拾陸頁目 一見旧の如し
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『生きてるとも死んでるとも、判らない』
玉座の皇帝にそう吐き捨てて、
後日処刑された賢者がいた。
まだ八歳を過ぎたばかりの幼帝に、
侮蔑と憐みの目でそう告げた。
彼は長年宮廷魔術師として皇室に仕え、
数々の勲章も授与されていた高官だったが、
流石にこの暴言を有耶無耶にするには、
その場にいる聴衆の数は多過ぎた。
賢者の処刑から数週間後、内乱が起きる。
彼を慕う者たちの決起。
そしてそれに便乗した勢力の反抗だ。
帝国宰相アドルフは自ら軍部を指揮して、
帝都ラクアに迫る集団を悉く撃滅。
数ある『小さな内乱』の一つとして、
この戦いに終止符は打たれた。
『被害報告――
軍関係死傷者、約二三〇〇名
民間人の死者、約四八〇〇名
民間人の行方不明者、約五二〇名
避難民、約一八六〇〇名
なおこの内訳に反乱軍の数は含まない』
――小さな内乱だ。
少なくとも長い長い帝国史においてはそう。
恐らく歴史の教科書に載る事すらない、
酷くありふれた、なんて事は無い内乱だ。
「……ねぇ宰相。僕はあと何人殺すの?」
偶然彼と二人きりになったある日、
幼帝アルカイオスは気付けばそう問うた。
問うたすぐ後に「しまった」と口を閉ざすが、
使った単語が凶暴過ぎたのだろう。
宰相は見た事もない形相で幼帝を睨みつけた。
「どういう、意味でしょうか?」
「……僕が皇帝としてここにいる間、
僕の治世で――あと何人の人が死ぬの?」
「陛下がそのような事に
頭を悩ませる必要はどこにもございません
明日も謁見式がございます。今日はもう――」
「っ……」
宰相の事が判らなかった。
その奥底に煮えたぎる感情が何なのか。
その眼光の意味する事が何なのか。
判らないからこそ、どうしよもなく怖かった。
けれどもそんなアルカイオスにも一つだけ、
たった一つだけ理解出来た事があった。
それは己の立場。自身の役割。
宰相が幼き皇帝に唯一望んでいる事。
(僕はこいつの、操り人形――)
与えられた子供部屋は孤独の花畑。
霧に包まれた寒色の宮殿は心の監獄。
暗くて寒くて、そして寂しい。
さながらそこはおとぎ話の死後の世界。
なるほど確かに賢者様の言う通り、
生きてるとも死んでるとも判らない。
「――つまり現状に不満があると?」
そんな彼にも唯一相談の出来る相手がいた。
親族のとある『侯爵』。幼帝の教育係だ。
彼は授業終わりによく歴史の話をしてくれた。
それは輝かしいチョーカ帝国の武勇伝。
雄々しい武功の独占者――熾帝。
人類圏最大国家の立役者――明徳帝。
清濁呑み干す国の維持機構――坐帝。
全ての始まりに立つ初代皇帝――祖龍帝。
一話ごとに紡がれる物語はどれも壮大で、
娯楽の限られていた幼帝にとっては
どれもが心躍る劇薬であった。
すぐに彼は語り部である侯爵に懐き、
それと同時に己の不甲斐ない現状を嘆く。
宰相の操り人形である事を愚痴ったのも、
人前ではこれが初めての事だった。
だが侯爵は優しい口調で皇帝を慰めて、
彼の苦しみに共感を示す形で褒め称えた。
そうして候の言葉で涙が溢れる幼子の
小さく震えるその背に手を添えると、
眠ってしまいそうなほど穏やかに語り掛ける。
「ではこう考えてみると良い――
君は常に、過去の英霊たちに見られているとね
彼らは君という治世の結末を待ち侘びている」
少年は咀嚼するように復唱した。
――僕だけの物語、と。
「そうさ。皆で紡いできた八千年分のリレー小説!
