164.泥沼
どれほどの時が流れたのか――
塔の上から見下ろすその景色は、もはや“戦場”ではなかった。
それは、“屍の海”だった。
城壁の上から次々に落ちていく敵兵。しかし彼らの死体が積もり積もり、地上から続く斜面――血のスロープとなって、再び降下の道となっていた。
ゴーレムたちがそのスロープから降りてきた敵兵を叩き潰していく。石と肉がぶつかる音が、無情にも響き渡った。師団の数も、目に見えて減ってはいた。
……あの空の禍鳥さえいなければ、まだ希望はある。
誰もがそう感じていた。
塔の最上階に集った魔女たちと騎士たち。その誰もが、限界を悟りながらも、立っていた。
塔は高く、風が強い。空気が冷たい。けれど、それよりも心を冷やすのは、地上を埋め尽くす敵兵の群れだった。
ヒルダが、重く瞼を下ろしたまま、呟いた。
「……なんとも、言えない光景だな……」
言葉にするのも、恐ろしい。地獄絵図とは、こういうものなのだと誰もが思った。
少しずつ、敵兵の城壁への突撃が減っているのが見えた。
ヒルダは塔の中央にいる者たちに向き直る。
「……ここで、一気に叩く。まだ手はある」
ミーアとオリビアが即座に反応した。
「……了解、私の水魔法、全力で使うわ」
「緑魔法も……残り少ないけど、やってみせるのね」
ヒルダは小さくうなずき、疲れ切った身体を再び立たせた。
「私の闇魔法とミーアの水魔法、それにオリビアの緑魔法……3つを合わせれば……沈められる……!」
塔から突き出た、魔術用の狭い石の足場。それぞれの魔女がその先端に立った。背に風を受け、下に地獄を見ながら――三者三様に、命をかけた詠唱が始まった。
詠唱が終わると、黒い風がうねるように地表へ走った。
次の瞬間――地面が“沈んだ”。
黒く濁った沼のようなものが広がり、そこにいた敵兵たちの脚が、ずぶずぶと飲み込まれていく。彼らの絶叫と悲鳴が重なる。
「くそっ!足が抜けねぇ!」
「なんだこれは!?動けねぇ!!」
そして沼から、無数の緑の蔦がうねるように現れ、敵兵の身体に巻きついた。
締め上げ、引きずり、沈めていく。
――その中には、ゴーレムの姿もあった。
敵を抱えながら、共に沈んでいく。
それは、まるで捧げるような自己犠牲だった。
「……私の……魔素は尽きた……だが、これで……かなり減らせた……」
ヒルダは膝をついた。顔を上げることができず、ただ黒い沼を見下ろしていた。
「……すまない……ゴーレム……」
その背中を、ミーアが悲しげに見つめていた。
誰よりも冷静だった彼女の瞳にも、濡れた光が浮かんでいた。
やがて、数十分の後――
闇の沼に飲み込まれた敵兵たちは、全て動きを止めた。静寂が戻る。
カークが呻くように言った。
「……なんとかなっちまうもんだな……」
キースも、重い息を吐きながらうなずいた。
「少しは……希望が見えた……」
だが――
ヒルダが、目を閉じたまま低く言い放つ。
「……敵兵はまだ来るぞ……今ので潰したのは、3つ出ている師団の……最初の1つに過ぎん……」
その言葉が放たれた瞬間――
空気が、“死んだ”。
誰も、言葉を返せなかった。
誰も、立ち上がろうとしなかった。
絶望という名の闇が、再び心を塗り潰していった。
ルカは、頭を抱え込んだ。
マリは、唇を噛みしめすぎて血を滲ませた。
ミーアは無言で目を伏せ、肩を震わせた。
キースとカークでさえ、剣を手から落としかけていた。
そのとき――
“ドン……ドン……ドン……”
地面を叩く音が響いてきた。
塔の外――城壁の向こう――
新たな師団が到着したのだ。
武器の柄で地面を打ち鳴らす、その一定のリズム。
それは鼓舞ではなく――恐怖の演出。
相手の心を砕く音。
マリが、心の底から漏らすように言った。
「……もう……だめだよ……」
その声は震えていたが、不思議と静かだった。
その時だった。
「……あれは……何なのね……!?」
オリビアが叫び、東の空を指差した。
皆が顔を上げる。
――空に、一筋の光が走った。
雲を裂くように。風を裂くように。
まっすぐに、塔の上空へ。
ヒルダは、それが何であるかを知っていた。
「……グリフォン……!」
誰かが、呆然と呟く。
空を駆けるその白銀の翼は、あまりにも鮮烈だった。
あれだけの黒と絶望に覆われていた空に、
あの一筋の光は――確かな“希望”の形だった。
誰かが来た。
あの空を割って。
「……まさか……」
ヒルダの目が見開かれた。
マリが涙を流しながら、両手を胸に合わせる。
「カイ……? カイなの……!?」
そうしている間にも、白銀の影は、夜を裂くように彼らのもとへと迫っていた。
――その羽音は、ドレイアのそれではなかった。
それは、誰かを救いに来る音だった。
終焉の始まりに射す、一筋の救済の光。
そして、反撃の序章が……ようやく、始まるのだった。