表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

中 ふたりの願い


 彼とは関わりたくない。

 彼から関わってくることもない。


 そう思っていたはずなのに、食事会の日をきっかけにローガンと関わる機会が途切れることなく続いていた。

 エリスの想像以上に、父とローガンの二人の関係性が、身分や立場、年齢の垣根を越えて親しい間柄である事実が、娘であるエリスを含む家族達も交流の機会が増えてしまう原因になっていた。軍の任務や訓練で出港してしまえば会わずにいられるが、帰港している間はそうはいかない。

 社交シーズンならば尚更だ。


 気まずすぎる。顔を合わせたくないのに!


 エリスが一人でそわそわとしてしまうほど、父だけではなく家族までもが、ローガンと過ごす時間を楽しみながら関係性を築いていく。ローガンはカセラ家全員に対して友好的だった。もちろんエリスに対しても。母や祖母、兄に対して接する時と同じような態度という意味での友好的だ。


 エリスだけがローガンに対してなかなか打ち解けられずにいる。

 特に社交場では。


 エリスが何も語らなくとも、そもそもエリスが社交界デビューするよりも前から、ローガンの妻アイーラと第二王子のただならぬ関係は社交界でも噂になっていたらしい。

 成人したばかりで自分の悩みで精一杯だったせいか、過去に参加した社交場で飛び交っていたローガンに関する噂話は奇跡的にも耳を素通りして、頭にも残らなかった。当時は知らない人で、興味も関心もなかったからだ。

 しかし今は違う。

 エリスにとってローガンはもう知らない人ではない。


 最悪な初対面を果たした夜と初めての食事会を経てからも何度か参加したそれぞれの社交場で、貴婦人達がひそひそと、しかし饒舌にローガンとアイーラ、第二王子の歪な三角関係の噂話をし始めた時、衝動的に反論しないようにジッと耐えていた。


 裏切りを目の当たりにして、怒りに震えながら傷つき、茫然自失になっていた姿。

 家族と話すときの朗らかな姿。


 まったく違う二つのローガンの姿を、エリスは知っている。

 ガンガンと打つような頭痛までも襲ってくる。彼の噂話は聞きたくない。こっそりとその場を抜け出して、ふらふらと会場を動き回ってみても、今一番のホットな話題らしい。


 知りたくもなかったローガンとアイーラの過去が否応なくエリスの耳に入ってきてしまう状況からは逃れられなかった。


「あの二人の結婚は二年前よね?」

「父親同士の縁で結婚したはずよ。家柄は同格で軍関係の繋がりがきっかけのご縁だったとか。よくある話ね」

「マクベイト伯爵は結婚後にすぐ違う艦に転属して、出港ばかりでずっと不在で寂しいって伯爵夫人はよくお話されていたわ……」

「あら、恋しそうに寂しがっていたのも結婚して半年だけでしょう? そのあとパッタリと社交場に出てこないと思っていたら、どういうきっかけか、殿下に見初められて、ただならぬ関係になっていたんですもの!」

「不倫関係はもう一年以上にもなるのね? 伯爵がお気の毒だわ」

「なぜ? 伯爵が気の毒と思わないわ。仕事を言い訳に妻を顧みなかった結果でしょう? 自業自得よ。夫人の行動は決して許されるものではないけど、恥も外聞も捨てて本物の愛を掴み取った結果のお相手が殿下なのよ? 玉の輿じゃない。伯爵はむしろ、寂しがる鬱陶しい夫人が自分から離れていってくれて良かったとでも思っているのではないかしら? ほら、ご覧になって。憔悴した様子も見せずに、楽しそうに歓談していらっしゃるわ。お仕事一筋でご立派ですこと」

「まぁ……」


 優美な扇で口元を隠しながらくすくすと笑いあう声が、離れた場所にいるはずなのにも関わらず、聞こえてきてしまう。


 わたくしは耳が良すぎじゃないかしら。


 エリスは扇を握りしめたまま、カーテンに半身を隠すように壁を背にしてうつむいてその場に立ち尽くしていた。しかし、やがて顔を上げて、視線だけをうろうろと彷徨わせてしまう。


「……分からないわ」


 紳士達の輪の中で談笑する姿を見つけた時、小さく呟いていた。


 噂の中心人物であるローガンは、エリスが参加した社交場に、妻アイーラを伴って現れたことは一度もない。

 今宵も一人で参加しているらしい。

 一人で参加して、何も思い悩む素振りも隙も見せずに、朗らかな様子で社交に励んでいる。無理をして気丈に振る舞っている様子も見られない。軍の関係者が大半ではあるが、多くの紳士淑女達と社交に勤しむローガンの姿を、エリスは複雑に思いながら、会いたくないと思っているはずなのに、意識して見つめてしまう。


