弐拾捌頁目 水の泡
魔物の扱う魔法が『能力』――
もっと言えば『現象』であるのに対し、
人間が開発してきた魔法は『技術』であり、
長い歴史で蓄積されてきたそれらは
ある種、魔法使いたちの『研究成果』であった。
そんな側面を有しているからこそ、
魔法使いと技術者は表裏一体の密な関係。
人類の兵器魔導機構に代表されるように、
優秀な機械技師ほど魔法使いとしての技能も
高いレベルで習得している事が多い。
ヴェルデが雇った技術長もこのタイプ。
彼の戦闘手段は無数の魔法陣を組み合わせた
ほぼ純粋な魔法攻撃であった。
「射角固定。全砲門展開!」
「おぉ!? やべっ……!」
四方八方から青黒いレーザーが飛び交う。
狭く薄暗い水路を埋め尽くすように、
重低音を鳴り響かせて攻撃魔法が火を吹いた。
それをヘリオは大きく身を捩って回避する。
直後背後では無数の爆発が巻き起こり、
突風が空中のヘリオを後方へ強く押した。
が、それと同時に刺々しい鱗が飛ぶ。
直線の水路を真っ直ぐ飛来し、
ギョッと驚く技術長の防御結界に弾かれた。
「だー惜しい! 当たんなかった……!」
「ひゅ〜あっぶね。怖いことしてくるねキミ」
「む、なんか思ったより平然としてるっすね?」
「強者は弱者の戯れを許してやるものだからね!」
そう宣う技術長はナイフを取り出し地面を蹴飛ばす。
同時にヘリオもくるりと回転を付けて着地を決めると、
即足元の水を弾いて迫る敵に真正面から接近する。
やがて互いの距離が零へと至り、
甲高い接触音が水路の端から端へと響き渡った。
繰り広げられる接近戦の状況は意外にも互角。
動きを阻害する足元の水は海魔の優勢を生み、
魔法陣を複数展開するのに十分な空間が
技術長の手札を増やしてそれを相殺している。
何か勝敗を分かつ要因があるとすれば、
互いの持つ武器の耐久力だろう。
(マズいな、刃が欠けてきた……!)
硬い鱗の鎧に覆われたヘリオの体は
攻防を繰り返す度に敵の武装を摩耗させていた。
またその事にヘリオの方も気付いており、
攻勢を強めて彼は見えた勝機を手繰り寄せる。
魔法陣を砕き、刃を防ぎ、そして遂に、
海魔の拳が技術長のナイフを圧し折った。
「ッ゛っ……!!」
「よしゃ獲ったぁッ!!」
トドメの拳を、ヘリオはすぐさま準備した。
だがそれと同時に技術長は冷や汗を浮かべつつも
真っ直ぐ敵の目を見据えて声を飛ばす。
「お前うちのボスにビビって逃げたらしいな?」
「っ――!」
「しかも透血鬼は見殺しか? 卑怯者の、臆病者」
ヘリオの拳がピタリと止まった。
そして鮫の行動停止から僅か二秒後、
彼は水路全体を揺らす巨大な鳴動を察知した。
「っ!? なんだ!?」
「時間稼ぎ成功……! そして、余所見だぞ海魔ァ!」
「しまっ!」
敵の武装を破壊し、完全に油断していた。
鳴動に気を取られたその一瞬で、
技術長は束ねた魔法陣のレーザーにより
ヘリオの右腕を吹き飛ばす。
切り飛ばされた腕は陸に上がった魚の如く
血を撒き散らしながらピチピチと跳ねて、
その光景と激痛にヘリオが青ざめていると、
技術長は素早く飛び退き、ワイヤーで上に逃げた。
「ぐ……待てやコラ……!」
「もう決着だよ魚野郎。――水門が開いた」
「っ!?」
気付けば鳴動はその激しさを増し、
激音と共に水路の奥から水が押し寄せた。
決して逆らう事の出来ない激流。
それは海魔であっても例外では無い。
直撃した大量の水は瞬く間に彼を押し流す。
無論ヘリオもすぐに鮫形態へと移行したが
撃ち飛ばされた腕の分だけヒレには損傷が残り、
荒れ狂う水の中で姿勢を制御する事すら
満足に行えていなかった。
(がぁ……! 流される……このオレちゃんが!!)