皆期待しているのさ。君が作品を完成させるのを、
より『美しい結末』を迎えるその瞬間を」
少年は僅かに微笑み問い掛けた。
――その中にはお母様もいるのか、と。
「アサラかい? あぁきっと最前列にいるはずさ
ならますます頑張らなきゃだよ、皇帝陛下
そのためにも、まずは『自立』をしなきゃだ」
幼帝はゆっくりと部屋の肖像画に目を向けた。
今は亡き母、皇太后を描いたという肖像画。
油絵で拵えられたその瞳がどうしてか、
自身に向いているように見える。
少年は、その絵に勇気を貰っていた。
~~現在・皇帝の部屋~~
「お母様……」
己の口が自然と動いた事を自覚して
幼帝アルカイオスはゆっくりと目を覚ます。
彼がいたのは部屋の奥にある超巨大なベッド。
だが決してその『上』ではない。
彼が目覚めたのは薄暗いベッドの『下』だった。
隣にいたのは名前も知らない黒髪の子供。
幼帝より更に五歳程度年上の、
若く凛々しい少年だった。
アルカイオスはそれがつい先程まで
会話していた相手である事と思い出すと、
次いで頭上の羽音を認識し、現状を理解する。
「あ、目覚めましたか陛下?」
「お、おい……蜂! 上に蜂がいっぱい!」
「あまり騒がないで! 気付かれちゃうでしょ!
というか、蜂くらいでそんな大げさな……」
「ふざけんな!? 蜂だぞ蜂ッ!
脆弱な人間様があの獰猛な虫ケラに勝てるとでも!?」
「勝てそうな言い回しですが!?」
「くぅ……! しかもあれ凶斧蜂だ!
毒持ちな上に突進で木材なんかも平気で叩き割る奴!
人間も食べちゃうメッチャ危ない奴じゃぁん!」
「え? 魔物?」
同族かと思ったベリルは、
元々崩れかけていた口調を完全に素に戻す。
本来ならそれを幼帝は咎める所なのだろうが、
完全にパニックになっていた十歳児に
そんな余裕など無かった。
「違うよ馬鹿! あれは単に凶暴な動物!
人間以外も食べるんだから! もっと勉強しろ!」
(え、ウザこいつ……)
「ぅあああん! ここで死んじゃうんだぁぁ!」
「ちょ!? 泣かないで!
確か一回目なら蜂の毒で命を落とす可能性は
稀だって僕の先生が言ってて――」
「――僕二回目だよ?」
「え? ええ!?」
ここでようやくベリルは幼帝の恐怖を知る。
一度覚えた危険に対して体が見せる過剰反応。
即ち、アナフィラキシーショック。
ベリルにも流石にその知識はあったようで、
現状が幼帝にとって非常に
まずい状況であると理解出来た。
と同時に、彼は一つの仮説を得る。
幼帝が過去に蜂に刺されたのであれば、
宰相を始め、家臣団は対処をするはず。
龍璇殿には多くの動物も飼われていたが、
流石に蜂を飼うとは考え難い。
となれば導かれる結論はたった一つ。
これが明確な悪意を持った暗殺だという事だ。
(狙いは当然、皇帝アルカイオスか……
さて、僕はどうしよう?)
幼帝の命は、はっきり言ってどうでも良い。
元々ここに来た目的も宰相の秘密を掴む事と
昨夜の事件の潔白を証明して貰う事だったが、
どちらも成果としては微妙なれど
これ以上の望みも薄い。
むしろこの場に居続ける事の方がリスクで、
幼帝に接触したという本人からの証言を
他人の手で消して貰えるのだから、
幼帝暗殺に協力するという道すらあった。
がしかし――
(むっ……)
震えるアルカイオスの小さな手が、
ベリルの服をぎゅっと掴んで離さない。
この場で唯一縋れる存在として、
目の前の魔物をそれと知らずに頼っていた。
その様子が、どうにも胸に刺さる。
騙している事への罪悪感、ではない。
弱っちい生物への苛立ち、でもない。
あるのはどこか懐かしさにも似た感情。
別の視点から見ていた朧気な記憶。
「……はぁ」
ベリルの手は幼帝の手を握っていた。
小さな手は驚くほど柔らかく、
ちょっと力加減を間違えれば砕けそう。
だから、気を付けなければ――
「とりあえずここから脱出する、でいい?」
「あ、うん……! えぇっと……?」
「ベリル。ま、ベリルさんでいいよ」
「任せたベリル!」
(くそガキ)
心の中で漏らした愚痴を最後に、
魔物の仔は幼子の顔から戦士の顔に変わる。
オラクロンの闇。災禍遊撃隊隊長代理の顔に。
彼の眼は周囲の状況を細部まで収集し、
そして彼の脳はこの場での最適解を検索する。
頭上からは絶えず聞こえる無数の羽音。
隠れる直前に見た蜂の数は九匹。
扉は彼らの侵入後すぐに仕舞ったので
そこから増えても減ってもいない。
ベッドの下から見える景色はそれだけで、
現在の蜂たちの正確な位置情報は掴めないが
どのみち飛び出せば四方から迫るのは確定。
ならば必要なのは最短経路と移動手段。
「壁にある窓はすぐ開く?」
「皇帝の部屋だよ? 簡単に出入り出来ると思う?
