弐拾漆頁目 いくらかマシな結末を
~~約二十年前~~
「ぐぁ!?」
真昼の長閑な牧草地で
十代前半の少年の声が響いた。
直前に鳴ったのは真剣同士の接触音。
直後に聞こえたのは刃が土に刺さる音。
そして少年の首筋に向けられた、
白い刃が金具と擦れて動く音。
尻餅を付いていた少年は
刃を向ける相手を見上げる。
そこには、逆光の中で微笑む
彼より四、五才年上のいとこがいた。
「また私の勝ち。弱いね、ネーロ」
「うるさい……すぐに抜かすさ、アサラ!」
帝国暗部――『氷令院』。
その内部構造は大きく分けて三階級。
組織を運営する長老的メンバー『氷坐』。
実際に暗殺を実行する主要メンバー『氷刃』。
そして毒物の調合や武器の手入れ等の
後方支援を行いつつ、日夜訓練に励む見習いが
当時のオリベルトたち『霜徒』である。
氷坐や氷刃の人数はそこまで多くは無いが、
この霜徒のメンバーは中々の数が所属しており、
氷令院管轄の孤児院や特定貴族の私有地で
帝国の影としての厳しい訓練を叩きこまれていた。
剣術や座学は勿論、
日常的な毒の服用による毒耐性の獲得や
真剣を使った問答無用の組手試合。
脱落は即ち死であり、試験突破の栄光は
更なる地獄への片道切符。
精鋭を生むがための人道無き蟲毒の檻。
そんな地獄を少年たちは生きていた。
けれども彼らの腹の内に
上位メンバーに対しての叛意は欠片も無い。
反骨心は最初の訓練で徹底的に破壊され、
日々の洗脳教育で愛国心に塗り替えられている。
彼らは、伽藍洞に灯す愛国の熱で動いていた。
「帝国は本来――四千年前に滅んでいた」
教官も務める氷刃の男が厳かに語る。
それは氷令院設立にまつわる遥か昔の歴史。
帝国がこの組織を立ち上げたのは
今から約四千年前の戦いの渦中であった。
当時の帝国は、奇しくも現代と同じく
燃え上がる民衆の怒りで滅亡の危機に瀕していた。
原因は龍脈の発生地を基準に定めた、
龍園と園外の格差問題の深刻化。
当時の宰相府が調停を試みるも奏功せず、
同年秋、不作の年に園外連合軍が蜂起。
枯れた大地を真っ赤に染めたその惨禍を
攻勢では『赤砂戦役』と称した。
帝国史において最大規模の内戦の歴史として。
「帝国軍は当初、連合軍の攻勢に対応できなかった
中枢の人間が一枚岩では無かったからだ」
徹底抗戦を掲げる者、非戦論を掲げる者。
降伏を提案する者、全軍玉砕を喚く者。
思想は方向と濃度のグラデーションを見せ、
似た派閥の中でも微妙に異なる色を映す。
打倒帝国でまとまった連合軍を相手に
これでは十分な戦力があっても勝てやしない。
当時の皇帝と宰相は悩んだ。
何を優先するべきか、どこを主とするべきか。
平和な多数決では決められない。
戦いの火蓋が切って落とされた後では
民主的な話し合いでは遅すぎる。
一先ず、この戦争だけでも止めなければ。
「御上はご英断なされた、帝国の延命を
即ち――氷令院設立による大粛清を」
それは当時の宰相主体で行われた死の行進。
敵対していた連合軍の首脳部から始まり、
皇帝の方針に邪魔な内部の人間に至るまで、
チョーカという大樹が枯れてしまわぬように、
不要な枝葉を剪定するが如き暗殺の連鎖。
あまりにも能天気過ぎる平和主義者も、
あまりにも過激過ぎる排外主義者も殺して、
思想の分散、偏りを強制的に削除した。
その後、帝国は更に四千年の歴史を歩む。
どこかで致命的な綻びが生まれる前に
氷令院が動いて国を正す。
自浄作用ともいえるこのシステムを以て
魔王軍という外の強大な脅威を前に、
チョーカは人界最大国家を守り抜いていた。
「改めて言おう。帝国は四千年前に滅んでいた
しかしそれを延命させたのが、氷令院だ!」
氷令院の座学は大体がこの言葉で終わる。
オリベルトもアサラもそこに疑いはなく、
いずれ自分たちがその番に回るのを
むしろ待ちきれないとさえ思っていた。
しかし、歴史が動く。
勇者一行による宰相の汚職告発。
そこから連なる氷令院の壊滅。
歴史に語られない激戦に次ぐ激戦の末、
若きオリベルトとその仲間たちは
自らの就職先を失った。
「氷坐は全滅。氷刃はあと何人だ!?」
「アサラを含めて若いのが四人だけ
……フッ、氷令院もこれで終わりだな」
「何を言うか! まだ終わってない!
