパンを並べながらシェリーに声をかける。
「うん、おばちゃん、おはよう! ママから頼まれたんで薬草をね。あと、パパの古書も取りに行かにゃもんで、ちょっとえらいんだ」
シェリーはにっこり笑って答える。気心の知れた相手には、つい地元の言葉が多くなる。
「そうかい、そりゃ大変だ。それじゃ帰りにでも寄っていきな。新しい果物のデニッシュ、焼いとくからさ」
「ほんと!? やったー、絶対来るね!」
そんなやり取りをしながら、シェリーはまず薬草を扱う店へと向かった。店主は気難しいことで有名なドワーフの老人だったが、シェリーに対しては孫娘に接するように、いつもより少しだけ口調が和らぐ。
「おお、シェリーの嬢ちゃんか。いつものやつかいの? 今日はええのが入っとるぞ」
「ありがとう、ドワーフのおじいちゃん! マмаがね、これとこれって。あと、ママが最近、血の巡りが悪い人に使うとか言っとった『温経作用のある薬草』も欲しいんだけど、何かいいの、ないけ?」
シェリーはクロノエルから預かったメモを見せながら、カウンター越しに身を乗り出す。ドワーフの老人は、ぶっきらぼうながらも的確に薬草を選び出し、その効能や使い方を丁寧にシェリーに説明してくれた。
次に訪れたのは、古書店が軒を連ねる一角。ナサニエルが注文していたのは、古代魔法に関するかなり専門的な書物らしかった。学者風の物静かな人族男性の店主は、シェリーの顔を見ると奥から分厚い本を数冊抱えてきた。
「やぁシェリー君。お父様から頼まれていた本だよ。それにしてもさすが、牧師先生だね。こんな難解な本を…ところで君も将来は魔法の研究でもするのかい?」
「うーん、どうだろ? 難しいことはようわからんけど、パパは楽しそうだから、いいかなって! あ、これ、パパからのお代。」
シェリーは無邪気に笑いながら代金を渡し、ずっしりと重い本を受け取った。小柄な彼女には不釣り合いなほどの重量だが、シェリーはそれを軽々と片手で抱え、店主に礼を言って古書店を後にする。
古書店でずっしりと重い本を受け取ったシェリーは、次の目的地へと向かう前に、ふと足を止め、教会の裏手にある小さな森へと続く小道へ吸い寄せられるように入っていった。そこは彼女のお気に入りの場所で、木漏れ日が優しく降り注ぎ、柔らかな苔が地面を覆っている。シェリーは、ごく自然な仕草で履いていた靴を脱ぎ捨て、白いワンピースの裾が汚れるのも構わずに、素足でそっと大地を踏みしめた。そして、大きく深呼吸すると、まるで木々や風と会話でもするかのように、しばらく目を閉じてその場に佇む。時折、木漏れ日の中で、薄着の彼女の輪郭がほんの一瞬、淡い光の粒子に縁取られたかのように見えることがある。それはあるいは、ただの陽光の戯れだったのかもしれないが。それは彼女にとって、息をするのと同じくらい自然な、日々の習慣であり、無意識のうちに自身と世界の調和を取り戻すための行動なのかもしれない。
古書店の角を曲がったところで、約束していた幼馴染のエディ・ストームが待っていた。日に焼けた褐色の肌が健康的な、茶色の髪をツンツンに立てた快活な猫獣人の少年だ。ピンと立った猫耳がシェリーの姿を捉え、尻尾が嬉しそうにパタパタと揺れる。
「お、シェリー!待ちくたびれたばい。荷物、重かろうもん、こっちで持つたい」
エディはシェリーが抱える本の束を見て、手を差し伸べる。その言葉には、故郷キャットピーク村の素朴な響きが混じっていた。
「んー、平気平気!これくらい、気にせんでええよー!」
シェリーはけろりと言って、本の束をひょいと持ち上げて見せる。その瞬間、エディは一瞬目を見開いた。本の厚みと大きさからして、明らかに少女一人で軽々しく持てる重さではない。しかし、シェリーは全く意に介していない様子だ。
「…お前、ほんと時々、力加減がおかしいとよ」
エディは呆れたように呟きつつも、それがいつものシェリーであるため、深くは追求しないのがいつものことだ。
彼は、シェリーのそういった「普通じゃない」ところに、他の誰にもない特別な魅力を感じている自分に、まだ気づいていない。ただ、彼女が無邪気に笑うと、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じるだけだった。
二人が並んで歩き出すと、不意に路地から飛び出してきた配達用の小型魔導カートとシェリーが軽く接触しそうになる。シェリーは咄嗟に身をかわしたが、バランスを崩し、石畳に手をついてしまった。
「わわっ!危なかったぁ」
「シェリー、大丈夫か!?」
エディが駆け寄ると、シェリーは「平気平気、ちょっと擦りむいただけ、本も落とさなかったし、えかった。」と笑って立ち上がる。彼女の白い手のひらには、確かに赤い擦過傷ができていた。
「もー、ドジなんだから。ほら、教会帰ったらすぐ手当てせんと」
エディは心配そうに言うが、シェリーは「こんくらい、唾つけときゃ治るって!」と、あまり気にしていない。
そして、数分後。教会の門が見えてきた頃、エディはシェリーが何かを探すように自分の手のひらを見つめているのに気づいた。先ほどの擦り傷は、彼の記憶が確かならば、もうほとんど見当たらなくなっているはずだった。
「…シェリー、どうかしたと?」