鮫は水の中で藻掻き苦しんだ。
呼吸は全く問題無いはずなのに、
まるで陸の人間が強い風に
吹き飛ばされてしまうかのように、
今は激流が海魔の敵として立ちはだかる。
そしてそんな水の中で混濁するヘリオの脳は、
敵から告げられた言葉を復唱していた。
――『ウチのボスにビビって逃げた』。
確かにそれは結果だけなら紛れも無い事実。
あの夜、ヘリオはヴェルデに恐怖した。
恐怖して、怖じ気づいて、動けなくて、
それでシェナが一人立ち上がる事になって、
彼とベリルの逃げる時間を稼いでくれた。
結果、シェナは無惨な遺体を晒されて、
それを見た幼きベリルは泣いていた。
「………………」
人間の識者曰く、
魔物には四つの感情が欠落しているという。
そのうちの二つとは『悲哀』と『罪悪感』。
魔物は寂しさを感じる事はあっても
決して悲しみを覚える事は無い。
悲しみの発露が無いからこそ、
別離の寂しさもカラッとした物となる。
シェナが死んで勿体ないとは思っても、
それで涙を流すような事は決して無いのだ。
仮にそんな事をする魔物がいるとすれば、
それはきっと純粋な魔物では無いのだろう。
同時に彼らに罪悪感は存在しない。
例え自分が怖じ気づいた事が遠因で
姐さんと慕っていた少女が死んだとしても、
例え自分たちが喪失の悲しみを
共有出来なかったからこそ
ベリルは独りで泣く羽目になったとしても、
それらを理解し、魔物が悔やむ事は無い。
申し訳無いと反省する事は無い。
自分のせいだと心を痛める事は無い。
仮に謝罪のポーズを取る事はあっても
そこに心が伴う事は決して無い。
故にこの場合、魔物の感情は別の出力先を得る。
罪悪感、即ち自責の念が存在しないのだ。
ならばその矢印は――他者へと向かう。
「ッ――!!」
激流の中でヘリオは再び人型に化けた。
無論未だその片腕は失ったままだったが、
変身の最中、彼は一つの確信を得た。
肉体の変形は単なる擬態。
かつてセルスがそれを行う様を見て、
見様見真似で獲得した魔力操作の派生形。
つまり魔物の肉体は魔力操作で変形出来る。
また同時に彼は今まで何度も見てきた。
今から行う事のサンプル。完璧な手本を。
「姐さんは……こんな感じでやってたな!」
~~~~
「ッ――!?」
気配に気付き、技術長は振り返る。
掴んだワイヤーを手放して、
水嵩の真下水路の残る陸地に着地した。
そうして万全とは呼べずとも十分な足場を確保すると
彼はすぐに魔法陣を展開して水面を警戒する。
だが次の瞬間、激流は突然その進路を変えた。
水面から何かが出てくる事を警戒していた彼は
その変化に対応出来ず目を見張る。
そしてすぐに、水塊の中に人型の影が現れた。
「よぉ……ただいまァ!!」
(こいつ、腕が生えて……まさか『肉体再生』!?
ありえない……! この土壇場で習得したのか!?)
「この水、外に出すのはヤバそうだよなぁ?」
「ッ――!」
「お前らに返すぜ。双頭覇鮫『ディアルキア』!」
咄嗟に展開した程度の薄い結界は
突貫する水の物量を前に脆くも砕け散った。
そして海魔の操る激流は
そのまま技術長を諸共に飲み込み、
水路を重力に逆らって逆流し始めた。
「水流操作まで!? マズい……!
このままじゃ今までの努力が!!」
人間たちの蓄え続けていた水は、
全て海魔の支配下に置かれていた。
本来オラクロンに向けて流れるはずの水塊が、
今はヘリオと技術長のみを巻き込み
基地内のあちこちへ流れる激流に変わっていた。
技術長はどうにかその逆流を止めようと
何度も何度も魔法陣の展開を試みる。
だがその努力も文字通り――水の泡。
魔物が引き起こす『現象』を前に、
小手先の技術は尽く洗い流された。
「ちっ、ボスに尻尾巻いて逃げた雑魚が!