なぁ霜徒筆頭、いやオリベルトよ!」
「みんなの意見を聞きたい――」
氷令院の存続を望む者と、
このまま静かに余生を過ごすと言う者。
残党の中の意見は大きく分けてこの二つ。
しかし、これらは決して相容れない。
何故なら余生を過ごすという者たちは、
残党メンバーの顔と名前を知っているから。
「さて、どうするねオリベルトくん?」
「決まっているだろう。故事に倣う」
国の思想を剪定するために作られた組織は、
今度は自分たちの思想の剪定を行った。
両陣営それぞれ分かれて、生まれて初めて、
面と向かっての「よーいドン」での殺し合い。
訓練の時から真剣を使っていたためか、
彼らの瞳は、当時の姿を映し出していた。
そうして双方合意の殺し合いの末、
氷令院は存続を選ぶ。
「ねぇ……アサラ……」
「なぁに?」
「僕たちの選択を、この戦いを、
正しかったと肯定してくれないか?」
「……ええ。私が認めてあげる」
そうしてオリベルトは
残党勢力の主要メンバーとして
氷令院の存続のために日夜奮闘した。
しかし暗殺組織の運営は想像以上に困難で、
彼らは次第に組織の消滅を予感し始めた。
せっかく仲間を殺して生き残ったのに、
これでは彼らの霊魂すら侮辱してしまう。
(あぁ口惜しい、口惜しい……!
受け継いだ歴史を、僕らが絶やしてしまう!)
重度の汚職に穢された国は既に満身創痍。
汚職が続く。簒奪が続く。政権交代が続く。
氷令院には関係のない暗殺劇の数々が、
薄汚い権力争いのせいで多発した。
(汚らわしい! 汚らわしい!
あの輝かしいチョーカ帝国はいずこに!?)
世界に強い発言力を持つ帝国はもういない。
周辺国からおべっかを使われるポジションは
勇者の支援という功績を以てセグルアが奪った。
枝葉の剪定を続けたチョーカという大樹は、
内部から腐り腐って、落葉を終えた。
(この国はもうダメだ……なら、ならば……)
伽藍洞の心に宿した、
彼らの愛国心は叫んでいた。
「ならばせめて、帝国には安らかな自死を」
それは氷令院残党たちの総意。
翌年、彼らの指示を受けたアサラが
先帝の妃となって子を宿した。
帝国最後の皇帝となるべき少年の命を。
~~現在・帝国博覧館最上層~~
「そんな……どうしてだよ先生!?」
本性を見せるオリベルトに
幼帝アルカイオスは悲痛な叫びを投げ掛けた。
イオスはナバール王の裏切りによって退場。
ソダラは腹部の負傷が酷く戦闘不能。
この場にいる唯一の知り合いは
もう侯爵だけだというのに、
彼こそが最も近付いてはならない敵だった。
「どうして……答えろよオリベルト!!」
「フン。品の、いや教養の無いガキだね
まぁ親無しじゃあそれも仕方ないか」
「は……?」
「アルカイオス。君は国の死期を伝える鐘だ
警鐘ではなく、時鐘という意味合いでのね
そのためにアサラは君を生んだのさ!