「!」


 不意に、視線をこちらに向けたローガンと目が合ってしまい、エリスは動揺して扇を開いて顔を隠しながら横に逸らした。

 ばくばくと心臓が激しく動いている。

 まずい、このままでは――


「お一人ですか? このような場所に隠れて立っておられるのは非常に勿体ないですよ」

「余計なお世話です。わたくしのことは放っておいて下さって結構でしたのに」


 思ったとおり。

 

 逃げる隙も与えられずに現れたかと思えば、心配そうにこちらを覗き込んでくるローガンを視線だけで見上げながら、エリスはこっそりとため息を吐いた。彼の親切な一面は素敵だと思うが、少しばかりお節介にも感じてしまう。同時に、やっぱり想像がつかないわ、とも思うのだ。


 愛妻を蔑ろにするローガンの姿がまったく想像出来ない。


 そっけないエリスの返事にローガンは軽く肩をすくめた。


「てっきり何かお困りごとかと。楽しんでいるエリスさんに水を差す野暮な真似はしません」

「楽しんでいましたわ」

「おや、そうは見えませんでしたが」

「ローガンさまの勘違いです」

「……失敬。ならば」


 ふわりと、ぶら下げていただけの手袋をはめた左手を軽く掬い取られ、驚いて目を丸くするエリスに対して、ローガンはにっこりと笑う。


「なっ、ま、まさかわたくしとダンスを踊るおつもり?」

「今以上に何倍も楽しくなりますよ?」

「一週間前の舞踏会でわたくしと踊った記憶はもう無くなってしまわれたの!?」

「素晴らしい一時だったと記憶していますが」

「まさか! ちっとも素晴らしくなんてなかったはずよ!」


 わたくしのダンスが下手なのは身をもってご存知のくせに!


 ダンスを拒絶したいあまりに様々な言葉がエリスの脳内を駆け巡ったが、即座に「いいえ」とローガンは笑顔のままはっきりと否定した。


「さぁ、踊りましょう」


 素直さも可愛げも欠片もない文句ばかりが放たれる口とは裏腹に、動揺が隠しきれないエリスの足は素直にローガンのエスコートに従ってしまう。

 人々から少しばかり離れた暗い寂しい空間を離れて、人々の熱気に満ちた光が舞う美しい空間に連れ出され、ローガンにされるがままに音楽にのせて身体が動いていた。


 怖い! 足を踏んでしまう。

 講師はサジを投げ、悪評が流れ出すほどに絶望的にダンスが下手なのに。

 紳士達に凶器と囁かれている足なのに!


「楽しいでしょう?」

「どこが……!」


 優しい口調で耳元に囁かれ、弾かれたようにエリスが勢い任せに顔を上げたら、近い場所にローガンの笑顔がある。身長差はかなりあるはずなのに。


「今回こそは足を踏まれない絶対の自信があります」

「なんですって?」

「賭けをしましょうか。とりあえず序盤は私が優勢ですね」

「あの!? 一体、何をおっしゃっているの!?」

「私が一度でも足を踏まれてしまった場合は、何でも一つだけエリスさんの願いを叶えましょう。最後まで一度も足を踏まれなかった場合は……」


 怪訝な顔を崩さないエリスに対し、ローガンはにっこりと笑う。


「私の願いをひとつ叶えてください」


 返事を忘れて、エリスは目を瞠った。


 ローガンにリードされながら、ぎこちない不安定な足裁きながらもダンスを続ける。踊れば何倍も楽しいだなんてやっぱり嘘だわ! と内心で悪態をついたものの、ローガンの明るい表情を見ると、毒気が抜かれてしまう。イライラしながらも、同時に安堵感を覚えずにはいられなかった。


「!」

「ごめんなさい……!」


 あともう少しで終了のタイミングで、ついに盛大に足を踏んでしまった。

 踵のヒールが、まるで穴を開けるように容赦なくローガンの靴を踏んだ感触にエリスはゾッと背筋を凍らせてしまう。痛みを堪えているせいか、ローガンは苦悶混じりに笑顔を浮かべて軽く顔を横にふった。


「絶対の自信があると大口を叩いておきながら、お恥ずかしい」


 曲が止んでダンスが終わり、会場の中心から離れた瞬間、エリスはローガンと向き合った。


「わたくしに叶えてもらいたいローガンさまの願いをおっしゃって」

「私の願いですか? 賭けに負けた私がエリスさんの願いを叶えるのですよ? ぜひ教えてください」

「わたくしの願いはローガン様の願いを聞かせていただくことですもの。何も間違っていませんから早くおっしゃって」


 呆気にとられていた様子のローガンがやがて微笑む。

 ほんの少し困ったように。


 小さく胸が高鳴った気がして、咄嗟にエリスは焦りながら強く否定した。

 醜聞と暗く悲しい噂にまみれ、嘲笑の的にもなっている彼は既婚者で、今も裏切った妻を愛している人だ。彼に対してこれ以上感情を揺らしてはいけない。


「エリスさんはご家族やご友人だけではなく、見知らぬ他人であっても、傷ついた者には躊躇なく強く心を寄せてしまわれる。だからでしょうか。少々、心配にもなってしまうのですよ。ご家族がエリスさんを心配するお気持ちが、私にも少しばかり分かるような気がするのです」

