151.沈黙の進軍
時は夕暮れへと傾きつつあった。
スタンハイム王国から北東へ――
一団の軍勢が、地を震わせながら突き進んでいた。
その最前線を駆けるのは、巨大な体躯を誇るオークの軍団。
それぞれが二メートルを超える肉体を持ち、手には人間の胴をも両断する巨大な戦斧を握っている。
毛むくじゃらの腕。
禍々しい牙をのぞかせた口元。
そして、鼻を鳴らし、獣のように唾を吐きながら地を蹴る脚――。
その後方には、人間の兵士たちが混ざっていた。
彼らは黙して語らず、ただ剣を腰に差し、重い足取りでオークたちの背中を追っていた。
その数、数千。
踏みしめる大地は、うなりをあげて揺れ、
舞い上がった砂煙はやがて雲のような塊となって、列の上に重くのしかかっていた。
行き先は、エルフの森。
全軍、ただひたすらに真っ直ぐ進んでいた。
途中、小さな村があった。
茅葺きの家が数軒並ぶ、平穏な集落。
だが、その静寂は、軍団の影に飲まれた。
オークたちは、無言で村に踏み込んだ。
叫び声も、悲鳴も、剣戟の音すら――なかった。
まるで風が通り過ぎるかのように、
軍勢は村を「通過」しただけ。
だが、その背後には――何も残っていなかった。
女たちは叫ぶ暇もなく引きずられ、
子供たちは泣き声すら届かぬままに消えた。
女と子供は、オークの“餌”だった。
数体のオークが、赤子を抱えたまま無言で走る。
力なく揺れるその小さな体を気にも留めず、
笑いながら、泥のついた舌をその頬に這わせていた。
その表情は、歓喜に満ちていた。
まるで、“贈り物”でも受け取ったかのように。
太陽が山の稜線に沈み、世界が静かに闇へと変わり始めた頃、
先頭を走っていたオークの王――オークキングが、大地に立ち止まり、角笛を吹いた。
ブオオオオォォォッ……!!
重く低いその音は、周囲の空気を震わせ、
進軍していた軍勢を一斉に停止させた。
角のように突き出た黒い顎を上げ、オークキングは周囲を見渡す。
「ここで止まる。夜営の準備をしろ」
その言葉に従い、オークたちは散開し、荒地に乱暴に荷を降ろし始めた。
地面を蹴って石をどけ、腕一本で木を引き抜き、
焚き火を作る準備に取り掛かる。
大地には、くぐもった呼吸音が広がっていた。
「ハァッ……ハァッ……ハアァ……」
どのオークも肩を上下させて息をついていた。
先ほどまで走りっぱなしだったため、さすがに疲労があるようだ。
その手にはまだ、人間の女や子供の姿が握られていた。
腕や足を縛られ、動くこともできず、ただ震えるだけの存在たち。
「まだ食わん……」
オークのひとりが、ぺっと唾を吐いた。
「森に着くまでは……“もたせる”」
彼らにとって、人間は保存食だった。
人間の兵士たちは、その様子をただ黙って見ていた。
彼らの目はどこも見ていない。
視線は定まらず、だが何かを見たくなくて逸らしているようでもあった。
彼らの鎧には、先ほど通過した村の血がべっとりと付いていた。
それでも誰一人として、洗おうとはしなかった。
オークキングはその様子を見ながら、にやにやと笑う。
そして、兵士たちの前に立ち、吐き捨てるように言った。
「お前たち人間の脚が遅いせいで、遅れてしょうがねぇ!」
誰も何も言わない。
「ま、いいさ。黙って俺たちについてくりゃ、それでいいんだ……」
オークキングは、自分の指に付いた人間の血を、
ペロリと舐めた。
その舌は異常に長く、ザラついた紫の色をしていた。
味わうように、目を細めて笑うその顔は、獣のそれにも似ていた。
兵士たちは、それでも何も言わない。
言葉は枯れ果て、魂はどこかに置き去りにされたままだった。
すると、火のそばで突然怒号が上がった。
「ウガアァァアアッ!!!」
一匹のオークが、空腹のあまり暴れ始めた。
地面を踏み鳴らし、隣のオークの頭を殴りつける。
「うるせえ!肉よこせぇえぇぇ!!」
頭を殴られたオークが、怒り狂って反撃――
他のオークたちがそれを取り囲み、次の瞬間には
ドグシャッ!!
グチャッ!!
鈍く、湿った音が立て続けに響いた。
殴られたオークは、腕を引きちぎられ、腹を開かれ、
即座に“食料”になった。
肉を噛みちぎる音。
骨を噛み砕く音。
血が地面に染み、火に当たって蒸発する音。
オークキングが大声で叫ぶ。
「おい!お前たち!
飯ができたぞォ!!」
それを合図に、オークたちは嬉々としてその死体に群がった。
笑いながら、唾を飛ばしながら、爪で肉を裂き、牙で骨を砕き、
まるで宴のように死体を喰らっていた。
それは、この世のものとは思えない光景だった。
人間の兵士たちは、その様子をただ黙って見ていた。
目を逸らすこともなく。
拒絶することも、反抗することもなく。
彼らの中の“人間”は――もう、とうに死んでいたのかもしれない。