終 色づいていた
――***
攻防はなかなか終わらなかった。
「用事とやらを手伝わせてください」
「不要ですから、庭にお戻りになって」
パーティで賑わう庭を離れて屋敷の中へと入るが、用事を手伝うと言って譲らないローガンが後をついてくる足音が聞こえてくる。エリスはもう一度、聞こえよがしにため息を吐いた。
静まりかえっている玄関ホールの中心で立ち止まると、背後の足音も止まった。
「ついてこないでくださる?」
「私達の婚約披露を兼ねた大切なパーティーの最中です。用事の内容によっては、何かエリスさんのお力になれるかもしれない」
「大切なんて……! いい加減なことをおっしゃらないで! ローガンさまはほんの少しも思っていないでしょう!?」
乱暴な感情のままに振り返って声を上げる。
ローガンと向き合って、エリスは大量の冷水を頭から被ったような気分に襲われた。興奮に顔を真っ赤に染めるエリスと向かい合っていたのは、予想していたローガンの余裕めいた笑顔ではなかった。
真面目な顔付きをした彼は、静かでも確かな足取りで歩み寄ってくる。
「心外ですね。今日は大切な日です」
大切…………いいえ、ありえない!
二年にも及ぶ父の説得についに折れてしまったローガンに、思ってもいないであろう言葉を言わせてしまっている状況。自分自身を愛し大切にしてほしいと願ってくれたローガンに対して、まっすぐ顔向け出来ない、この有様。
ついにエリスは耐えきれなくなり、ローガンに向けていた顔を勢い任せにそらして横向けた。
「エリスさんは、なぜ私が今日を大切な日だと思うはずがないとお考えになるのです?」
「父から聞きましたわ。わたくしと結婚してくれと二年間もしつこく説得され続けていたのでしょう? ローガンさまは今もずっとアイーラ妃殿下を愛し続けておられたのに、断り続ける事に限界を感じ、仕方なくわたくしとの結婚を承諾されたのよね」
「エリスさん」
痛みは感じないほどのぎりぎりの力強さで、肩を掴まれていた。
普段のローガンならばこんな触れ方はしない。八年間、一度たりともこのような触れ方をされたことがなかった。声が震えてしまわないように説明していたエリスが驚いて顔を上げると、険しい表情のローガンがエリスの顔を覗き込んでいる。
「私が今もアイーラ妃殿下を愛しているなどと、一体いつからそのような悪質な噂が流れていたのですか? 真実だとお考えに?」
「悪質な噂ですって? 誤魔化しは通じないわよ」
両肩を掴むローガンの両手首を、エリスも決して逃しはしないと言わんばかりの勢いでキツく掴み、握りしめる。ローガンを見つめるエリスの両目にはみるみる涙が浮かび上がっていた。
「初めてお会いした悪夢のような夜からずっと、わたくしは八年間もローガンさまを見ていたわ! 心からほんの少しも、片時も離れてくださらなかったのは、ローガンさまだけだったんですもの!」
ローガンと離婚し、やがて第二王子と再婚し、子に恵まれたアイーラ。
第二王子の妻となり母ともなったアイーラの美麗さは損なわれるばかりか、歳を重ねる度に一層輝いているように見えた。多くの貴族達が集う社交場にも、常に第二王子の隣に寄り添い微笑んでいた。ふくふくとした、可愛らしい子をその腕に抱いて。
神々しい程までに美しく幸せに満ち溢れていた様子で。
アイーラが公の場に現れる度にエリスはローガンを探し、見つめてしまった。彼がまた傷つき苦しんでいるのではないかと思うだけで、辛かった。
ローガンは他の貴族達同様に、いつも拍手をしながら王族を見上げ、迎えていた。
最初の二年間は緊張を隠さない面差しで。
徐々に力が抜けたような冷静さで。
最近は、他の貴族や淑女に向けるようなものと同じような柔らかい微笑を浮かべた横顔で。
「形は変わってもアイーラ妃殿下を一途に想うローガンさまの妻になるだなんて……わたくしは、わたくしよ。どうしたってアイーラ妃殿下の代わりにはなれないのに……!」
喉を鳴らし、鼻を詰まらせ、淑女にあるまじき泣き顔をさらしながら、エリスは覚悟を決めて一層強くローガンの手首を掴む両手に力を込めた。
貴族の娘でありながら、恋心を自覚した瞬間に失恋し、下を向くのは本当にこれで最後にしなければ。エリスは唇を噛んだ。もともとローガンとの結婚は望んでいなかった。考えたことすらも無い。
一切、考えられなかった。
