129.森の妖精
――ランヒルドの深い森は、故郷の匂いがした。
クルドが足を踏み入れると、樹皮に走る紋様や葉脈が微かに蠢き、道筋をずらしていく。外敵を拒む“生きた結界”だ。
「……変わらないな」
苦笑した刹那、古びたマントに夜風が絡みつく。前方の枝先に止まる一羽のフクロウが、金色の双眸で射抜くように睨んだ。
「わたしだ。長老の娘――フェイウィンド家のクルド・エルセリオンだ! 門を開けてくれ」
合図を終えると、フクロウは静かに翼を広げ森奥へと消える。途端に大樹たちが道を割き、緑の回廊が姿を現した。
日光さえ届かぬ森の深部を進むにつれ、木々は柔らかな囁きで故人の記憶を語りかけてくる――幼い頃、弓を外して泣いた日も、仲間と笑い転げた日も、すべてを抱く暖かな音色だ。
ほどなくして見えたのは、切り株を逆さに埋め込んだような家々。その中心に聳える聖樹の幹を囲む螺旋階段を上り、クルドは玉座の間へと歩む。
大円卓の向こう、扉が開く。
深緑の髪を肩口で束ねた長身のエルフ――父セリオスが歩み出た。肩にかかる王冠の木葉が、淡い芳香を放つ。
続いて現れたのは漆黒に紫を帯びる長髪の女王イーリス、母だ。雫形のティアラが額で揺れ、湖面の月光のように淡く光る。
「父上、母上……ご無沙汰しています」
クルドは胸に拳を当て、深く頭を垂れた。
「久しぶりだね、クルド。」
セリオスは穏やかに微笑む。けれど森林の影色を宿す瞳は、わずかに曇っていた。
イーリスが近寄り、細い指をクルドの肩へそっと置く。
「元気そうで安心しました。でも、母の勘は鋭いの。――何か、胸に重石を抱えているわね?」
クルドの心臓が痛む。
「……人間族が再び軍を動かそうとしています。私は、争いを避ける道を模索しているのですが……」
部屋の空気が澄み切り、鳥の囀りさえ遠ざかる。
ややあってセリオスは静かに言った。
「我らは闘いを良しとしない。数百年それを貫いてきた。だが、この森も、大陸の息吹も弱っている。癒える兆しはない……」
イーリスが続ける。
「だから私たちは――この森を離れ、他大陸へ移る計画を立てています。大地がまだ若い新天地へ」
クルドの胸を冷たい鉄槌が打つ。
「この森を捨てる? 竜が滅べば大地は死に、人間もエルフも共倒れです。逃げれば問題が先延ばしになるだけでは――」
「分かっている。」
セリオスは目を伏せ、樹齢千年の幹のごとく重い声を落とす。
「だが異種族への憎悪を煽る王国・教会を、理だけで止められると思うか? 血を流さず共生の道を示す方法があるのなら、わたしにも教えてくれ」
返す言葉が見つからない。
イーリスが囁く。
「あなたにも選択の自由がある――けれど、命を賭して人間族と衝突する覚悟があるのなら、それは母として、とても恐ろしい」
クルドは拳を握り込む。
「……今日は帰ります……。けれど、必ずもう一度話し合いに来ます」
深く一礼し、玉座の間を後にする。
背中でふたつの溜息が重なった。親の胸中を思うと喉が焼けるほど痛む。
項垂れるクルド、階段を下りる。
聖樹を下りたクルドは幼馴染ティリスの小屋へ。
何度ノックしても応答はない。諦めかけた時、扉が軋んで開いた。
「不用心だ…」
中へ足を踏み入れた途端、視界に飛び込んだのは人間の街ベンゲルの景色。内部全体が転送陣で繋がれた隠れ家だ。
と、背後から足音。振り向くと、淡茶の髪を短く束ねた青年が飛び込んできた。
「誰だ!」
「ティリス!!」
叫ぶなり青年の耳が長く伸び、変装が解ける。
「クルちゃん! 生きてた! よかったっ」
「その呼び名はやめろと!」
顔を真赤にして怒鳴るクルドに、ティリスはいたずらっぽく舌を出す。
「何年振り? 五年? 十年? ま、とにかく会えて嬉しいわ。で、どうしたの? 泣きそうな顔して」
そして、クルドは静かに口を開いた。