150.空からの不幸
静かに、グレーンとデュラハンは川を遡っていた。
風が木々を揺らし、流れる水音が絶えず耳をくすぐる。
道なき道を進みながら、ただ目指すのは、遠くにそびえる雪の山――呪いの源。
重く沈黙した空の下で、彼らの影だけが岩と苔の上に静かに伸びていた。
しかし――その時。
ドウウゥン!
とある村。
空気を裂くような巨大な羽ばたき音が、大地を震わせた。
一瞬、木々の葉がざわめき、獣たちが一斉に逃げ出す。
空を見上げた者は、恐怖に凍りついた。
そこにいたのは、黒い巨鳥――ドレイア。
全長十数メートルはあろうかという巨体。
翼を広げたその姿は、まるで空そのものが落ちてきたかのような重圧だった。
背には、黒いコートにフードを深く被ったノクルスが乗っている。
顔は見えない。
時々風でめくれて見える、腐ったような肌。
黒く歪んだエルフの耳と、何も映さぬ瞳。
ドレイアの影が、平和な人間の村を覆い尽くす。
その刹那――混乱は始まった。
村の広場にいた少年が、最初に悲鳴を上げた。
次に、家の窓から外を見た老婆が、震える声で叫ぶ。
そして村中に、一斉に絶望の波が走る。
「う、うわああああああああっ!!」
逃げ惑う者。
子を抱えて転ぶ母親。
牛を追って納屋から飛び出す農夫。
鐘の音が鳴り響く。非常を告げるが、助けは来ない。
ドレイアが、獣のように咆哮した。
その口には、鋭く湾曲した牙がびっしりと並び、
その爪は、大人の胴ほどもある巨大な鉤爪。
それが、狂ったように人々を掻き裂いた。
ひとりの若者が逃げようとした瞬間、
ドレイアの爪が彼の身体を掴み――空高く持ち上げ――
ゴシャッ!
草原へ、まるでゴミのように投げ飛ばされた。
その音が、骨の砕ける音か、大地が潰れた音か、
誰にも分からなかった。
ただ、血が跳ね、静かになった。
数人の兵士が勇気を振り絞り、弓矢を構えた。
目を見開き、狙いを定める。
「――放てっ!!」
鋭い矢が、空を切り裂く。
だが――すべてが弾かれた。
ドレイアの羽の羽の前には、どれも無力、
どれだけの矢も、まるで紙くずのように跳ね返された。
次の瞬間――
ドレイアが、翼を大きく広げた。
空が歪む。
風がうねる。
**バァン!!**という音と共に、
羽ばたきから生まれた突風が、村全体を襲った。
木造の家々は、まるで積み木のように崩れ落ちた。
屋根が吹き飛び、壁が裂け、床ごと押し流される。
家と家がぶつかり合い、砕け、舞い上がり、
その破片が逃げ惑う人々を粉砕していった。
叫び声。
助けを呼ぶ声。
祈り。
すすり泣き。
すべてが、風の音にかき消されていく。
ノクルスは、ドレイアの背で立ち上がった。
その手のひらに、一本の漆黒の杖が魔素の渦から現れる。
無表情のまま、杖を空に掲げる。
「…………」
無言だった、無詠唱。
だが、空が応えた。
ゴオオオオオオ……!!
空中に、巨大な火球が生まれた。
赤く燃え上がるそれは、太陽よりも邪悪で、夜よりも凶悪だった。
黒い炎。
ノクルスがその杖を下ろしたとき――
火球が、村に落ちた。
爆風と炎が一気に広がり、
家々を、畑を、動物たちを――人間たちの命そのものを焼き尽くした。
牛が燃え、鶏が炎に包まれ、子どもが母を抱いたまま火に吞まれる。
男が叫び、老婆が泣き叫び、少女が地面を爪で引っかいて逃げようとする。
だが、すべては炎に呑まれた。
やがて、村から音が消えた。
風の音だけが残った。
それは、もう悲鳴を上げる者すらいなくなったということだった。
黒煙が村を覆い尽くし、燃えた家畜の骨が、赤く燻っていた。
ノクルスは、無言でドレイアに命じる。
ドレイアがゆっくりと翼を広げ、再び空へと舞い上がる。
まだ“狩り”は終わっていない