160.押し寄せる敵の波
川向こうの台地には、整然と並ぶ兵士たちが果てしなく続いていた。
鉄の鎧が夕陽を鈍く反射し、軍旗が風にたなびく様子は、一種の不気味な静けさを孕んでいた。
しかし、何かが――違う。
マチルダが眉をひそめ、つぶやく。
「なぜ……人間族の軍に……オークがいる……?」
その言葉に、周囲の空気が凍りついた。
マリ、ルカ、ミーア、そしてオリビアまでもが、声を漏らす。
「ど、どういうことなのよ……? 」
川向こうの混成師団は、明らかに異様だった。
人間とオークが同じ鎧を纏い、同じ隊列に並んでいる――そんなはずがない。
ヒルダが険しい表情で言う。
「……操られているな、これは」
マチルダが唇を噛む。
「こんな数を、同時に……意識を保ったまま支配できる魔法なんて……」
マルギレットとオルガも顔を曇らせる。
「……この世に、存在するはずがないのじゃが……」
何か、おぞましい記憶が脳裏をかすめたが、それを思い出したくなかった。
突然、戦列の中心にいた巨大なオークキングが、天に向かって角笛を吹き鳴らした。
不気味な低音が大地に共鳴する。
その合図とともに、師団の兵たちが一斉に剣や斧、杖を地面に叩きつけ始めた。
小さな音が、幾千、幾万と重なることで、まるで地鳴りのようなリズムを刻み始める。
一糸乱れぬ動き。
オークと人間がここまで統率されているなど、常識ではありえなかった。
ヒルダが息を呑む。
「……これは、ただの兵士じゃない……意志なき軍隊だ……」
巨大なオークキングが雄叫びをあげ、斧を天高く掲げた。
その合図で、師団が一斉に動き出した。
「来るぞ!」
兵たちは川など意に介さず、次々と飛び込み、泳ぎながらこちらへと突き進む。
マリが声を張り上げる。
「このままじゃ……普通に越されちゃうよ!」
ヒルダは冷静に頷いた。
「……策は打ってある。ミーア! オリビア! 頼むぞ!」
二人が杖をくるくると回し、詠唱を始める。
まずオリビアの詠唱が終わり、光が彼女の杖から放たれた。
「……『ルミナス・サンクティア』なのね……」
川の海水が淡い金色に輝き出すと、渡河中のオークたちが一斉に苦しみ始めた。
体をよじり、断末魔を上げながら、水中に沈んでいく。
「今、あの川の水は“聖水”となったのね。魔物たちにはたまらないのね!」
しかし、人間たちには影響がなかった。
彼らはなおも無表情で泳ぎ続けてくる。
ミーアが静かに詠唱を終える。
その瞬間、何も起きなかったかに思えた。
だが、数秒後。
「……ん? なんか北の空が……!」
マリが指差した先には、海側の地平線から巨大な波がいくつも迫っていた。
津波だ。
「『アクア・レクイエム』……。これは、仕留めるための水なの」
幾重にも重なる津波が押し寄せ、渡河中の兵士たちを飲み込み、川の流れごと押し返していく。
「やった……!? やったの!?」
喜ぶマリの横で、ミーアが小さく首を振った。
「……違うよ。僕ら、殺してるんだ……人間を……」
その言葉に、場の空気が重くなる。
マリが、ヒルダに詰め寄った。
「ねえ、先生……人間たちは、元に戻せないの?」
ヒルダは、目を閉じて答える。
「……呪われた者の心は壊れている。呪いが解けても、もとの人格は戻らない。残念だが……それが現実だ」
「……なんてひどいことを……!!」
マリは唇を噛みしめ、拳を握りしめた。
しかし、それでも敵の数は尽きなかった。
川の底に沈んだ無数のオークたちの死体を踏み台に、残された人間たちが川を渡り始めたのだ。
まるで、生ける屍の上に橋を築いているようだった。
「もう来る……もうすぐ……」
マリの声が震える。
ヒルダが叫ぶ。
「城壁を登らせるな! 奴らを落とせ!!」
マリ、ルカ、オリビアが弓を手に取り、次々と矢を放つ。
魔女たちは岩の塊を作り出し、それを敵に投げ落とした。
それでも敵兵はひるまなかった。
死体が積み重なり、やがてそれは傾斜のついたスロープのようになっていく。
「うそ……これって、マズいよね!? 本当にヤバいやつじゃない!?」
マリの叫びに、ミーアが手を振り上げる。
「『アクア・カスケード』!」
水流が壁を洗い流し、スロープを崩した。
「さすがミーアちゃん!!」
そう叫んだマリだったが、ミーアの表情は浮かない。
「……でも、このままだと……僕、魔素が切れちゃうよ……」
「えっ!? それって……じゃあどうすればいいの!?」
その言葉に答える者はいなかった。
戦場の音だけが、マリの叫びを飲み込んでいく。