158.始まり
「――来たぞ!! 戦闘態勢をとるのだ!!」
ヒルダの怒号が、城壁全体に響き渡った。
東の空を切り裂くように、ドレイアが迫っていた。
その姿は、あまりに巨大すぎて、距離の感覚が狂うほどだった。
空を覆い尽くす漆黒の翼、燃えるような瞳。
その羽ばたきは雲を払い、大地を震わせる。
(……近いのか……遠いのか……)
キースは拳を握りしめ、冷たい汗を背中に感じながら見上げた。
(どこに斬りかかればいい? あれは……本当に斬れるのか?)
その瞬間――空に火球が舞った。
「――焔よ、我が杖に集いて舞い上がれ!」
マチルダの詠唱とともに、紅蓮の火球が生まれ、ドレイアへと放たれた。
その閃光は空を切り裂き、まっすぐに魔鳥の胸元を狙う。
だが――その火球は、直前で何かに弾かれた。
爆風とともに、空間が歪む。
その影から、黒い人影が浮かび上がった。
「……ノクルス……」
ヒルダの顔から、一瞬で血の気が引いた。
杖を持つ手がわずかに震える。
「なんに……ノクルスって……?」
マリが息を呑んだ。
マチルダの火炎魔法を、指一本で弾いたその男――
漆黒のコートに深く被っているフード、ノクルス。
「おいおい……冗談だろ……」
オルガが低く呻いた。
マチルダの最強火球が、意図も簡単に弾かれた。
それが、マチルダの得意分野である火炎魔法だったからこそ、皆の背筋が凍りついた。
ヒルダが奥歯を噛み締め、叫んだ。
「――ルカ!! マルギレット!! ありったけの力で光魔法を放て!!!」
「承知なのじゃ!」
「任せて、ください!」
ルカとマルギレットが、同時に杖を天にかざし、詠唱を始めた。
「みんな、目を閉じるのね!!!」
オリビアの叫びが走る。
全員が瞬時に目を覆った。
次の瞬間――
「《フラーレ・インパルス!!!》」
天空が裂けるような轟音と共に、二条の閃光が奔った。
白銀の光が収束し、ドレイアとノクルスの影に直撃した。
一瞬、昼のような明るさが辺りを照らし、そして爆発が起きた。
――ズウゥウウウン!!!
空が揺れ、地が鳴り、川が怒り狂ったように逆巻いた。
爆発の中心にいたドレイアは、光の海に包まれ、その体をのたうた。
「きゃああああああああっ!!!」
マリが耳を塞ぎながら悲鳴を上げる。
「なにが……どうなったの!?」
叫んでも、自分の声さえ聞こえない。
光が散り、音が止み、空が元の暗さを取り戻した――
次に見えたのは、空中で体勢を崩し、もんどり打つ巨鳥の姿だった。
「ドレイア……墜ちる……!」
その背から、何かが弾き飛ばされていた。
「ノクルスが……落ちたのじゃ!!」
光魔法との相性が最悪だったノクルスは、爆風に呑まれ、ドレイアから落下したのだった。
乗り手を失ったドレイアは、一度は空から墜ちるが――
「……ちっ……しぶといわね……」
ヒルダが吐き捨てる。
翼を広げ、羽を震わせると、ドレイアは再び空を舞い、こちらを見下ろすように旋回を始めた。
その瞳に理性はない。ただ獲物を狙う猛禽のような、凶悪な本能だけが宿っていた。
――だが、それでも好機だった。
「金属音……!?」
オルガが振り返る。
その音は、鋭く、そして重く響いてきた。
魔女たちが視線を向けた先――そこには、地面に叩きつけられたノクルスと、
彼を迎え撃つキースの姿があった。
「ふん、落ちてきたな……闇の騎士さんよ……」
キースが刃を構え、目の前の敵を見据える。
「この俺が、地に足を着けた戦いで負けるわけがねぇんだよ」
ノクルスは口を開かず、ただ一歩、踏み出す。
キースも剣を横に構え、低く重い呼吸を整えた。
――ガギィィィィンッ!!!
二人の剣がぶつかり合った。
火花が散り、金属と金属が軋む音が響く。
魔力と剣気がぶつかり合い、地面を割った。
「今ここで、俺が食い止める……」
キースの顔に、いつもクールな顔だが笑みはなかった。
その表情には――覚悟が宿っていた。
その姿を見て、マリたちは息を呑む。
誰一人、声を発せなかった。
ヒルダは重く目を閉じた。
(……カイまだか……)
東の空は暗い。
だが、誰も気がついていなかった。
暗くなっている東の光を遮られていることを
それは、師団により作られた砂煙の雲によって。
そのことを理解するまでに、時間はいらなかった。