皇帝に取り入れという氷令院の指示でね!」
「なッ――!?」
踊るように、帝国一の文化人は
両の手を広げて嗤いながら宣った。
そこに子供を愛する優しさの面影はなく、
代わりにあるのは狂った芸術家が
自分に酔いしれ魅せるような不敵な笑み。
まるで知らないオリベルトの表情に
齢十歳の皇帝は歯が鳴るほどに震えた。
「い、言ってくれたじゃんか……!
歴代の皇帝たちが僕を見てるって……
僕の物語の結末を見守ってくれてるって!」
「ああそうだよ、皆が見ている
君に渡ったリレー作品の結末を見守っている」
「なら!」
「だから君の口からも言ってくれないかい?
――『ご愛読ありがとうございました』ってね
これ以上、帝国が延命して駄作になる前に」
「ッ……それが、氷令院の目的?」
「ああ! そうさ! この国は八千年なんて
ダラダラと長生きし過ぎて枯れてしまった!
だから――!」
飛ばしたナイフが蝋燭立てを倒し、
第七層を真っ赤に染める。
「――僕らは皇帝主体の『自死』によって
帝国が『いくらかマシな結末』を迎える事を望む
諸外国に負けて不名誉に滅亡する前に!
己の意志で有終の美を飾らせてやりたいのさッ!」
それこそがオリベルトの、
否、氷令院残党たちの至った結論。
そして――
「お母様も……」
「あ?」
「アサラお母様も、本当にそう思ってたの?」
「チッ」
帝国一の美女が途中で捨てた信念。
彼女は帝国が有終の美とやらを飾るよりも
我が子の延命を望んで氷冷院を裏切った。
その結果、実権はアドルフ宰相に移り、
オリベルトの計画には大幅な狂いが生じる。
「何故彼女は僕を捨てたんだろうね」
溜め息混じりに吐き捨てられたその言葉には、
仲間に裏切られた以上の湿り気があった。
しかしアルカイオスがそれを知覚すると同時に
オリベルトが彼の上着を持ち上げ
その小さな体を後方に大きく投げ飛ばした。
背中から落ちたその痛みは幼子には辛過ぎる。
「がッ!?」
「君には呪いが掛けられている
多分あらゆる傷害に対するカウンター……
いや、直接関係のない蜂やメイドも死んだから
死のなすりつけ、といった方が近いのかな?」
「ッ……あれも全部先生が?」
「うん。本番前に呪いのデータが欲しくてね
おかげでどの程度まで安全か把握できた」
『――オイ! 侯爵さんよォ!』
割り込んで来たのは反響音。
部屋の炎上など意に介さない車の中で
待ちくたびれた異国の王が声を上げた。
『長々話したくなるのは構わねぇが
結局この後はどうなる予定なんだァ?
天命理書はもう無ぇぞ!』
「失礼ナバール王。僕の仲間を紹介します」
パン、と手を叩くと同時に、
焔の中から黒衣の男たちが四人出現した。
まるで影の中から沸き上がったかのように、
彼らはいつの間にか其処に立っていた。
そしてその内の一人がオリベルトにも
黒いマントを掛けさせると
氷冷院の現指揮官は氷の剣を生み出し
そのままそれを割れた天井に掲げた。
「まずは万博を堕とします」
~~~~
巨大な機械の拳が壁を破る。
瓦礫と同時に現れたのは重武装のアクア。
そして細剣を片手にそれと打ち合う
聖騎士団長ラルダ・クラック。
機械に疎く準備万端なアクアを警戒し、
ラルダはまず様子見の打ち合いをしていた。
が――
「お、合図か」
(!? 帝国博覧館から、光!?)
