170.絶望の朝
朝日が昇ろうとしていた。
夜の帳がようやく薄らぎ、東の空がわずかに朱を差し始める。だが、その光は戦の焼け跡を照らし、安らぎとは程遠い、不穏な色をまとっていた。
大規模な夜襲こそなかったものの、小隊単位での敵の動きは断続的に続いていた。
時折、闇に紛れた敵兵が城壁へと忍び寄ってきたが、すべて四大魔女の放つ結界魔法や索敵魔法によって排除された。緻密な連携と圧倒的な魔力が、夜を支配しようとする者たちをことごとく焼き払ったのだ。
しかし――その代償は、あまりにも大きかった。
ヒルダたちは、塔の一角に設けた簡易の拠点に戻ってきていた。
それぞれ壁にもたれ、深く息を吐く。誰もが顔色を悪くし、額には冷たい汗が滲んでいる。
「……魔素の底が、見えてきたのぉ……」
マチルダが杖を支えに立ちながら、どこか遠くを見つめて呟いた。目の下には濃い隈が浮かび、声もかすれている。しかし、どこかワザとらしい。
「これ以上、無理はできませんな……」
オリビアも膝に手をつき、呼吸を整えようと肩で息をしていた。
しかし、これもどこかワザとらしい。
「補充しなければ……次の波には耐えられない」
ヒルダは真剣な眼差しでカイを見た。
これも、どこかワザとらしい。
その視線に、カイは小さくため息をつきながら目を伏せる。
「……また……」
「いやだ……もう、いやだ……」
本音が、ぼそりと漏れた。
「頼むのね……」
オリビアが申し訳なさそうに、頭を下げた。
これもワザとらしい。
「世界のためじゃ、我慢せい!」
マチルダが容赦なくカイの背中を叩いた。
「ぐえっ……!」
すでに半分白目のカイの肩に、またもやあの卵型の魔素製造機――ボルクが、ちょこんと飛び乗る。
「さぁ、カイ!口を開けるんじゃ!」
「やめろぉぉぉぉ!!」
しかし、カイの抵抗は無駄だった、誰かが身体を固める魔法を掛けた。
そして再び、あの儀式――いや、拷問に近い魔素の受け渡しが始まる。
唇を奪われるその光景に、もはや誰も突っ込む気力すらなかった。
ただ一人、マリだけがそっと顔を背けていた。
ボルクから流れ込む膨大な魔素は、カイの身体を経由し、再び四大魔女たちへと分配されていく。
カイは膝をつき、全身から湯気を立てながら呟いた。
「……俺の尊厳が……また死んだ……」
マリがそっとタオルを差し出して言う。
「でも、ありがとう……カイ……ほんとうに」
ルカが静かに問いかけた。
「ところで……あの、大きなクリスタルはどうしたの?」
その言葉に、カイの背筋がぴんと伸びた。
(あ……あれに魔素を直接流し込めば、わざわざブレスレットにため込む必要もなかったんじゃ……?)
完全に抜けていた。
カイはそっと考えるのをやめた。
それを見ていたボルクが、再び躊躇なくカイの唇を奪う。
「うぐぐぐぐぐぐ!」
抱えていたクリスタル球が、淡く光り始める。
透明だった球体は、紫を帯び、やがて黒に近い濃紫へと変化していった。
「すさまじい魔素だ……」
ヒルダが息を呑むように言った。
「これで、しばらくは持つな……」
「なぜこれに気が付かなかったのか……」
その言葉に、カイはひきつった笑みを浮かべた。
もう何も言いたくなかった。
補充を終えた魔女たちの顔色が、徐々に戻っていく。
身体を伸ばし、息を吐くマチルダ。
オリビアが軽く指を鳴らすと、風が巻き起こった。
「ふふ……また戦えるのね」
オリビアの穏やかな笑みに、他の魔女たちも頷いた。
マルギレットが、東の空を見上げて指差す。
「朝じゃ……また、地獄の一日が始まるのじゃ……」
陽は昇る。
だが、それは希望の光ではなかった。
血と煙と爆炎の匂いを照らす、冷たく無慈悲な光だった。
そして、再び――角笛の音が、戦いの始まりを告げる。