ローガンは再婚を望んでいる様子は見られないどころか、再婚願望を問われる度に「ありません」と否定し続けていたことも知っていたからだ。
ローガンの心の安寧を切実に望んでいた。
今のままで彼が満足しているのならば、充分に良かったと思えていた。
「ローガンさまが好きなのよ! 婚約が成立してしまってから沢山考えたけれど、わたくしにはローガンさまを幸せにする方法も、力も、何も無い。お願いですから婚約を破棄してください。父の説得に屈して、諦めて結婚を選択して人生を棒に振るなんておやめください! わたくしも、結婚せずに生きていく手段は以前から考えておりますもの! もしも父への配慮やわたくしへの同情が理由で承諾してくださったのでしたら、それこそ余計なお世話ですし迷惑だわ!」
一気に言い募ったが、以前の父とのやり取りを思い出し、愕然としているローガンの様子に、エリスは急激に押し寄せてくる巨大な罪悪感にハッと黙り込んでしまう。
肩を掴むローガンの手首を握っていた両手を、そろそろと離し、そのまま下ろして強く拳を握りしめた。
「また……わたくしはいつも、その、一方的に勝手なことばかり」
「婚約破棄はしません」
「なぜ!?」
エリスは驚愕した。
ローガンの冷静な眼差しは、今まで一度たりともエリスに向けられことがない類いの感情を強く含んでいるような気がしてしてしまう。
ざわりと心臓が揺さぶられて落ち着かない。
「エリスさんがこんなにも情熱的な人だと知る者は、婚約者となった私だけでしょうか?」
「何をふざけてっ……」
ローガンの両手がエリスの肩から離れていく。
彼の両手は滑らかな動作でエリスの両手をつかみ、包んでいた。
「ふざけている余裕などありませんし、配慮や同情だけで結婚を決めるような男でもありません」
彼の両手から伝わる温かい体温。
ローガンの両手は、エリスの両手を慈しむように、ただただ優しく触れている。
「あなたが好きです。生涯の伴侶となり、これからの私のすべてをエリスさんに捧げると誓います」
「……」
「信じられませんか?」
真剣な眼差しを向けられたまま静かに問われて、唖然としていたエリスは赤面した。
ぐしゃりと表情を崩して、顔を左右に振って否定することしか出来ない。
「いいえ! いえ、いいえ。混乱しているのよ。アイーラ妃殿下だけではなくわたくしも好きだなんて! 理解が追いつかないに決まっているでしょう?」
「違います。母となられたアイーラ妃殿下を祝福していましたが、まさか愛しているなどと認識されていたとは思いもしませんでした」
「祝、福?」
「過去は否定しません。事実であるのはエリスさんがよくご存知です。確かな愛情があったからこそ、憎悪は大きく、悲しみは深すぎた。殿下の言葉のままに自暴自棄になってしまいたい衝動に襲われた瞬間は数え切れないほどありました」
そんな様子はまったく感じられなかった。
おそらく多数の人々は思っていた。ローガンは常に余裕に溢れている。誰に対しても人当たりは良く、朗らかな笑顔が多く、公平に親切だ。
エリスはずっと心配だった。よりにもよって、彼が一番誰にも見られたくなかったであろう姿を目撃してしまっている。
ローガンは一体どのようにして、傷と向き合っていたのか。どうか孤独でありませんように。彼のすべてを受け止め、大事に想う人がそばにいて欲しいと、ずっと願っていた。
「アイーラ妃殿下の抱えていた寂しさに気付かず、気付いた時には手遅れだった。少しずつ冷静さを取り戻しながら、己を省みた時に、後悔もしました。エリスさんのご家族のように絆を強く結び、愛情を築いている仲間達を多く知っています。……私とアイーラ妃殿下は、様々な要因が重なり、夫婦仲を深めるには至らずに別れました」
やわらかな口調で話すローガンの灰色の瞳は、はらりと涙が途切れないエリスの藍色の瞳を見つめ続けている。ローガンの口からアイーラのことを聞いたのは初めてのことで、エリスは衝撃を隠せなかった。
慎重に言葉を伝えてくれている。
エリスは肩を落とした。
「わたくしがローガンさまの立場であれば、自分を省みて後悔する以上に、裏切りそのものが、多分、永遠に許せない。恨んで、憎み続けてしまうわ」
「当然の感情ではありませんか? その感情は永遠に残り続けるものだと、以前までは私も思っていました」
以前までは?