最上層より放たれたオリベルトからの合図。
それは計画を第二段階に進めるための号令。
自身は氷令院ではなく雇われの身ではあるが、
事前に知らされていたアクアはその意味を悟る。
「こっちにも援軍欲しいけどね!」
「っ!?」
迫る機械腕にラルダは防御の構えを取る。
が、それと同時に鋼鉄の掌が開き
彼女の細い体を鷲掴みにしてしまう。
そのまま機械腕はラルダを地面に叩きつけ、
自重を以て深い亀裂の中に彼女を拘束した。
「痛っ……」
「いや反応そんだけかよ、喚き散らすだろ普通
まぁいい。しばらくじっとしてくれ」
「さっきの光は何?」
「アレか。侯爵が真の仲間に出した合図」
同時刻、各地で異変は起き始めていた。
あるソダラ陣営の将軍は背後から刺され、
あるイオス派の兵士たちは
突如現れた黒衣の剣士に切り刻まれた。
また同時に駅や交差点等の要所で爆発が起き、
一部の通路が封鎖されて陸の孤島が生まれる。
黒衣の集団の目的は万博の破壊。
イベントを中止させるという意味ではなく、
文字通り天空の会場を玉砕させる事だった。
「そんな事して候になんのメリットが?」
「メリットデメリットじゃないんだよ、連中は」
本来は宰相が幼帝の呪い解除と
国内の敵を炙り出すために仕掛けた帝国万博。
イオスとソダラは王位争奪戦のために
この大イベントに参加したがオリベルトは違う。
彼だけは帝国それその物の暗殺を目論んだ。
諸外国の重鎮と共に中枢の人間が壊滅すれば
後に残るのは再起不能な理由を得た国と
呪いで死ねない後ろ盾皆無の幼帝一人。
当代の皇帝が世界に終幕を宣言するに足る、
十分かつ致命的な要因を打ち立てる事が出来る。
ダラダラと生きながらえた国に、
自死を選ばせられるだけの説得力が。
「回りくどいわね、脱出の手はあるの?」
「ああ。俺も向こうも用意してる
てかなんと言われようが今勝ってるのは連中だ
もうじき万博の中心部に爆弾が運ばれる」
「っ!?」
「地上で万博を焼く用に複数個用意してたらしいが
全部地下空間に集める方針に変えたらしい
会場の浮上は結果的に爆弾の有用性を高めたな
流石に事前設置を許す程甘い警備じゃなかったが
全勢力が疲弊した今なら誰も邪魔出来ない」
「あっそ」
「……意外だな。慌てないのか?」
「ええ。だって邪魔は入るから」
その言葉をアクアは、
今からラルダが自分で止めに行くと宣言した、
と受け取った。
故にそれを阻むために彼は機械腕を操り、
その掌に付いていた砲門から
青白い極太のレーザーを射出させる。
拘束されたゼロ距離での超高熱破壊兵器。
流石の聖騎士団長もこれは致命傷だろう。
仮にもし、ちゃんと直撃していたならば。
「エルザディア聖剣術――」
(!? 上か!)
「――『聖断のブレイブ・フォール』!」
流星の如く迫るラルダに
アクアは機械腕の掌底突きを合わせた。
しかし機械腕は空中で接触すると同時に
攻撃の衝撃に耐えきれずに粉々に砕かれる。
そして尚も勢いの止まらないラルダの攻撃が
回避行動を取るアクアの間近に降り注いだ。
「ごあ!? くっ、行かせる訳には!」
「勘違いしてる? 爆弾を止めるのは私じゃない」
「は?」
「アレはいつも
私が本当に居て欲しいと思った場所にいてくれる」
~~同時刻・地下空間~~
爆弾を運ぶ氷令院の暗殺者たち。
その数八名。今ある残党戦力の約半数。
それだけ力を入れていた場所なのに、
彼らは予想外の足止めを喰らう。
「公国博覧館にいたはずじゃ、ぐご!?」
「ありえない、ありえない……!」
「感知されるようなヘマはしてないぞ!?」
進路を妨げたのは聖紋の結界。
その奥に立っていたのは黒手袋を翳す一人の聖者。
褐色肌に毒々しい紫色の髪をした片眼鏡の男。
神政法国エルザディアの枢機卿にして、
聖騎士団長ラルダを支えるナンバーツー。
「なぜ我々が此処に来ると分かった!?
