186.王子
エルフの森には、ようやく穏やかな風が戻ってきていた。
戦いの爪痕は深く、木々には焦げ跡が残っていたが、森は息を吹き返し始めている。
鳥のさえずりが聞こえ、緑の葉が風に揺れていた。
カイたちはそれぞれの時間を過ごしていた。
ヒルダの容態も安定し、仲間たちにはわずかな休息が与えられていた。
マリ、ルカ、ミーアの三人は、エルフの里を歩いていた。
エルフの森の奥、霧がかかったような幻想的な林の中には、異世界のような光景が広がっていた。
森の木々は見たことのない種類ばかりで、一本ごとに季節すら違って見える。
春の若葉、夏の茂み、秋の紅葉、冬の雪枝――全てが共存していた。
その中でもひときわ目を引いたのは、中央にそびえる「聖樹」と呼ばれる大木だった。
背は低めだが、幹は数人がかりでも抱えきれないほど太く、気に沿って美しいらせん階段がかけられている。
中腹のバルコニーには、エルフの王と王妃が暮らしているという。
ミーアが感嘆の息を漏らした。
「……ほんとうに、ここがエルフの森なんだね。信じられないよ」
ルカも周囲を見回しながら、小さく頷いた。
「……他の森とは、空気が違う……なんというか、時間が止まってるみたい」
マリが目を細めて聖樹を見上げた。
「今の人間族で、ここに入ったのって……私たちだけなんじゃない?」
「そうかも……」
ルカが静かに頷いた。
「でも……なんだか、私たちが来ていい場所なのか、まだ不思議な気分」
ミーアがポツリとつぶやく。
「ここで……ヒルダ母さんたちが育ったのかな……」
ふいに空気がしんと静まった。
風が枝葉を鳴らす中、三人とも、遠い記憶をたどるような表情をしていた。
やがて、マリが小さくつぶやく。
「ねえ……ベンゲルとかエステンって、今どうなってるんだろう……」
その声には、拭いきれない不安がにじんでいた。
ルカがうつむいて言う。
「……そうだね……そろそろ、帰らなきゃ……でも、帰ったところで、何があるのかな……」
マリとルカは、心のどこかで、家族の安否を案じていた。
けれど――信じていた平和が嘘で塗り固められていた世界。
帰るべき場所が、もうないのではないかという疑念があった。
そんな沈黙を破ったのはミーアだった。
「ねえ、そういえばお兄ちゃんは? 何してるの?」
マリが少し顔を上げて答えた。
「今後のことがあるって、魔女さんたちと話しに行ったわ」
ミーアがにやっと笑った。
「……マリさん、行かなくていいの?」
その言葉に、マリは一瞬目を泳がせる。
「う、うーん……どうしようかなぁ。やっぱり……戻った方がいいかな……」
ルカとミーアが顔を見合わせ、くすくすと笑った。
「「ふふふ……」」
マリは顔を真っ赤にして、二人の肩をポカポカ叩いた。
「もー! からかわないでよ!」
「だって、マリとカイって、からかいがいあるんだもん♪」
「ほんっとに、わかりやすいのよね、マリさんって」
「ううぅ……!」
そのときだった。
森の方から、足音とともに大声が響いた。
「マリ殿! ルカ殿! ミーア殿!」
声の主は、カークだった。額に汗を浮かべ、かなり焦っている様子。
「至急、小屋に集まるようにと! 全員、招集です!」
三人はすぐさま表情を引き締め、走り出した。
皆が集まる木造の集会小屋に駆け込むと、そこにいたのは――
見覚えのある青年。だが、その姿は以前とはまるで別人だった。
「……あれ……グレーン王子?」
ミーアが思わず声を漏らす。
間違いなかった。あの気弱で頭でっかちだったグレーン王子。
けれど今、そこに立つ彼は、目の奥に静かな闘志を宿し、体つきも引き締まっている。
野生の獣のような気配すらあるその雰囲気に、マリとルカも息を呑んだ。
そして、床に転がされていた男に目を向けて、さらに驚愕する。
ローブをまとったその男は、両手首が失われ、顔には深い傷が刻まれていた。
痩せ細ったその顔――ゼオだった。
マリが震える。
「…………?」
ルカも目を見開いたまま、言葉を失っていた。
グレーンは無言のまま、ゼオを見下ろしていた。
カイが口を開く。
「さっき、森の警戒エリアにこのグレーンが現れてな。
最初は魔物の反応だったけど、すぐに分かった。デュラハンのヴィーブルの反応だったんだ」
マリが呟く。
「グレーン王子……なんか、ほんとに……変わったわね」
「……そうですね……」
ルカもうなずいた。
だがグレーンは、何も言わず、ただゆっくりと皆の顔を見渡した。
カイがその沈黙を破った。
「……さて、グレーン。みんな揃った。……話を聞かせてもらおうか?」
グレーンは、深く息を吐いた。