え、普通に考えたらそんな事分かるくない?」
(いちいち生意気……! だけど――)
道は見えた。
ベリルは手の届く範囲にあった玩具を寄せると
アルカイオスの上着を借りてそこに包む。
そして目的地である扉とも、
ベッド近くの開閉機構とも離れた場所に向け、
素早くそれを放り投げた。
幼帝の匂いが染み込んだ囮。
素早く動くその黒い物体は蜂たちを刺激した。
まるで弾丸のように羽音が囮に迫り、
バコッ、バコッと鈍い音を奏で始める。
そのタイミングでベリルはベッド下から脱出。
幼帝を小脇に抱えたまま扉を目指す傍らで
彼は別の玩具を飛ばし開閉機構を起動させた。
その狙いは寸分の狂いもなく的確で、
扉は驚くほど従順に彼らの逃げ道を開ける。
「すっげ……」
「舌噛まないように! 丸まって!」
どうやら蜂たちも彼らに気付いたようで
九匹の内の四、五匹が二人に向けて飛来した。
が、蜂程度に後れを取る魔物はいない。
例えそれが片手に幼帝を抱えた状態であっても、
魔物の仔はその鍛え抜いた身体能力のみで
斧の如く凶悪な蜂の攻撃を躱し切る。
そして彼の足は、既に扉の外に乗り出していた。
(いける!)
――が、そう思った時こそ気の引き締め時。
予想外を予想し最上級に警戒すべき時。
例えば、抱えた護衛対象が突然、
その手から逃れようと暴れ出してしまうとか。
「はぁ――!?」
気付けばアルカイオスは身を捩り、
ベリルの腕からするりと抜け出していた。
だが彼は何も乱心した訳ではない。
いやある意味では乱心だが、理由はあった。
それはまさに今脱出しようとした部屋の中。
蜂たちが壁にぶつかった事で落下した、
――亡き皇太后の肖像画であった。
「お母様っ……!」
「なっ!? なにを馬鹿なッ!」
ベリルは咄嗟に手を伸ばすが、
上着もない小さな皇帝の体には届かない。
それどころか警戒心の強い扉は
この僅かな時間で自動的に閉まり、
彼はアルカイオスと分断されてしまった。
「っ……! 早く扉を開けて!!」
ベリルの怒鳴り声が扉の外から聞こえてくる。
がしかし、幼帝は開閉機構には向かわず、
母親の肖像画を抱きかかえて座り込んでいた。
隠れる事すら出来ず、放心していた。
「お母……様……」
宝物の肖像画をぎゅっと強く抱き締める。
といっても、幼帝には芸術が分からないので、
それが本当に美しいかどうかは判らない。
故に宝物である理由はただ一つ。
それが亡き母を想える唯一の手段だから。
皇太后――アサラ・妃・イグルア・インペリア。
辺境貴族の出自でありながら
その美貌で多くの者に気に入られた姫。
笑顔は美しい、というよりは可愛い寄りで、
小柄な体も相まって愛嬌は抜群。
笑顔一つで人々を狂わせる故に、
その顔は絵画であっても正確に描写する事を
禁じられてしまう程だった。
だから、というべきか、
アルカイオスは母の顔を覚えていない。
又聞きの情報でしか、彼女を形作れない。
この肖像画にしか拠り所が存在していない。
――故に、彼はただの油絵を捨てられず、
今こうして蜂たちの襲撃に無防備な身を晒す。
正気に戻った時にはもう遅い。
いくら後悔に飲み込まれようとも、
既に自己の進退を決められない所に彼はいた。
「あ、あぁ……!」
愚かさと己の無力を噛みしめて、
自分という物語が最低な結末を迎える事に
黄金色の瞳は落涙を見せた。
その時――分厚い部屋の扉が破砕する。
粉々に砕かれた木片の礫が室内に散弾されて
我先にと幼帝に迫っていた蜂の五匹を圧殺した。
