134.リュシア
海底神殿から飛び立った二人……いや、三人は、取り急ぎエルフの森へと向かっていた。
エルフの森なら、人間族の目に晒されることはない――そう、二人は考えていた。
夜の空を音速に近い速さで飛行するファルコン。その背にはクルドとティリス、そしてマントに包まれた少女がいた。
クルドは少女をしっかりと胸に抱いていた。風を受けてなびく銀髪が、月明かりを浴びて柔らかく光っている。あまりの静けさに、まるで時間が止まっているかのようだった。
そのとき――
「ん……」
クルドの腕の中で、少女のまぶたがピクリと震えた。
「……あら、起きちゃった?」
小声でささやくクルド。
少女はゆっくりと瞳を開いた。目の奥には、まだ眠気と戸惑いが滲んでいる。
「大丈夫?気分は悪くない?」
クルドが優しく問いかけると、少女は小さくうなずいた。
「よかった……」
ティリスもホッとしたように息をついた。背中の風を受けながら、ちらりとクルドと少女の方を振り返る。
「君、名前はわかる?」
クルドが少女の顔をのぞき込みながら、やさしく尋ねる。
「私はクルド。こっちのへらへらしてるのがティリスっていうの」
「へ、へらへらって……僕、ちゃんと真面目にしてるよ?」
ティリスが少し抗議めいた声を上げるが、クルドは軽く笑って無視した。
少女は、数秒考えるように沈黙した後、小さな声で答えた。
「……私の名前は……リュシア……」
「リュシアちゃんね!」
クルドの顔がぱっと明るくなる。
「素敵な名前ね、リュシアちゃんって呼んでいい?」
少女は一瞬だけ戸惑ったが、すぐにこくりとうなずいた。
「うん……クルド……」
初めて名前を呼ばれたことに、クルドの胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
「よかった、ちゃんと話せるみたいだね」
ティリスが安心したように微笑む。
「でも……リュシアちゃん、君が“フォースドラゴン”だってこと、覚えてる?」
その言葉に、少女――リュシアはほんの少しだけ表情を曇らせた。
「……なんとなく……わかる……でも……全部じゃない……」
「記憶の一部が封印されてるのかもね」
クルドが静かに言った。
「うん……夢の中で、誰かが……“しばらく眠ってなさい”って言ってた……」
ティリスが眉をひそめる。
「誰かって……まさか、国か、教会の関係者か?」
「わかんない……でも、怖くはなかった……優しかった……でも、悲しそうだった……」
「悲しそう……?」
その言葉に、クルドとティリスは顔を見合わせた。
「それって、本当の敵じゃない可能性もあるってこと……?」
「まだわからないけど……何かあるのは確かだね」
夜風が三人の間を吹き抜けていく。冷たいはずの空気が、今はどこか、優しく感じられた。
クルドはリュシアをもう一度、やさしく抱きしめる。
「大丈夫。もうあなたを一人にはしないから」
リュシアのまぶたが、再びゆっくりと閉じられていった。
「……ありがとう……クルド……」
「うん、おやすみ、リュシアちゃん」
ティリスもそっと微笑みながら、進路を確認した。
「あと一時間もすれば、エルフの森に着く……無事に帰れるといいけどね」
「ええ……きっと大丈夫。私たちが守るんだから」
二人の声を聞きながら、リュシアは眠りについた。
月明かりの下、三人を乗せたファルコンは、静かに夜空を駆け抜けていった――。
……が、次の瞬間だった。
クルドの背筋がゾワリと震えた。
「ん……? なんだか、空気が……冷たい……? というか……」
彼女の視線がふと下へ向く。地面が――いや、雲が――遥か下に見える。
「……ひ、高い……っ!!」
顔面が一瞬で青ざめるクルド。
「ちょ、ちょっと待って!? ここ、どこ!? 空!? 飛んでるの!? 私、空を飛んでるの!?」
「えっ!? 今さら!?」
驚くティリス。
「やっぱりだめぇぇぇええええ!!!!!」
クルドの絶叫が、夜空に響き渡った。
リュシアはそれでもスヤスヤと眠っていた――。