純粋な驚きを見せるエリスに、ローガンはもう一度目元をやわらげた。
「人を恨み、憎み続けるだけに執着する人生は苦しいものですよ。目に見えるすべてが無価値で、何もかもを失った心地でいた時間がありましたが、やはり同じように、時間と人によって癒やされ、救われました。過去の出来事や人に対する負の感情だけを原動力にして、毎日を蔑ろにするような生活は止めようと思い至ったのです。私はもう、エリスさんのお父上に説得されるよりも前々から吹っ切れていましたよ? 私を信じ、寄り添ってくださった方々のおかげです。それと、エリスさん。どれほど心配してくださるばかりでなく、幸福を願ってくださっていたかも。伝わっていましたよ」
「……!? わたくしっ……そんな、何もしていないわ!」
「過去のお言葉や行動はすべて無意識だったと?」
いつどこで、何を言ったというの!?
しげしげと、深く感心した様子のローガンの視線に、エリスは言葉を失った。
変なことを言った覚えはない。
が、ローガンが喜ぶような言葉をかけた覚えも、過去をどんなに必死に遡っても思い出せなかった。燻るばかりの厄介でしかない好意を悟られたくないばかりに、ろくに目も合わせず、憎まれ口をたたいていた記憶ばかりが蘇る。
対するローガンはいつも楽しそうにニコニコと笑っていてた。一貫して淑女として相手をしてくれたが、とにかくずっと、少しばかりお節介だった記憶しかない。
お節介されることを鬱陶しいと思い込むようにしていた。
……本当は嬉しかったくせに。
素直に喜びや感謝を表すなど考えられなかった。迷惑でしかない好意が、ローガンに伝わってしまうのを恐れていた。
彼からの優しさのすべてをお節介という言葉に乱暴にまとめて、邪険にするような態度を取ってしまった日は、言った瞬間からとても落ち込んだ。もともと、少しでもこちらを侮るような紳士相手への態度は問題ばかり抱えていたが、ローガンに対してはまったく別の理由であまりにも露骨に言葉も態度も問題だらけだった。
気になっていて、心配で、特別な人に対する態度が一番酷いなんて。
このままでは必ず愛想をつかされ、嫌われてしまう。エリスはいつもびくびくと怯えていた。威嚇するような威勢のよい言動の裏側は、大量の臆病虫達がうじゃうじゃと蠢いていて、その存在に蝕まれているのを、エリス自身が嫌になるほど知っている。
しかし、いつも不機嫌で素直ではないエリスに対して、終始笑顔で「私はエリスさんに対して出過ぎた真似ばかりしていますね。すみません」と気負わずに話し、積極的にダンスや歓談の場に誘ってくれるローガンに何度も惹かれ、罪悪感に苛まれ、ぐらぐらと心が揺れてしまう八年間だった。
「ちょうど二年程前に、ボルロウ家で行われた舞踏会をエリスさんは覚えておられますか?」
「ボルロウ家……?」
「多忙な時期で、少々身体の調子が優れなかったのですが、仕事や社交に支障をきたす程ではありませんでした。そんな時期に初めてエリスさんから歓談に誘ってくださった時は驚きましたよ? でも、目的は歓談ではなかった。誰も気付かない程度の私の顔色の悪さにめざとく気付かれていて、言葉を発することも許さずに休憩室に引きずり込んでいきましたね」
――社交も大事な仕事でしょうけれど、今のあなたは寝ているべきだわ! 倒れてからでは遅いのよ! ご自分を大事になさって、なんて、一体どの口がおっしゃるのよ。信じられないわ!