潤む幼帝の眼は極限状態で世界を緩やかに捉え、
木片を飛ばしてきた室外の方に視線を向ける。
すると其処には黒い翼を広げる『何か』が居た。
「え?」
「体丸めて――!!」
暗い影の中から飛び出してきたベリルが
アルカイオスを再び抱きかかえて外に出す。
その背中には既に異常を証明する黒翼は無く、
二人は転げ回りながら部屋を脱出した。
幸いにして何やら大切そうな絵画も無事。
ベリルは諸々の結果に安堵の吐息を漏らす。
「っ……!? まだだ! 残りの蜂が!」
「チッ――」
迫る脅威。だがこの場の広さは既に十分。
ベリルは懐から愛用の折れたナイフを取り出すと、
翼を出す事も無く床を蹴って宙を舞う。
其れは――すれ違いの刹那に魅せた技巧の畢竟。
本来彼のナイフは刃根で刀身を確保する物だったが、
魔物由来の高い運動能力と動体視力は
この薄暗い空間で羽ばたく蜂の胴を捉えた。
スルリと入るナイフの刃が、
幼帝を狙っていた三匹の蜂を切断する。
時間にして二秒未満。
幼帝に見えたのは鮮やかなナイフの軌跡のみ。
しかし過程は判らずとも結果は判る。
ボトリと落下した蜂の残骸と、
華麗に着地を決める黒服の男の後ろ姿。
それもまだ少年と呼ばれる齢ではあったが、
五歳も年下の彼からすれば立派な大人に見えた。
「かっけぇ……」
憧憬の念が幼帝の瞳に浮かび上がる。
だがそれと同時にベリルは何かに気付くと、
取り乱すようにアルカイオスを怒鳴りつけた。
「離れろッ!!」
「え――?」
怒声に硬直した幼帝の間近。
彼が持ち出した絵画の額縁。
そこに残る一匹の蜂が、
最高に最悪な瞬間を待っていた。
「しまっ!?」
流石のベリルも今度は間に合わない。
木片も食い千切る蜂の凶悪な顎が
幼き柔肌の首を狙い飛翔した。
だがその瞬間、彼らはとある異音を聞く。
「「……え?」」
それはまるで、何かがぶつかるような音。
ゴトンというような落下音に近い異音。
ベリルはそれに聞き覚えがあった。
昨晩、メイドが死ぬ直前に聞こえた音だ。
だがそこに思い至るよりも僅かに早く、
二人の視線は蜂に起きた異常事態に奪われる。
蜂は異音の発生と共に突然苦しみだし、
きぃきぃと声を発しながら不規則に飛んだ。
かと思えば、それは天井近くまで上昇すると、
まるで花火のように――内部から弾け飛んだ。
後に残るのは飛び散った少量の血と
内臓が破裂した蜂の残骸のみ。
とりあえず、二人は蜂の脅威から逃れた。
「うわぁあああ怖かったー!」
駆け込んできたアルカイオスが
混乱していたベリルに抱き着いた。
強く抱擁しようとする手はやはり柔く、
わんわんと泣き続ける小僧を宥めるために
ベリルも仕方なく抱き返す。
「だ、大丈夫、もう蜂はいないよ?」
「うん……! うん……!」
「ほら泣かないで、そこに絵もあるよ?
置いてけないくらい大切な絵なんでしょ?」
「うん……僕がお母様を想える唯一の物だから……」
「……そっか」
その言葉にふと、
ベリルは手に持つナイフに視線を落とす。
言うなれば彼にとってそれも形見。
大切な『彼女』を想える唯一の物品。
「そっか」
どこか優しくそう呟き、
ベリルはナイフをホルダーに仕舞う。
幼帝に向けるその眼には、
共感の色が浮かび上がっていた。
「うぐ……ひぐっ。こんなんじゃダメだなのに
僕がガキのままじゃ誰もついて来ないのに」
「だねぇ」
「ひどい! 慰めろよ!? それか教えろ!
お前みたいに強くなれる方法を!」
「別に強さは求めなくてもいいのでは?
