152.焦燥な森
呪いの森――その深奥にある、ヒルダの小屋。
鬱蒼とした森の奥、常に魔素が漂うこの地に、スタンハイムから出発した師団は、二度目の野営をしていた。
大地は震えていた。
空気は重く、夜であるのに遠くからうなるような兵士たちの足音が、微かに森の奥に響いてくる。
ヒルダの小屋では、緊張が張り詰めていた。
そこに集う者たち――カイ、マリ、ルカ、ヒルダ、そして森の精霊たちまでもが、皆、焦りと苛立ちを抱えていた。
部屋の窓辺に止まった一羽の鳥。
それは、オルガの使い魔である鳥の妖精だった。
その羽から零れ落ちる光が、空中に地図のような幻影を映し出す。
そして、淡く震える声で告げた。
「……師団、さらに東進。現在、第四標識を通過。森の影に、もう手が触れる距離……」
その報告に、室内の空気が一瞬凍る。
「また、近づいてきている……」
マリが唇をかみ、両手を組んだまま膝の上で強く握りしめた。
横でルカは、眉をひそめ、呪符を握った手に汗を滲ませる。
室内には、明確な言葉のない「焦燥」が立ち込めていた。
「……くそっ!」
カイが立ち上がり、机を叩く。
木の表面に拳がぶつかり、微かに光が弾けた。
「まだ止まらないのか!? あれだけ話したのに、グレーンは王を説得できなかったのか!?」
誰も返事をしなかった。
それが――答えだった。
「これ以上、奴らが進めば……全面戦争になる……」
ルカがうつむき、震える声でつぶやいた。
「数では勝てない……そうなれば、それはもう虐殺にしかならないよ……」
その言葉に、誰も否定の言葉を口にできなかった。
今、この瞬間にも森の外で、人々が命を奪われ、土地が焼かれている。
だが――何もできない。
この森を抜けたところで、今の自分たちには何も出来ない。
焦り。
無力。
怒り。
悔しさ。
全てが胸を焼いていた。
カイは、唇を噛み、瞳をギラつかせた。
「……もういい! ヒルダ先生、出ましょう!! 俺たちだけでも、止めに行きましょう!!」
その叫びに、空気がぴんと張り詰めた。
マリが、慌てて立ち上がり、カイの腕に手を添える。
「カイ……落ち着いて……お願い……今の私たちでは、何も止められない……死ぬだけよ……」
ルカも、小さくうなずき、言葉を絞り出す。
「力がないのに突っ込むのは……ただの無駄死にだよ、カイ……」
それでも、カイの怒りは収まらなかった。
拳を震わせ、顔を歪ませたまま、ヒルダを睨む。
「先生……俺はもう、待てません……!!」
ヒルダは、その怒気を真っ向から受け止めるように、じっとカイを見返した。
その瞳の奥には、炎のような覚悟と、冷たい理性が同居していた。
「分かっている。お前の怒りも焦りも……私だって、同じだ……」
ヒルダは振り返って、夜空を見上げた。
「……だが、今は“待つ時”なのだ……」
「そんな悠長な――」
その時だった。
夜空に、光の円陣が現れた。
それは、円を描くように浮かび上がり、次第に中央が淡く発光する。
「ヒルダ先生……あれって……!」
マリの声が震える。
そこから、ふたつの人影がゆっくりと現れた。
まるで夜空から染み出るように、足元から徐々に姿が形成されていく。
オルガ。そして、赤の魔女・マチルダ。
ヒルダが、感情を込めた声で叫んだ。
「――待ちくたびれたぞ!!」
すると、空から降り立ったオルガが、にやりと笑って返す。
「あらあら、ヒルダが熱くなってる……めずらしいわね。
カイの熱気にあてられたかしら?」
その言葉に、ヒルダはぷいと顔を背けた。
その背には、ぎゅっと握り締められた拳が――悔しさと覚悟を示していた。
すると、空気が一変した。
小屋の外、木々の間に突如、真っ白な小さな家が現れた。
そのドアが勢いよく開き、派手な羽飾りを揺らして現れたのは、マルギレット。
「待たせたのじゃ!!」
高らかなその声に、全員が振り向いた。
「マルギレットさん……!」
「これで……」
ヒルダが静かに呟いた。
そして、振り返って全員を見回す。
「――役者は揃ったな。作戦会議といこうか!」
全員がヒルダの小屋へと入る。
その瞬間、内部空間が魔法で拡張され、会議用の円卓が姿を現した。
椅子が現れ、皆がそこへと座る。
深く息を吸う者。
拳を握る者。
祈るように目を閉じる者。
どの胸の中にも、確かな「何か」が燃えていた。
そして今、ついに――運命を動かす者たちの会議が始まる。