今更僕の邪魔してんじゃねぇよ!!」
「あぁ……オレちゃんは逃げた。でもなぁ――」
自責は無い。魔物にそんな考えは無い。
それでもヘリオの脳裏には彼の後ろ姿があった。
「立ち上がらねぇ訳にはいかねぇだろ」
悲しみは無い。罪悪感は無い。
しかし怒りはある。恩讐の果ての他責はある。
傷付いた魔物の気持ちは常に
攻撃的な激情となって敵に出力される。
「ウチの大将が泣いてんだッ!!」
そうして遂に、二人を乗せた水塊は
基地の壁を突き破り縦長の洞窟へと流れ出た。
滝の如く放出された大量の水は
ほんの数秒で最下層を透き通る水面で埋め尽くし、
また即座に二人の体が宙に放り出された。
それでも互いに、すぐさま濡れた顔を持ち上げる。
「ッゥ――忠犬気取りかぁ!?」
「サメちゃんだぁあ――ッ!!」
振り下ろされた棘鱗の手刀が
数枚の防御魔法陣を瓦割りの如く破砕した。
その衝撃は結界を貫いても未だ止まらず、
技術長の体をそのまま真下へと叩き落とす。
対して、目にも留まらぬ速さで
水面に直撃したはずの技術長は
素早くその場で身を捩ると
再び周囲に魔法陣を展開して立ち上がる。
(悔しいが奴の攻撃は強力……ならば!)
技術長は周囲を駆け回る鮫から目を離さず、
指先だけの操作で魔法陣を連結させた。
一つ一つの威力や耐久はそこまででも、
束ねる事で基本性能の底上げを画策する。
言わば量より質。効率を求める技術者らしい。
「連結魔砲。出力最大!」
が、賢き愚者はその逆を征く。
「三頭覇鮫『トリアルキア』!!」
「なに!?」
鮫を模した水塊が再び技術長を襲撃した。
それは予想よりも更に一つ多く、
準備されていた魔法陣の数が微妙に足りない。
「増やせば良いってモンじゃないだろぉおお!」
雄叫びと共に技術長は更に
数十枚の魔法陣を増やして対応を試みた。
だが追加分の魔法陣はやはり強度が足りず、
三匹目の鮫は結界を突き破り真っ直ぐ突き進む。
これに危機感を覚えた技術長は
冷や汗の伝う目元を更に鋭く尖らせると、
決意を固めたように歯を食いしばる。
そして彼は残る全ての魔法陣を一つに束ねた。
「残存術式全統合! 『極彩砲』ッッッ!!」
攻撃は最大の防御。
それを自らの窮地で証明するかのように、
技術長は持ち得る最大火力を解き放つ。
やがて束ねられた七色の極彩は
迫る鮫の頭部を粉々に撃ち砕き爆散させた。
がその瞬間、技術長は戦慄する。
何故なら霧散した水流の発生源には、
レーザーの着弾点となるその場所には、
本来居るはずだった海魔の姿が無かったからだ。
またそれと同時に彼の体をうっすら影が覆う。
洞窟とは言え僅かに差し込む光を受けて、
彼の後ろを取った鮫の姿を映し出していた。
(そうか……攻撃に使った鮫型の水塊
あれを自分専用の水路にして高速移動したのか!)
「四頭覇鮫――」
(加えて間髪容れないブッコミ。あぁ、負け……)
「――『テトラルキア』!」
「ッ! 負けてたまるかぁあーーーーー!!!!」
瞬間、両者の得意技が空中でぶつかる。
ヘリオから放たれたのは四頭連なる水の鮫。
そして技術長からは、正に背水の陣。
火事場の馬鹿力とも言える魔力の放出により
その四頭を抑え込むに足る四枚の障壁を展開した。
それらはお互いの意地を代弁するかのように
激しい鍔迫り合いを続けて拮抗している。
この時、技術長は既に心の持ち様一つが
勝敗を分かつと直感していた。
「負けてたまるか! 負けてたまるかぁッ!」
口から血が噴き出る。
額にムクムクっと血管が浮き出る。
「今度こそ見返すんだ! 世界を!」
ギリギリ言葉になる叫びが爆ぜる。
雄叫びに共鳴して魔法陣が回転数を上げる。
やがて僅かに技術長のバリアが水塊を押した。
「この僕の実力でぇえええええええ!!」
「五頭覇鮫」
「……は?」
賢き愚者は知っていた。
勝敗を分かつものは気持ちなどでは無く、
また、結局戦いはゴリ押しした方が強いという事を。