あーでも……そうだなぁ……
どうやったら皆がついて来るかは知ってる」
「え、何!? どうするの!?」
幼帝を抱きかかえたまま移動しつつ、
ベリルは数日前の言葉を思い出す。
それは園外の村で出会った風神が、
どこか楽しそうに語った台詞。
「人って、護ってくれる奴に従うらしいよ?」
「へぇー……あれ、てかさ?」
「なに?」
「お前敬語は?」
「……あ゛。申し訳ございません陛下ァ!」
「よい! 特別に赦す!」
皇帝の恩赦にベリルは胸を撫で下ろす。
同時に泣き止んだ幼帝も床に下すと、
ベリルは改めて蜂の残骸に視線を向けた。
「それにしても、これは一体何が起きて……?」
「――それはこちらの台詞だよ」
「!?」
一難去ってまた一難。
部屋の入口に何者かが立っていた。
否、それはベリルもよく知る人物。
外からの逆光に表情は隠されているが、
その声は確かに、オリベルト候の物だった。
「オリベルト候……!」
「陛下のお迎えに参上してみれば……
君はここに居ちゃダメだろ、ベリル君?」
「いや、これは、その……!」
本来彼は現在勾留されているはずの存在。
仮にそうでなかったとしても、
龍璇殿への侵入はそれだけで重罪だ。
侯爵を納得させるに足る言い訳も無く、
ベリルはただ狼狽するしか出来なかった。
そんな状況の彼に
オリベルトは問答無用で接近する。
簡単に触れられる位置まで近づくと、
ようやくその表情も見て取れた。
――これは流石に庇ってやれないぞ。
彼の目はそう訴えているように見えた。
すると、そんな二人の様子を察したのだろう。
詰められるベリルの横顔をしばらく眺め、
幼帝は、両手に握り拳を作り前に出る。
「侯爵! よく参った!」
「「ん?」」
「この者を回収しに来たのであろう?
僕が遊び相手で招いたこいつを!」
「――!」
「いや陛下。それは流石に……」
「自立を促したのは貴方だ、先生!
だから僕は世を学ぶために彼を呼んだ!
この僕の命令だ! この! 僕の!」
「む……」
それは方便とすら呼べない子供の戯言。
しかし発言者は帝国最高の権力者。
筋は通らずとも、無理は通る。
加えて迫る警備隊の足音に急かされた事で、
侯爵は観念かのしたように頭を抱えた。
「はぁ、そういう事にしておきましょう
ベリル君、私の外套へ。外までは送ろう」
「……助かります」
促されるままベリルは侯爵の服に忍び込む。
するとそんな彼に向けてアルカイオスは
どこか寂しそうな声で語りかけた。
「また、会えるか?」
何故だか幼帝は、また泣きそうになっていた。
自分から質問してきたくせに、
その回答を聞くのを怖がっているようだった。
そんな弱っちい人の子を魔物は嗤う。
鼻を鳴らし、口角を上げて、吐き捨てた。
「ええ。また」
何故だか幼帝は、満面の笑みを魅せた。
それと同時に警備の者たちが突入し、
現場の荒れ具合に肝を冷やす。
その混乱に乗じてオリベルトは
皇帝の保護を指示出しすると同時に
先にベリルの撤退を完了させた。
「ここまでくれば安心でしょう……
帰りの手筈は?」
「ある。というかヘリオを待たせてる」
「そうですか。では私は陛下のもとに戻ります
万博会場まで送り届ける任務があるのでね」
恐らく龍璇殿での活動はこれで終了。
宰相が隠していると思われる秘密については、
何やら匂いこそすれども明確には掴めず、
昨夜の事件における身の潔白を証明する事も、
結局は未完遂で終わりそうだ。
しかしどうしてか、
これが重要な寄り道だったように
ベリルは感じて満足していた。
唯一心残りがあるとすれば、
やはりここからまた勾留される事だろう。
せっかくチョーカまでやって来たのに、
帝国万博に参加出来ないのは不服だった。
「僕も行きたかったなぁ、万博」
「ん? 行けば良いのでは?」
「いや……僕が今縄付きの身なのは
侯爵もご存知でしょう?」
「ああ。きっと行き違いになったんだな?」
「行き違い?」
「そう。君への疑いはもう晴れてるよ」
「ええ!? なんで!?」
「君の解放を求める『嘆願書』があったのさ
流石に相手が相手だったからね
宰相もすぐに動かざるを得なかった」
「宰相を動かせる人間……?」
ベリルは咄嗟に思考を巡らせる。
彼の解放はオラクロンの大公でも難しい。
権力構造的に可能性があるのは幼帝だが
彼は遂さっき知り合ったばかりだ。
となると残るは外国からの圧力だろう。
ナバールではない。その他の国も知らない。
ベリルと何らかの形で接触があり、
かつ宰相を動かせるのは――
「まさか!?」
「エルザディア聖騎士団、ラルダ・クラック
全く……初めて会った時からそうだったけど
君には驚かされてばっかりだよ……」
「――」
「ともかく、これで君は自由の身だ
もう今日みたいな事はやめて
大人しく帝国万博を楽しんでおいで」
「はい……あ、最後に一つ!」
「なにかな?」
「侯爵は――『氷令院』って知ってる?」
「ああ。帝国の暗部と言われている都市伝説だね
詳しくなんて知らないし、興味もないかな」
「ふーん」
「じゃあ、今度こそ僕はいくよ。大公によろしく」
「はい! ありがとうございました!」
ベリルは深くお辞儀をした後、
駆け出すようにその場から立ち去った。
皇帝住居への侵入という大罪を犯した後なのに、
暖かな陽光に照らされた通りを駆ける姿は、
ここ数時間で最も子供のようだった。
――かくして、
本開催の前の全ての『準備』が完了する。
~~帝都内・公爵邸~~
「さぁーて! 時間だ時間!
