146.呪いの跡・追跡
スタンハイム王国――その首都ベンゲルの郊外。
夜の余韻がまだ残る草原のど真ん中に、黒い影が浮かび上がる。
そして、地を割るようにして現れたのは、馬にまたがる首のない騎士――デュラハン・ヴィーブルと、その横にいたのはグレーン王子だった。
東の空には、まだ顔を出しきれていない朝日がぼんやりと地平線を照らしていた。
夜明け直前の冷えた風が二人の衣服を揺らす。
「……一瞬で……こんな場所まで来てしまうとは……」
まだ身体の感覚が地に着いていないグレーンは、足元の草を確かめるように踏みしめながら呟いた。
それからふと、隣に立つ騎士へと視線を向ける。
「……そういえば、お前のことは、何と呼べばいいんだ?」
デュラハンは静かに首のない兜を持ち直し、丁寧に返答した。
「ご自由にお呼びいただいて構いません。かつては“ヴィーブル”と呼ばれておりましたが、今はただのデュラハン――それで結構です」
「……そうか。それなら、“デュラハン”と呼ばせてもらおう」
グレーンがそう言うと、デュラハンは胸に手を当て、一礼した。
「……それで、デュラハン。なぜここに? 教会本部は城のすぐ近くにあるはずだ。どうして郊外に来た?」
「呪いの痕跡が、この東の方角へと延びておりました。魔素の糸が、風のように引かれております」
そう言って、デュラハンは左手に持った兜を東へとかざす。その仕草は、まるで指し示す儀式のようだった。
グレーンは小さく息を呑む。
「……東か……何がある? まさか……教会の外に何かが?」
「それは、これから明らかにしていきましょう」
「だが、移動手段はどうする……どれぐらいあるのか分からないが、さすがに歩くわけには……」
「ご安心を。わたくしの愛馬“コシュタ・バワー”にお乗りください」
デュラハンは馬から軽やかに降り、グレーンに手を差し出した。
グレーンはその馬を見たが……そこにあるのは、首のない馬――まさに不気味そのもの。
「……この馬も、首が……ないのか……」
逡巡する。だが今さら怖気づいていられる状況ではない。
グレーンは覚悟を決めて、馬の背に飛び乗った。
次の瞬間、デュラハンの姿が淡く揺れ、足元から影へと溶けてゆく。
そして、その影がコシュタ・バワーの影と一体化して、馬全体が漆黒の鎧のような存在となった。
「行きましょう――」
コシュタ・バワーは静かに駆け出す。
だが、すぐにその速度は常識を超えていた。
「んん――!?」
体が風にあおられ、背中から振り落とされそうになる。
草原の景色が、まるで滝のように後方へ流れていく。目が回り、思考が追いつかない。
そして森へと突入する。
木々の間を縫うように、紙一重の距離で樹を避けながら突き進む馬――
(この馬……いや、これはもう乗り物というより……凶器だ!)
その時、不意にコシュタ・バワーの首の断面から、兜がぬっと現れた。
目の前に突き出された兜に、グレーンは思わず叫んだ。
「わあっ!」
「具合が悪いのでしょうか? 少し休まれますか?」
声は穏やかだが、兜が首から生えているように見える光景に、理性が崩壊しそうになる。
「いや! ……いや、大丈夫だ! このまま進め!」
必死で覚悟を決めるグレーン。
その気迫を感じ取ったのか、デュラハンは静かに速度をさらに引き上げた。
やがて――
前方に、巨大な土煙が立ち上る光景が見えてきた。
視界の端に、延々と続く軍勢の列。
数千、いや万を超えるかと思えるほどの兵士の波――それは、スタンハイムから進軍していた大師団だった。
「……あれが、王都から出た軍か……追いついたのか……」
土煙は空まで届きそうなほどに立ち上り、雲のようにたなびいていた。
その異様な規模に、グレーンは声を失いかける。
デュラハンが問う。
「このまま軍を追い抜くことは可能です。ただ、視認される恐れもございます。……どうされますか?」
「……接触は避けよう。この数との戦闘は死に直結だ。慎重に行くべきだ」
「御意」
コシュタ・バワーは滑るように進路を東へ逸らした。
だが、次の瞬間――
「ちょっと待て!」
「どうかなさいましたか?」
グレーンは身を乗り出し、軍の後方を指差した。
その視線の先には、通常の兵士とは明らかに異なる異形の姿があった。
分厚い筋肉、緑色の肌、鋭い牙と長い腕。
その者は、大斧を肩に担ぎ、周囲の兵士を威圧するように歩いている。
「……あれは……なんだ……? あれは兵士じゃない……魔物じゃないか……!?」
「……はい、あれはオークでございます。しかも、かなりの数……中には“オークキング”の姿も見えます」
「なんだと……!? あれ全員が、オーク……? なんで王国の軍に魔物がいるんだ!? 馬鹿な……!」
グレーンの視界がぐらりと揺れる。
頭の中で警鐘が鳴る。思考が混線し、呼吸が荒くなる。
(なぜだ……なぜ、魔物が我が軍に……!? 父上は、そんな命令を――いや、父上自身が……)
「……父上は……一体、何をしている……? これは、正気の判断じゃない……」
その声は、もはや自問に近かった。
王である父が、民の命を大切にしていた父が、魔物の軍を進軍するなど――常識では考えられない。
「グレーン様。……そろそろ距離を取らなければ、我々の存在が感知されてしまいます」
デュラハンの冷静な声に、ハッと我に返ったグレーンは頷いた。
「……すまない、頼む。まだ……まだ全貌が見えない。だが――必ず真実を突き止めてみせる……!」
コシュタ・バワーは方向を変え、新たな森の影へと姿を消した。