「『ペンタルキア』!」
水を操るヘリオの腕から、
更にもう一匹の鮫が飛び出して行った。
それは他の鮫がギリギリで抑え込む
障壁の合間をスルリと抜けて、
真っ直ぐ呆けた敵の腹をブチ抜いた。
「がぶ!? が……は……!」
やがて展開されていた障壁が消え、
残りの鮫たちも一斉に敵を狙って飛来する。
それらが着弾するまでの僅かな間、
海魔はそれを見下ろし汗を拭う。
「ふぅー勝った勝ったー。辛勝だったぁ〜」
「あ、あ゛ぁ……」
「アンタ散々オレちゃんを罵ってくれたっすけど、
まあ今回は、水に流してやるっすよ!」
「あぁあぁぁぁぁああああ!!!!」
やがて水圧と激闘に耐えきれなくなった地面が
音を立てて大きく崩壊を始めた。
結果水の鮫に噛み付かれた技術長は、
そのまま深い闇の中へと流され消える。
激情も、陰謀も、敵幹部も、
纏めて排水口へと流れていった。
〜〜同時刻・最上層〜〜
太陽はまだまだ高く、
日向に入れば少し苦しさを覚えるほどに暑い。
そんな情報が仕入れられるこの場所は、
基地内にある飛行船の発着場。
整備ドック直通の発着場とは別の、
ただ天に繋がるためだけの広い空間だった。
そんな風通しも良い空間の、
一番風通しが悪い飛行船内にて、
ヴェルデは操縦室の椅子にて休憩していた。
(戦闘音が減ってきた……だが……)
「幹部たちはまだか!? 敵は今どこだ!?」
(どうやら負け戦みてぇだなぁ〜?)
慌てる部下たちの様子を
チラリと見つめるその瞳はまるで他人事。
今も足元では彼を慕う部下が戦っているのに、
そんな事など認知すらしていないかのように
彼は欠伸混じりに気配で戦況を分析していた。
やがて幹部三名の敗北を
様々な情報から何となく察すると、
ヴェルデは船長を雑に呼び付け指示を出す。
「飛ばせ」
「は? いや……しかし!?」
「バーカ、もう待ってても誰も来やしねぇよ!」
彼は魔物では無いはずなのに、
むしろ人間の英雄であったはずなのに、
その語気に悲しみの感情は全くない。
それが妙に不気味で、恐ろしくて、
船長は本能のまま従わざるを得なかった。
やがてタービンとプロペラが回りだし、
幾つもの砲門を乗せた飛行船が呼吸を始める。
山を切り拓いて作られた発着場から、
空の鯨はすぐさま飛び立った。
(作戦は失敗……結局釣れたのは公国の闇だけか)
手柄としては十分。
そう言い聞かせるように溜め息を漏らし、
だがそれでもやはり計画が水泡に帰した事を
ヴェルデは嘆くように指先で眉間を押さえつけた。
(今更魔物を何匹殺そうが何も変わんねぇ
俺がルビィを超えるためには、人を――)
刹那、飛行船が突如として爆発する。
何らかの攻撃を受けて炎上し始めたらしい。
船長は酷く慌てた様子でそう告げるが、
ヴェルデは嗄れた溜め息を長々と漏らすと
愛用の武具たちを装備して移動を始めた。
「ったく、結局魔物退治かよ」
〜〜〜〜
「おぅお前か、羽ガキ」
黒煙が昇り制御を失いつつある飛行船の上で
ヴェルデは襲撃者の姿を一瞥して声を弾ませる。
目の前に居たのは復讐に燃える魔物の五歳児。
彼は黒い翼を大きく広げてそこに立っていた。
「ヴェルデ……クラック……!」
「まさかここまで追ってくるとはな
何だお前、俺の熱烈なファンだったか?」
「ッ!!」
ただの冗談すら今は可燃剤。
彼の激情を代弁するかの如く背後では爆発が起こる。
その逆光で顔に深く影の落ちたベリルの瞳は
邪悪な深緑色に輝いていた。
「ここで殺す! ヴェルデ・クラックッ!!」
そうしてベリルは怒りに任せて駆け出す。
自身を中心に複数枚の刃根を入り乱れせながら、
真っ直ぐヴェルデに向けて突撃をかます。
対するヴェルデは少年の行動を下策と嘲笑し、
足場の悪い飛行船の上で曲芸かの如く
大きく斧を回転させながら刃根を迎撃し始めた。
(刃根を操れたのは意外……けど弾幕が薄いなぁ!)