お前ら心しておけよ! 敵は強大だ!」
青いコートに袖を通し、
髭面の老爺が快活に笑う。
サングラスの下に映るその瞳は、
どこか危うい狂気を孕んでいた。
~~帝都内・伯爵邸~~
「よぉー伯爵! 迎えに来たぜ!」
「フッ、楽しそうですねナバール王?」
「当たり前よ! 今日は歴史が変わる日だ!」
協力者の大胆な言葉に
銀髪の青年はニヤリと不敵な笑みを返す。
翻す刺々しい見た目のマントと同じ、
真っ赤な瞳をギラつかせながら。
~~万博会場・入場ゲート付近~~
「皇帝の到着は結局夕刻からだそうだが、
我々のやる事は変わらない。手筈通りに」
「「応」」
門の見える位置で立ち止まっていた
とある一団が動き出した。
楽し気な周囲の客とは真逆の面持ちで、
輝かしい帝国の散財を睨みつけて。
~~会場内・憩いの広場~~
『ジジ……ジ……万博は予定通……順調……』
『機材……全て、ジ……ジジ……問題無……』
『なんだ……アクアが……ジジ……いなくても』
「――フッ」
長閑な丘の上で青髪の青年がパンに噛み付く。
目元も隠すそのぼさぼさの髪の下で、
配線と繋がった小型の機械を耳に付けながら。
~~会場内・ナバール博覧館~~
「なぁおい? こんなのいつ運んだ?」
「波羅の甲冑かぁ、戦利品とかじゃね?」
「鎧ってより……まるで魔導機構だなぁ」
展示物の一つに人々の目が惹かれる。
ガラスケースにあるのは人型の赤い鎧。
額には黄金に輝くV字の意匠があり、
その下では黒い金属が輝きを魅せている。
緻密な機械の構造体として。
~~会場内・弓術体験場~~
「枢機卿~! 団長~! 早く早く~!」
「はしゃぎ過ぎですよ、ねぇ団長?」
「ま、今日くらいは良いんじゃない?」
緑の鎧を纏う一団は会場を巡る。
それはある種の休暇であり、
また不届き者にとっての良い牽制。
~~龍璇殿~~
「陛下。お時間です」
「うん。行こっか」
緑の外套の侯爵に連れられて、
幼帝も穴倉から其処へと旅立つ。
其れはこの後起きる一大事件の主賓。
~~宰相府~~
誰もが腹に一物を抱え、
この場所を目指して集まっていく。
ある者は野心を持ち、またある者は悪意を持ち、
それぞれの都合を通そうと此処に集った。
集う、集う、集う、集う。
「俺は必ずこの万博を『成功』させる……!」
~~迎賓館~~
「では、我々も行くとしよう」
大公オスカーの一声で、
オラクロン大公国のメンバーも動き出す。
親衛隊長の巨漢。胡散臭い情報戦特化の男。
そして大公に従う、五匹の魔物。
「ふふ、無事解放されてよかったですね?」
「うるさいよギド。正直もう疲れた」
「おやおや。でも楽しみではあるのでしょ?」
「……少しね」
ともかく遂にここから本開催。
全ての思惑は今日この日に交錯した。
ここより僅か数時間後、歴史が変わる。
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場所は戻り龍璇殿。
皇帝の部屋の前にある暗い空間。
現場保存のためにそこは乱れたままで、
皇帝の大事な絵画も放置されていた。
加えて破裂した蜂の体液により
絵画は僅かに汚されていたのだが、
単なる思い違いが否か、
その汚れはまるで『返り血』のように
絵の中で微笑む美女の頬に付着していた。
「――我らは甘く、そして冷たい」
そんな不気味な絵画を何者かが持ち去った。