「――無駄話は結構よ」


 ローガンとの出会いのきっかけが、苦手なダンスと社交場から逃げ出してしまったからが全ての発端だったエリスにとって、ローガンの言葉を素直に受け取れるはずもない。

 エリスは睨むような目つきのまま、冷や汗を流してそのまま黙り込んだ。


「ではお言葉に甘えて、私の願い叶えていただいても?」

「叶えるなんて言ってませんわ」


 ローガンの表情から、笑顔が消えた。


「エリスさん。ご自身を素直に愛し、大切にしてください。紳士とも呼ぶに値しない礼節の欠けた男達の言葉に傷付き、自分自身を貶め、下を向く必要はありません」


 ……ああ、やめて!


 いくら親交のある上官の娘が相手だからといって、そんな言葉をかけて欲しくなかった。第二王子という圧倒的な地位に立つ人に愛妻を奪われ、深く傷ついている人に。親切な優しさに戸惑いながら微かな喜びを感じ、追いかけてくるように大きな罪悪感が湧いてきてしまって、エリスは胸が痛かった。


 ローガンは誰にも弱みや傷を微塵も見せず、何も語らず、一人ですべてを抱え込んでいるのに。


 唇が白くなるほどに噛み締める。

 少々弱っている涙腺が強い刺激を与えられてすぐにでも壊れてしまいそうだったが、エリスは何とか耐えてみせた。


「わたくしの願いは()()()()ですからね?」


 腕を組み、ふんっと鼻をならしながら生意気な態度で言うと、ローガンは真剣な表情を解いて「そうでしたね」と言いながら悪戯めいた笑顔を覗かせた。


 結局、一曲だけダンスを踊って少し言葉を交わしたあと、ローガンはすぐに挨拶の言葉とともにエリスの元を離れていった。当然だ。わざわざお節介な言葉をかけて気遣ってくれたのは、第一に父との関係性、第二にエリスとは複雑な思い出を共有してしまっている事実と、彼の純粋な親切心がそうさせたのだから。事実、上官らしき軍人紳士の娘令嬢とローガンの二人がダンスを踊る姿は、相手は毎回違うものの複数回は目撃している。

 エリスと過ごす一時がローガンにとって特別というワケではない。エリスは弁えている。


 社交界の話題の中心でありながらも、人々との交流関係が広いローガンは常に多忙の身だ。ほんの短い時間でも二人で過ごす時間があった事が奇跡的なのだと、去り行く背中を見つめる。

 姿が人混みに完全に消えるまで、エリスはやはり目が離せなかった。




 事態は刻々と変化していた。


 王宮での最悪な夜からわずか半年後にローガンとアイーラの離婚が成立。

 さらに一年が過ぎると、第二王子とアイーラの正式な婚約が発表され、その翌年に盛大に結婚式が行われた。


 アイーラの評判は決して良いものではない。

 悪評の数々もエリスの比ではない。批判は常に多かった。


 しかし、第二王子との関係が始まって結婚に至るまでの三年以上の月日が経過しても尚、仲睦まじい様子を隠さずに見せる様子に、人々もやがて大きな声で非難の言葉を発することは徐々に少なくなっていた。アイーラが、人々に元夫であるローガンに関することを尋ねられたとしても、何も話さなかった事実も大きい。


 唯一、彼女が近しい人物に話した言葉があった。


『彼からはとても愛されていたわ。それでも満たされなくて、寂しかったの』


 その言葉が真実なのか、脚色されている話なのかは、誰にも分からない。

 


 ローガンも同じだ。

 アイーラとの過去から現在にかけての関係性や第二王子との結婚について、ローガンは誰に何を尋ねられたとしても「お話することは何もありません」と一貫した姿勢を決して崩さなかったためか、やがて人々の興味関心も薄れていった。


 ――家が決めた結婚だ。もともとマクベイト少佐は彼女を愛してはいなかったんだろうな。昔も独身の今も何も変わらん様子だ


 ――ローガンさまは立派な紳士だけど、人の良さそうな見かけによらず、薄情な方なのかもしれないわね



 急ぎ足で過ぎた、八年という長い年月。

 エリスの『ダンス下手で生意気な偏屈令嬢』の悪評は若い紳士達の間ですっかり定着したと同時に、ローガンは『紳士の仮面を被った薄情者』の疑惑が、とくに未婚令嬢の母親達の間で根強く囁かれ続けている。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