彼が尋ねると、シェリーは不思議そうに首を傾げ、「ううん、なんでもないよ? あれ、さっき転んだっけ?」と、まるでそんなことなど忘れてしまったかのように、あっけらかんと笑うのだった。エディはそれ以上何も言わず、ただ、彼女のその「普通」に、言い知れぬ何かを感じずにはいられなかった。そして、なぜか彼女の一挙手一投足が気になってしまう自分に、エディはまだ名前のつけられない感情を抱き、戸惑うばかりだった。
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買い物を終え、エディと別れて教会に戻る道すがら、シェリーの足取りは少しだけ重かった。賑やかな大通りを抜け、人通りの少ない裏道に入ると、不意に彼女の表情から明るさが消え、どこか遠くを見つめるような、物憂げな瞳になることがあった。先ほど森で素足になった時の、あの言いようのない安らぎと、今のこの得体の知れない感覚との間で、心が揺れる。
(…私、身体、丈夫すぎんかな…丈夫っていうか、なんか、こう…化け物じみとる気がする時があるんだよね…)
さっきの擦り傷も、もうどこにも見当たらない。エディは「シェリーは特別だ」といつも言ってくれるけれど、その「特別」が、時々シェリーを言いようのない孤独感で包むのだった。彼が時折見せる、自分でもよく分からないような優しい眼差しにも、どう応えていいのか分からなかった。
(そういえば、他の子は夢って毎晩違うものを見るって言っとったけど…私の見る夢、なんだかいつも同じような場所で、誰かに何かを教わっとる気がするんだよなぁ…あれも、普通じゃないんかな…?)
母にその夢の話をしても、「きっと素敵な夢なのね」と微笑むだけで、詳しいことは教えてくれない。
賑やかな街の音も、今は少し遠くに聞こえる。シェリーは知らず知らずのうちに、自分の胸元にそっと手を当てていた。
(いつか、街の外に出て…もっと広い世界を見たら…何か分かるかな。私が、本当にみんなと同じなのか、それとも…)
漠然とした外の世界への憧れと、自分自身への小さな不安。それが今のシェリーの心の中を占めているのだった。
シェリーが教会への帰路、旧市街の学術地区を通り抜ける。ここには、ミスティス王国でも屈指の歴史を誇る「フェニクス魔法学院」の荘厳な建物が、周囲の古い街並みと調和しながらも、独特の存在感を放っていた。高い尖塔からは時折、訓練中なのであろうか、色とりどりの魔法の光が漏れ、若い学生たちの熱心な声や、呪文を唱える独特の節回しが微かに聞こえてくる。シェリーは、その前を通るたびに、自分がこれから進むアストラリス大学とはまた違う、伝統と格式に彩られた魔法の世界に、漠然とした憧れと、同時に少しだけ自分とは縁遠いような感覚を覚えていた。
学院のすぐ近くには、この古都で「夜の教会」と対をなすように存在する「昼の教会」の大聖堂が聳え立っている。白亜の壁と金色の装飾が施された壮麗な建物は、太陽の光を浴びて神々しいまでに輝き、そこから響く厳かな聖歌やパイプオルガンの音色は、街全体に聖なる雰囲気を振りまいていた。ナサニエルの「夜の教会」が、月の光のように静かで内省的な祈りの場であるとすれば、この「昼の教会」は、太陽のように力強く、秩序と規律を重んじる信仰の中心地なのだろう。シェリーは、そこから出てくる、一分の隙もない装束に身を包んだ天族系の聖職者たちや、厳格な表情で足早に去っていく信者たちの姿を目にするたび、自分たちが属する「夜の教会」の自由で穏やかな雰囲気との違いを、子供心にも感じずにはいられなかった。彼らの放つ、どこか近寄りがたい清浄さと、自分の中にある得体の知れない「何か」との間に、見えない壁があるような気がして、シェリーはいつも少しだけ足を速めてその場を通り過ぎるのだった。
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その頃、夜の教会の奥深く、ナサニエルの書斎では。
ナサニエルは、デスクに置かれた古い木製のカレンダーを眺めながら、ぽつりと呟いた。カレンダーの今日の日付の欄には、クロノエルの優美な文字で小さく「シェリー 合格発表日」と記され、その横には心配そうな顔の猫の絵が添えられていた。
「…もう、そんな時期か」
傍らには、クロノエルが静かにお茶を淹れている。
「ええ。あの子が、外の世界に触れ、自分自身に向き合う時が近づいているのでしょう」
クロノエルの声は穏やかだが、その瞳にはシェリーの未来を案じる深い色と、何かを決意したような強い光が宿っていた。
「我々の過去が…そして、あの子が背負うものが、あの子をどのような道へといざなうのか…」
ナサニエルの声には、シェリーへの深い愛情と、言葉にできないほどの重い憂い、そしてどこか運命の流れに身を任せるような響きがあった。彼らがシェリーに明かせずにいる事柄は、あまりにも深く、そして複雑な影を落としていた。
クロノエルは、ナサニエルのカップにお茶を注ぎながら、静かに言った。
「私たちは、あの子を信じるしかありません。そして、その時が来るまで、力の限り守り、導く。それが、私たちにできる唯一のことですから」
二人の間には、重く、しかし確かな覚悟に満ちた沈黙が流れた。