174.幻影
クルドは、その場に立ち尽くしていた。
目の前で繰り広げられるやりとりが、ひとつも理解できなかった。
自分の隣にいたティリスが、何者かに成りすまされていた?
だが、あの仕草、あの声、あの口調――紛れもなく、幼い頃から知っている“ティリス”のものだった。
「な、なにを言ってるんだ……ティリスが…… そんなわけ……」
震える声で呟いたクルドの胸中には、混乱と恐怖、そして理解できぬ現実への拒絶が渦巻いていた。
まともに呼吸もできず、まるで深い湖の底に沈められたかのような重圧が、全身を締め付けていた。
「クルド、どけ」
ヒルダの声が冷たく響いた。
その手には、すでに攻撃魔法の詠唱が走り始めている。
「待って! やめてくれ!」
クルドが思わずヒルダの前に立ちはだかる。
杖を持つ手が震え、顔は蒼白だった。
「もしも、もしも憑依か呪術系の術式だったら……っ、追い出した瞬間、ティリスは……ティリスが死んでしまうかもしれない!」
「クルド、あなた……っ!」
ヒルダの眉がわずかに動く。
その一瞬の隙をついて、ティリス――否、“それ”が口角をつり上げた。
「ふふ……やっぱり面白いなぁ、エルフって。友情、愛情、信頼……それが全部足枷になるんだからさ!」
ティリスの顔が歪む。
片手に収まる銀の短刀を抜くと、いきなりクルドに飛びかかってきた。
「ティリスっ!? やめ――」
「クルド!!」
直後、間に割って入ったのはカイだった。
抜いた剣の鍔で、ティリスの短刀を弾き飛ばし、クルドを背後にかばうように立つ。
「おい、なんなんだよこいつ……本当にティリスなのか……?」
剣を構えながらも、カイの声には明らかな迷いがあった。
その迷いを見逃さず、クルドが叫ぶ。
「だめだ! カイ、やめてくれ! お願いだ、攻撃しないで!」
「でもあいつは、今はもう――!」
「それでも、ティリスなんだ!!」
クルドの瞳から涙があふれる。
声が震え、言葉にならない想いがその叫びに込められていた。
ティリスが甲高く笑う。
「ヒャハハハ! いいねぇいいねぇ! 人間もエルフも、ほんっと面白い! 信じたいけど信じられない……だから躊躇うんだ!」
ヒルダの眉間に深いしわが寄る。
クルドを思えばこそ、手が出せない。
マリもルカも、ただ見守るしかできず、弓に矢をつがえることもできない。
「……仕方ない。クルド、信じてるぞ」
カイが静かに呟いた。
その瞬間だった。
「リュシアを連れて下がる!」
キースの声が響く。
カークとともに、怯えて立ち尽くしていたリュシアの手を取り、木陰へと避難させる。
一瞬、ティリスの目がそれを追った。
「――っ!」
その隙を、カイは見逃さなかった。
「すまん、ティリス……!」
一気に踏み込むと、剣の代わりに拳を握りしめ、ティリスの腹部に重い打撃を叩き込んだ。
「ぐぅっ……!」
目を見開いたティリスの体が弧を描いて後方へ飛び、倒れ込む。
そのまま動かなくなった。
「……気絶させた、だけだ」
カイが息を荒げながら言う。
「これで、術式が弱まれば……本物のティリスに、戻るかもしれない」
クルドが駆け寄り、ティリスの傍に膝をつく。
「お願いだ……生きていてくれ……ティリス……」
一同が静まり返る。
ヒルダが、わずかに力を抜いて魔力を下ろした。
遠く、森の外では、なおも軍勢が陣を張り続けていた。
ドレイアの黒い影が、空に弧を描いている。
内に“敵”を抱え、外にも“敵”が迫る。
四面楚歌とはまさにこのことだった。
カイは沈黙の中、ただ空を見上げていた。
「……一体、どうすればいいんだ……」
冷たい風が森を抜け、誰も答えを返せなかった。