「凄まじくお怒りでしたが、覚えていますか?」
「覚えっ……なぜ覚えていらっしゃるの!?」
「忘れるのは無理です。怒り心頭のご様子でエリスさんがドアを閉めて立ち去られてしまった時には、思い知りました。初めて出会った時から、エリスさんにだけは恐らくずっと敵わない。あんな風に熱心に私の心配をするのは、世界中を見渡し探してもあなただけです」
そう話すローガンは、エリスが望んでやまなかった、曇りを感じさせない笑顔を絶やさない。今は少し苦笑まじりではあるが。
彼の両手はずっとエリスの両手を包み込んで離さない。
過去の場面ひとつひとつを思い出す度に、恥ずかしさと後悔だけではなく、ローガンに対する感謝や憧れ、恋情。さまざまな感情まで蘇ってくる。
ずっ、と淑女のマナーも無視して盛大に鼻をすすった瞬間、両目からボロボロと涙がこぼれた。
「わたくしを二年前から想ってくださっていたのでしたら、父が説得した時点で、結婚を承諾出来たのではなくて? ローガンさまは誰が相手でも再婚を拒み続けていましたし、わたくしに対してもご自身の結婚に関する言葉は何もおっしゃらなかったでしょう?」
ゆっくりと視線を下向けるローガンの睫毛を見つめて、エリスの眉間は曇ってゆく。
一瞬だけ落ちた沈黙を破り、もう一度顔を上げたローガンに笑顔はない。今の彼からは確かな『弱さ』を垣間見れて、エリスの背筋に冷たいものが走っていた。
まざまざと思い出してしまう。八年前に目撃してしまった悲劇。
打ちひしがれていたローガンの姿。
「夫婦が決定的に壊れた瞬間を、成人したばかりのエリスさんに見られてしまい、突き放すような言葉をかけてしまった。酷いトラウマを与えてしまってもおかしくはありません。日頃からお世話になっていた大佐の娘さんだと知った時も衝撃でした。……きっかけは自分本位でしかない罪滅ぼしです。ご家族だけではなく、エリスさんご自身が納得出来る紳士と結婚して欲しい一心でした。年月が経ち、思考が変化しても、結婚相手が自分であるなどという現実は到底受け入れられませんでした。王族が絡む醜聞を抱えた歳上の男ではなく、他に相応しい者が必ず存在する。何度も説得してくださったとしても、結婚の承諾は出来ませんでした」
「罪滅ぼしが目的で颯爽と現れてはにこにことダンスを踊って何度も足を犠牲にされて、歓談のお節介を焼いていたの!? 腹立たしい程に器用にこなしておられましたわね!? 本当に余計なお世話だわ、失礼な人!」
「……はい、もう、おっしゃるとおり、――!?」
ゴツッ
重く鈍い音が二人の間ではじけ飛ぶ。
エリスの頭突きが不意打ちでローガンの肩を襲い、少しばかり身体を傾がせながらも素早く体勢を整えていた。びっくりと目を丸くしているローガンを、エリスはずきずきと痛む頭をこらえながら真っ赤な瞳を細めて見上げた。
両者の身体が大きく動いても互いの両手は離れなかった。
離したくない、離れたくない。二人の意思が同じだから離れない、そうであって欲しいとエリスは願った。
「今日からずっと、ローガンさまが気おくれするのも馬鹿馬鹿しくなるくらいに、疑いようもないくらいに何度でも伝え続けるわ。わたくしが好きなのはローガンさまよ! ずっと、あなたのことが大好きだった」
驚き顔をほどいて、困り果てたように笑顔を浮かべるローガンの灰色の瞳が、少しばかり艶めいている。昼下がりの陽光が細く当たり、ちらちらと光っている。
光を反射する美しい水面のように。
「私に婚約を破棄して欲しかったのでは? そのように熱烈な告白をするのではなく頑と拒絶しなければいけないと思いますが」
「ええそうよ。婚約を破棄して欲しかったわ。でも、しないのでしょう? 散々悩み続けた上でわたくしの返事を父から聞いて、覚悟を決めて承諾してくださったのよね? ……ローガンさまも、わ、わたくしが好きなのでしょう?」
まったく枯れる気配がない。
身体が変になってしまっている。またも涙がぶわりと込み上げて、怖々と聞き返す言葉がみっともなく震えている。
「おっしゃるとおりです。エリスさん」
夢じゃない。本当に本当の現実なんだわ。
やっと実感がこみ上げてきた時、エリスの両手を包むように握っていたローガンの両手が解かれて離れていった。
「ローガンさま?」
なぜ手を離したの?