腕を振るう度に旋風が生まれ、
鋭利な刃根が次々に塵となって消えた。
だがその時ヴェルデは異常に気付く。
先程まで確かにこちらへ向かっていたガキが、
今は目の前から完全に消え失せていたのだ。
ヴェルデがそれに気付いた正にその瞬間、
今度は彼の視界がグラっと大きく揺れ動く。
否、フラついたのは彼の体では無い。
制御を失い墜落し始めていたのは
足場である飛行船の方だった。
「っとと! 流石にこれはヤベェか」
飛行船がもう保たない事を悟ると
ヴェルデは一人、森林へ続く道を探す。
最早彼に仲間を助けるつもりなど無く、
その思考は既に自分専用のものと化していた。
やがて彼は爆発によって
空中に放たれた瓦礫に活路を見出すと、
何の躊躇も無くそこに向けて飛び出した。
またそれと同タイミングで飛行船は完全に爆散し、
彼は背後に迫る業火から逃れるように
瓦礫を蹴って地上へと降りていった。
が――
「そこだ、『空皇』!」
「っ!」
――飛来した黒羽がヴェルデの足場を射ち壊す。
流石の元勇者パーティ戦士でも
このタイミングでの襲撃には対応出来ず、
彼は空中で真っ逆さまに体勢を崩す。
その好機を天魔は見逃さない。
燃える瓦礫の裏から素早く飛び出すと
彼は今度こそヴェルデを狙って翼を広げた。
刃先がポッキリ折れた、軍用ナイフを携えて。
「ハッ! この程度で俺様が狩れるとでも!?」
「やれるよ。空なら僕は負けはしない!」
青空のパレットに両者のシルエットが交差する。
直後空中には真っ赤な血が鮮やかに飛び散り、
二人の影は森の中へと落着していった。
そうして地面に立っていたのは、人間の戦士。
泥塗れの地面に突っ伏していたのは
翼の一部を斬り裂かれていた魔物の仔であった。
「フン。結局この程度かよ羽ガキ」
「ハァ……! ハァ……!」
「まぁ良い。今回はすぐ殺してやる」
「ハァ……! ハァ……――上手くいった」
「は? ヅッ――!?」
突如としてヴェルデの体に異常が起こる。
視界に広がる色合いが一瞬変わり、
激痛が内側から彼の体を強く叩いた。
歴戦の戦士はこの状況をすぐに分析し、
そして即座にその原因を突き止める。
よく見れば彼の腕には小さな切傷があったのだ。
「毒か!?」
「そうだよヴェルデ・クラック
どうしてもナイフでトドメを刺したかったからね
お前が殺した、シェナのナイフで!」
「けど接近戦じゃ勝算はねぇから、毒か……!
グッ、フッ! なんだよ、結構頭柔軟じゃん?」
「褒めてる余裕は無いんじゃない?
その毒は僕が以前戦った花の魔物から採れたもの
凄さは僕も良く知ってる。それをたっぷり塗った」
「……」
「もう喋る元気も無い? なら――
これで終わりだ! ヴェルデ・クラック!!」
ベリルはナイフを固く握り締め、
立ち尽くす男の心臓目掛けて突進した。
彼の立てた作戦は実際効果的であり、
毒は既にヴェルデの全身を蝕んでいる。
激情に駆られる五歳児が一人で立てた作戦は
一切狂い無く目論見通りの結果を生んでいた。
故にこそ、悔やまれる――
「なぁ知ってっか?
冒険者パーティには『タンク』って役割がある」
「!?」
突撃を敢行するベリルの視界から
見据える敵の姿が消失した。
否、確かに一瞬消えたのだが、
それはすぐに彼の眼前に現れた。
翼で飛翔するベリルよりも更に数段速く、
踏み込み一回で戦士は間合いを消し飛ばした。
(速――)
感想が脳内に浮かぶよりもずっと速く、
少年の腹をヴェルデの拳が直撃した。
それはまるで砲弾でもぶち込まれたかの如く重く、
乱れた体勢のせいで流れたその余波が
周囲の木々を地盤ごと捲るほどの風圧を生む。
明らかに、これまでとレベルが違う。
そう実感する事で精一杯のベリルは
白目を剥き、胃液を垂れ流しながら倒れた。
やがて何度も咳を吐き出し、
彼は弱々しく曇った瞳で敵を見上げる。
「どういう……こと……?」
「タンクの仕事は敵の攻撃を受ける肉の盾!
俺様はその中でもかなり特殊な体質でよ
ダメージを受ければ受けるほど強くなる!」
「!?」
「だから毒なんてモンを喰らった日にゃ
今くらい滅茶苦茶強くなれちまう!