枢機卿アメル・ディスト!」
「んーッ、『愛』ッッッ!!」
「ちっ、対話は不可能かッ……!
怯むなお前ら、一斉に飛び掛かれェッ!」
黒衣の剣士たちは闇に紛れて影を舞う。
がしかし、眩い光が暗がりを払う。
枢機卿の動きに合わせて結界は収縮し、
彼の掌の上で輝く緑の槍となって放たれた。
攻撃は一瞬にして敵八名を貫き穿ち、
持ち主の居なくなった爆弾に枢機卿は
そっと手を触れ不可思議な術で無力化した。
「これにて計画は御破算です」
「ま、まだ……だ!
幼帝さえ確保していればまだ……!」
「ふぅむ。確かにそれは厄介、ですが
あくまで我々は中立。帝国の存亡は管轄外」
それに、と枢機卿はほくそ笑む。
「運命を打ち破るのは当事者たちの特権です」
〜〜〜〜
「オォッ! オォオォオォオォオォ!!」
最後の力を振り絞らんとばかりに
ソダラ公が怒声を放つ。
彼は燃え盛る炎で熱せられた鉄で
イオスに刺された傷を無理矢理止血した。
そして彼は再び大剣を手に取ると
オリベルト侯に斬り掛かる。
しかしオリベルトは周囲の部下を顎で動かす。
割って入った暗殺者二人の氷剣が
気合いの込められたソダラの一撃を防ぐ。
そして逆にオリベルトの蹴りが
攻撃直後で隙だらけな公爵の腹を打ち抜いた。
「ごふ!? ……オリ、ベルトォ!」
「フン。見て見ぬふりの老木が
今さら貴方にスポットライトが当たるとでも?」
「ハァッ……ヅっ、お前には当たんのか暗殺者?」
「ええ。僕には国を動かす権利がある
国の主導権は、常に考えて動いた者のみ――」
「――そうか。なら私でも良いな」
燃え盛る炎と暗殺者たちの陣形を潜り抜け、
階層の入り口から突如黒い物体が飛来する。
侯爵に直撃して砕け散ったそれは木製の椅子。
あくまで視線誘導のためのブラフの一投。
真の狙いは直後の急襲による幼帝救出。
「誰だっ!?」
全ては一瞬、刹那の出来事。
入り口から飛び込んできた人影は
メラメラと燃え上がる炎を壁を蹴って飛び越えて、
道中の暗殺者を二人斬り伏せ侯爵に迫る。
飛び散る木片で視界が遮られていたオリベルトは
直前までその接近に気が付けなかった。
そして一直線に迫る拳が彼の頬を殴り抜ける。
「ゴッッッバァ!?」
「「オリベルト様!!」」
「貴様ら、頭が高いぞ」
冷気を纏うオリベルトが床を滑る中、
その人影は更に流れるように
ソダラを止めていた暗殺者二人を蹴り倒すと、
その反動を使い目的の人物を拾い上げた。
宝物でも守るかのように、両手で抱き抱えて。
「この御方を何方と心得る?」
其れはチョーカ帝国現宰相。
国の実権を握っていた帝国万博の仕掛け人。
そして、この世でたった一人だけの幼帝の忠臣。
「皇帝陛下の御前であるぞッ!」
「アドルフ!」
その弾むような声色には、
今まで彼に向けられた事の感情が乗っていた。
アドルフはその事実に少し驚いた様子で固まり、
同時に少年の顔にかつて魅了された美女の面影を
彼は静かに感じ取って、そっと目を閉じた。
(いや、違うな。ちゃんと彼を見てやるんだ)
「アドルフ?」
「お待たせしました。陛下」
動機は下心にも似た執着だった。
恋愛感情の残骸が、甘い美女の毒に濡らされて、
良くない化学反応を起こした、ただそれだけ。
しかし今湧き上がるその感情の理由付けに、
もうアサラという毒は必要無かった。
「――よく耐えたな、アルカイオス」
「っ……! っ……うんッ!」
幼子がそれまで我慢していたものが
ブワッと決壊するように溢れ出す。
宰相アドルフはそんな彼の頭を
力強く抱き寄せるのだった。
しかしまだ窮地を脱した訳では無い。
むしろ状況は依然最悪に近い。
急襲に怯んでいた暗殺者たちは我に返り、
ソダラを含む敵三名を取り囲む。
同時にオリベルトも血を吐きながら復活し、
苛立ちに歪んだ瞳をアドルフに向けた。
「確かに殺したはずだ、どうやって生き延びた!?」
怒声とも言うべきその問いに対して
アドルフは幼帝を一度置いて自ら前に出ると、
服の下より宝玉の砕けたペンダントを持ち上げた。
「これは数百年前、当時の皇帝陛下が
エルザディアの法皇より賜った特殊な礼装
かつてこの国が信頼で勝ち取った国宝の一つだ」
「!? 死からの蘇生、いや肩代わりか!
