181.魔素の自転車操業
デュラハンの愛馬――コシュタ・バワーに跨り、グレーンは雪山を背にして駆けていた。
冷たい風が頬を叩き、雪の斜面を越えて吹き抜けていく。
だが、デュラハンの補助魔法によって寒さは感じない。
代わりに、胸の奥がひどくざわついていた。
後ろには、ぐったりとしたゼオの姿がある。
両手首と足首を縄で縛られ、馬の背から転げ落ちぬよう、しっかりと固定されていた。
口は裂かれ、魔法も封じられ、呻き声ひとつ発することすらできない。
(……なんとも、惨たらしいことをしてしまった……)
グレーンは一瞬だけそう思ったが、すぐに打ち消した。
この男は、王国を、父を、何千という人々の精神を、魔法で意のままに操っていた。
その報いとしては、まだ軽すぎるほどだ――そう思い直した。
ゼオが聞いていないのを確かめながら、グレーンは心の中で静かに問いかける。
(デュラハン……このあと、俺たちはどこへ向かう?)
デュラハンの声が、澄んだ水のように脳裏に響く。
(はい。先ほど、水晶に莫大な魔素が流れ込んだ際、その源が“こちら”の方角から来たのを確認しました……。)
(こちら、とは……どの方向だ?)
(――エルフの森です)
「……エルフの……森だと?」
思わず、グレーンは小さく呟いた。
それは伝承の中だけの存在だと思っていた。
(そんなもの、実在するのか?)
(ええ、存在します。地図に記されぬ場所。人の足では辿り着けぬ“霧の境界”の向こうに、彼らは確かに息づいております)
(……そんな話、王国のどの書にも記されていなかったがな)
(王国が“記さなかった”のです。“記せなかった”とも)
グレーンは一瞬、背筋をぞわりと寒気が走った。
隠された歴史。人が忘れることを選んだ領域。
(それにしても……このゼオという男は、そこまで強大な存在だったのか?)
グレーンは、後ろに括られたゼオの姿をちらと振り返りながら、問う。
デュラハンの返答は、静かで重たかった。
(はい。あの水晶玉を媒介に、大量の人間の精神を束ね、操っていました)
(精神を……束ねる?)
(ええ。そして、操った者たちから“魔素”や“魔力”を吸収し、自らの術式を維持・強化していたのです)
(……なんだと……)
グレーンは、知らぬ間に拳を握っていた。
まるで――。
(……まるで、“魔素の帳尻合わせ”じゃないか)
(その通りです。吸い取り、蓄え、さらに広げ、また吸い取る……。その繰り返しにより、彼は王国規模の術式を展開するまでに至りました)
(国一つ殲滅できる力だと……?)
(ええ。ですが、水晶が砕けた今、その力の源は失われました。彼はもはや、ただの老いた術者に過ぎません)
(……いや、それも違うな。魔法も使えない“ただの人間”だ)
グレーンは冷たく言い放った。
馬の背でゼオがかすかに動いた気がしたが、意識があるのかも不明だった。
(それにしても……)
ふと、グレーンの思考が別の可能性にたどり着く。
(ゼオの水晶が壊れたなら……術式の中で操られていた王――父上も、解放されたのではないか?)
その問いに、デュラハンはしばらく黙っていた。
だが、やがて重々しく口を開く。
(……はい。その可能性はあります。ただし……)
(“ただし”……?)
(術式が解けた瞬間、その者の魂がどれだけ侵食されていたかにより、“死”が訪れることがあります)
(……死!?)
グレーンの表情が一瞬で強張る。
(……どういう意味だ?)
(術によって魂を長く拘束された者は、その影響で“意識”が本体に戻れなくなるのです。精神の空洞化、肉体の器だけが残る状態――)
(じゃあ……父は……!)
(可能性の話です。ただ……王がどれほど深く操られていたのかで変わります……)
グレーンは、唇を強く噛み締めた。
歯の奥に鉄の味が広がる。視界が、ほんの一瞬、滲んだ。
「……クソッ……!」
風が叫びをかき消していった。
コシュタ・バワーが、さらにスピード上げた。
まるでグレーンの心を感じ取ったかのように。
「……急ごう。父上が無事であることを、祈るしかない」
(はい。先を急ぎましょう。すべての始まりを知るために。そして、この戦いの根を断ち切るために)
馬上で揺れるゼオの体は、すでにただの“情報源”でしかなかった。
あとは、この男が語ることを聞き出し、エルフの森で真実を確かめるだけだ。
グレーンは馬のたてがみに手をやり、声を落として言った。
「頼むぞ、コシュタ。お前の脚で、森の果てまで――飛んでくれ」
コシュタ・バワーは無い首を振って、応えた。
二つの影――グレーン、そして縛られたゼオは、
雪原を越えて、伝説の“エルフの森”へと向かって走り抜けていった。