くだらねぇ策も片手で潰せるくらいにな!」
「そん……な……!」
最初から作戦が間違っていた。
ベリルの計画は深い絶望と共に水泡に帰す。
そしてそんな彼を更に追撃するかのように、
ヴェルデは悪辣な笑みを近付けた。
「てっきりこの情報は知られていると思ったが、
まさかお前、俺様憎しで話聞いて無かったな?」
「ぅ……黙れぇ!」
「図星かよ。へっ、知らねぇようだから教えてやる
情報はな、魔王も殺せる最強の武器なんだぜ?」
「ッ――!」
普段から意識しているはずのことを、
今は仇敵に指摘されてしまった。
それがとても悔しくて、恥ずかしくて、
ベリルは握った拳を何度も地面に叩きつける。
そんなガキの泣き顔が爽快で、
ヴェルデはしばらくケタケタと嗤い続ける。
だがそれでもすぐに飽きてしまったのか、
彼は足で斧を手元まで蹴飛ばすと冷たく告げた。
「じゃ殺すか」
「……! うぁあッ!!」
魔物の仔は翼を広げて戦意を見せる。
だがすぐに彼の両翼は根元から斬り飛ばされ、
風圧が少年の体を再び地面に叩きつけた。
全く見えなかった。速すぎるし、強すぎる。
まだ致命傷を受けていないのは単に
ヴェルデが相手を甚振る趣味を持っているから。
その気になった瞬間本当に殺されると
利口な少年の脳は正確に理解してしまう。
だがそれでも、戦意は尽きない。
武器を失った少年は泥を拾って投げ付けた。
言葉にならない声を吐き出しながら、
涙と泥とでクシャクシャとなった顔で、
復讐を誓った五歳児が必死に抵抗を続けていた。
「チッ、汚えーな!!」
「がぁ!?」
そんな少年を元勇者パーティは足蹴にした。
体質によって強化された蹴りは
それだけでも鈍器で殴られたように重く、
少年の服の下には痣と血溜まりが刻まれる。
だがそれでも、少年の戦意は消えない。
逆にベリルはその小さな手でヴェルデの足を掴んだ。
「ハァ……ハァ……ぐぶっ、ゲホっ!」
(なんだコイツ? 諦め悪過ぎるだろ)
「離、さない……今、殺すんだ……!」
(こんなの、まるで、まるで――)
「絶対……! 絶対にッ……!」
「――!?」
その瞬間、ヴェルデの目は幻覚を見た。
今正に足蹴にしている少年の顔に、
赤毛の青年の、闘志に満ちた顔を重ねた。
かつて共に旅をして勇者と呼ばれた青年の顔を。
「なんで、ルビィが?」
呆けるようにそう呟くと、
ヴェルデは少年を蹴飛ばし目元を手で覆う。
何故魔物のベリルに人間の勇者を重ねたのか、
何故そのような印象を受けてしまったのか、
彼の中にある情報と繋げ、答えを得た。
「――! ハハッ! ハハハ、ハハハハッ!!」
「?」
「なんだ、なんだよそう言う事かよ!!」
一人合点がいったように、
ヴェルデは大口を開けて笑い出した。
笑って、笑って、笑い続けて、
まるで踊るかのように回り続けると、
やがてピタリと停止し、真っ直ぐ顔を上げた。
「やってくれたなぁ! ギドさんよぉ!!」
血走る彼の瞳が向けられたその先に、
名前を呼ばれた魔物は立っていた。
木々の隙間からぬるりと生えてくるように、
いつもの笑みを浮かべる白衣の剣士が其処にいた。
「ギド!?」
「お待たせしましたベリル
……この前預けたペンダントはまだありますか?」
「う、うん? ずっと掛けてるよ?」
「それは良かった。さて――」
そうしてギドは剣に手を掛け一歩進む。
その度に禍々しい魔力が輪を描き、
本気となった魔物の影を妖しく装飾する。
まるで其処には強大な怪物がいるかのように、
世界が彼の歩みを恐れて避けていた。
「お久しぶりですヴェルデ・クラック
その子は私の子供です。手出しは無用で」
「あぁそう!? やっぱ最悪だよお前!!」
何やら両者の間には因縁がある様子。
しかしベリルにはその事情など知りはしない。
それでも今の彼でも分かる事が
たった一つだけ存在している。
それは今この瞬間、この場にて、
両陣営の『最強』が相対したという事だった。