所在なく両手を宙に浮かせたまま名を呼ぶと、ローガンは両手を腰にあてた。いちおうは微笑を浮かべた顔はどことなくぎこちない。普段のローガンらしくない笑顔だ。
「もう一度お尋ねしますが、用事とやらの手伝いは本当に不要ですか?」
「用事は、なかったわ。婚約を破棄してもらわなければいけないと焦っていて、ローガンさまの視界から離れて策を考えなければいけなかっただけよ」
「考える必要が無くなりましたね。しかし、一旦このまま部屋に戻って休まれた方がよろしいかと。身支度も整え直したいでしょうから、メイドに声をかけておきますよ。私は庭で待っています」
「……なぜ急によそよそしい態度をとるのかしら?」
好きの感情が重すぎて鬱陶しがられてしまった?
不安と同じ位に、穏便に距離をとろうとするような態度の急変ぶりに混乱していた。ローガンは意外なことを聞かれたとでも言うような反応を示したが、右手で眉間をつまむように押さえて強く目を閉じた。
「油断しました。箍が外れかけてしまったもので」
「遠回しな言い方をせずにおっしゃって」
「素敵な婚約者に好きだと言われて我を忘れ、ここで言葉にするのは憚られてしまうような振る舞いを衝動的にしでかしそうになったからです」
……聞かなければ良かった!
しどろもどろになるエリスとは反対に、ローガンは額にあてていた右手を元に戻すと、ああ清々した! とでも言うかの様子で、堂々としていた。
いつものような余裕が完全復活している。
「やはり私がエリスさんを部屋まで送って――」
「結構よ! 庭に戻ってお待ちになって!」
勢いよく踵を返し、二階にある私室に向かって一目散に階段を駆け上がる。階段を上りきって、息を整えながら玄関ホールを見下ろすと、ローガンは姿が見えなくなるまで見送るつもりだったらしく、こちらを見上げていた。
「待っています」
灰色の瞳をゆるく細め、信じられないほどの優しい眼差しを向けたまま軽く片手を持ち上げて、ローガンは言う。
ぐっ、と息を呑んで小さく喉を鳴らし、不器用な動作で無言のまま頷く返事が今のエリスには精一杯だった。
ローガンと夫婦になる未来。
あり得ないどころか、考えたことすらなかった未来が現実になる。
色味はあってもどことなく薄暗く、靄がかったようにしか想像出来なかった未来が、くっきりと鮮明で彩り豊かに描かれ始めている。
これからの日々がこんなにも不安で、不安以上の大きな期待に満ちて、待ち遠しいような感覚は初めてかもしれない。
部屋に向かう前に、エリスは両手で階段の手摺りを掴んで、顔だけではなく身体ごと全身でローガンを見下ろした。不思議そうにこちらを見つめてくるローガンのちょっとした表情の変化だけで、ぎゅっと胸が苦しくなるのは、一体いつまで続くことになるのか。
「……絶対に! わたくしはローガンさまを幸せにしてみせます! お恥ずかしいほどに悪評だらけの未熟者ですけれど。あなたに相応しい淑女を目指すわ。あなたが願ってくださったように、自分と、あなたを素直に愛して大切にすると誓います。今よりももっと幸せになる覚悟を決めて、結婚してください!」
今日何度も見た中でも、一番大きなローガンの驚き顔を目に焼き付けて、返事も聞かないままエリスは部屋へと向かって大股に一歩を踏み出した。
こういう突拍子もない行いこそがそもそも淑女にあるまじき行いで、幼稚で恥ずかしいことなのよ! と、なけなしの淑女心が耳元でお説教を始めだしそうになっていたが、振り払うように顔を横に振りながら――
「エリスさん!」
階段をのぼる靴音すら聞こえていなかった。
名前を呼ばれて咄嗟に振り向いた先にいたローガンの姿に、今度はエリスが驚き立ち止まってしまった。躊躇いなくまっすぐに伸ばされたローガンの両手が、エリスの涙に濡れた赤い頰に触れて、大切そうに優しく包みこむ。
「好きの言葉ではまったく足りません。私にとってかけがえのない存在がエリスさんです。幸せにします。必ず」
近すぎる距離にある二つの灰色の瞳から、緊張を隠さない情熱的な強い眼差しが向けられてくる。ほんのりと赤らんでいるローガンの肌。すべてが影に隠れて暗いのに、やはりなぜか、ひとつひとつがくっきりとしている。
美しく色づいて見える。
「綺麗ね」
涙交じりに笑いながら、エリスはぽつりと囁いた。
* うつくしい彩り人 fin *