184.リュシアの魔法
エルフの森は、見る影もなく荒れ果てていた。
木々の幹は焼け焦げ、枝は折れ落ち、地面の土はむき出しになっていた。
あたりには、黒い灰が舞い、鼻を突く焦げた匂いが染みついている。
空は晴れているはずなのに、どこか鈍く霞んでいて、静けさがやけに耳に痛かった。
――まるで森そのものが、戦いの記憶を刻んで泣いているかのようだった。
戦いを終えた者たちは、森のわずかな木陰に身を寄せ合っていた。
包帯でぐるぐる巻きにされた身体。
その顔には疲労と痛みの色が濃く刻まれていた。
カークは片膝をついたまま、ぐったりと肩を落とし、キースは木にもたれかかりながら、静かな寝息を立てていた。
マリとミーアは傷つきながらも、誰かの止血や手当てに必死だった。
その中で、ひときわ重い空気が漂っていたのは――ヒルダの元だった。
地面に敷かれた布の上に、ヒルダは横たわっている。
呼吸は浅く、胸がかすかに上下しているが、唇は血の気を失い、肌は青白かった。
その腹部には黒く焼け焦げたような傷跡が残っており、まるで蛇のように、そこから黒い瘴気が漂い出ていた。
マルギレットが両手をかざし、光の魔法を放ち続けていた。
「……光よ、命を癒やし給え、《セレス・リュクス》……!」
光の粒がヒルダを包み込むが、瘴気は微かに揺れるだけで、消えなかった。
「届かんのか……この程度では……」
歯を食いしばりながら、魔力の限界を越えて魔法を重ねるマルギレット。
その隣では、ルカが涙を浮かべながら詠唱していた。
「お願い……お願いだから、届いて……! 《ルーメ・サナティオ》!」
オリビアもまた、震える声で祈るように魔法を紡ぐ。
「……せめて……この痛みだけでも、和らいであげたいのに……!」
三人の魔法が重なっても、黒い呪いは揺らぐだけで、なおも腹部にまとわりついていた。
「な……なんでじゃ……なぜ、効かぬのじゃ……!」
マルギレットの声がかすれる。肩で息をし、額から汗が滴り落ちる。
それでも、手は止まらなかった。
カイは拳を握りしめ、立ち尽くしていた。
震える唇を噛みしめ、胸の奥から沸き上がる怒りと無力感に、膝が崩れそうになっていた。
「なんとかならないのかよ!!」
怒鳴り声が森に響き渡った。
地面を蹴りつけ、拳を振り上げ、それでもどうにもできない自分に、怒りが募っていく。
その背に、そっと腕が回された。
「……カイ、大丈夫。大丈夫よ……」
マリだった。
彼の背中に寄り添い、震える腕でしっかりと抱きしめた。
「先生は、私たちを守ってくれたのよ……命を懸けて……」
「……俺が、もっと早く……もっと、力があれば……」
「もう、責めないで……カイは、誰よりも頑張った。……私は、知ってるから……」
マリの声も涙声だった。
カイの肩が、小刻みに震えていた。
ヒルダの傍らでは、ルカとオリビアがそれでも魔法を止めずにいた。
「……なんともならないのね……!」
ルカが嗚咽交じりに叫んだ。
「呪いが……強すぎるのね……こんな、こんなの……!」
「光の魔法じゃ……剥がせない……」
オリビアは震えながら、それでも手を止めなかった。
「……これは……ただの傷じゃないの。魂の芯を蝕んでる……!」
マルギレットがヒルダの頬をそっと撫でる。
「……すまぬのう、ヒルダ……わしの力では……この呪いを、祓うには足りぬ……」
重く沈む空気。誰もが無言になった。
そのとき――
森の奥から、足音が静かに近づいてきた。
「……リュシア……?」
カイが顔を上げ、息を呑んだ。
薄緑のマントを纏い、白銀の髪を揺らしながら、リュシアが現れた。
その瞳は森のように静かで、けれどもその奥に燃える意志の光があった。
リュシアは何も言わず、ヒルダの元へと膝をつく。
静かに手をかざし、瞳を閉じた。
その両掌から――七色に光る、美しい魔法の粒が溢れ出した。
「なっ……これは……!」
マルギレットが目を見開いた。
「こんな魔法……見たことがない……!」
魔法の粒は空中で弧を描き、ゆっくりとヒルダの腹部に降り注いでいく。
まるで繊細な布を織り込むように、呪いの瘴気に触れ――そして、それを穏やかに包み込むように、溶かしていった。
「見て! 呪いが……!」
「消えていく……!」
紫色に染まっていた瘴気が、七色の光に包まれて、ゆっくりと剥がれ落ちていく。
やがて、すべての呪いが溶けるように消滅し、空気が一瞬、澄みきったように感じられた。
「いまじゃ! ここからが勝負じゃぞ!」
マルギレットが叫び、三人の光魔法がさらに強く輝き始めた。
「《セレス・リュクス》、完全回復……!」
「光よ、癒しの息吹を……《ルーメ・インフィニタ》!」
「お願い、ヒルダ先生を――!」
光がヒルダを包み込む。
その腹部の傷が、ゆっくりと、しかし確かに――閉じていった。
カイはその光景を、ただ茫然と見つめていた。
膝が砕け、力が抜ける。
「……よかった……」
そのまま尻もちをつき、握った拳が開かれた。
指の間から、ぽたぽたと涙が落ちる。
「……ほんとに、よかった……先生……」
その声に、周囲の者たちもまた、涙を流した。