なるほど呪われた皇帝に殺されないための保険!
自分だけ常に安全圏に居たという訳だな!」
「ずっと陛下のお側に居ると決めていたからな
まさか貴様ごときに使わせられるとは……
このツケは、高く付くぞオリベルトッ!!」
帝国宰相の一喝には
他者を怯ませるに足る力があった。
敵対者であるはずの暗殺組織の残党たちは
その覇気に気圧され思わず一歩、足が下がる。
それは顔面に激痛の走るオリベルトも同じで
彼は思わず背後の白い装甲車へと振り返った。
「何をボーッと見ているのですかナバール王!
早くあの独裁者を殺すのです!」
『は? 国を滅ぼすのはお前らの仕事だろうが
……まぁとはいえ、やってやらん事もない!』
(ッ! ナバール王か、あれは流石に!)
『おっと! 逃さねぇぜ帝国宰相ォッ!』
砂鉄と魔法陣が陣形を組み、
決して広くない部屋の中に狙いを定める。
アドルフとソダラは即座に幼帝を守ろうと動くが
彼らに超古代文明兵器の一撃を防ぐ術は無い。
故にオリベルトは彼らの死を確信し、
呪いの標的にならないように亀裂から外を目指す。
(勝った! ざまぁみろアドルフ!)
次の攻撃で国の延命を望む邪魔者は死ぬ。
呪われた幼帝は瓦礫の中から確保すればいい。
後は爆弾の設置完了の合図を受けて、
この血塗れの帝国万博を爆ぜれば終いだ。
(――あれ? 爆弾の設置報告はまだ?)
無様な動きで亀裂の前まで近付いたその瞬間、
ふとオリベルトはそんな事を考えた。
刹那、そんな彼の視界を影が通り抜ける。
地上から上空に向けて飛翔する、
翼を生やした人型の影が。
(君は――!?)
「『風の名前』」
うねる蒼黒い突風が建物の亀裂を通して
真上からナバール王の装甲車を殴り付ける。
裂風は周囲の焔を消し飛ばすだけに留まらず、
上層から下層に掛けてヒビを伝搬させ、
質量に耐えきれなくなった床を砕いて
超古代文明の戦車を排除した。
『あぁ!? なんじゃこりゃぁ!?』
部屋の崩壊、建物の半壊に巻き込まれ、
ナバール王の戦車はそのまま瓦礫の波に流される。
白亜の装甲車を乗せた崩壊は別館にまで連なり、
木々を薙ぎ倒して車両は瓦礫の下敷きとなる。
更に一連の破壊に巻き込まれて、
オリベルト候は一人、第二層まで降ろされる。
「うッ……ヅっ!」
負傷した左腕を庇って、
滝汗を流す彼は顔を顰めていた。
そんな暗殺者の眼前に、一匹の魔物が舞い降りる。
月明かりに照らされた吹き抜けを通って、
黒い翼を広げた、一匹の天魔が。
(これほどとはね、ベリル君……!)




