前 悲劇の修羅場
「婚約おめでとう、エリス」
祝福の言葉をかけられるたびにエリスの頬は引きつった。
カセラ男爵家主催のガーデンパーティー。
貴婦人達との歓談が一段落したあと、エリスはひとまず賑やかな庭から逃げるように離れ、建物の庇の下に入って日傘を閉じた。深くため息を吐いて顔を上げたと同時に、ぎくりと肩を強張らせてしまう。
早足でこちらに向かってくる靭やかな身のこなしの紳士。
悪評高いエリスの婚約者となってしまったローガンだ。
エリスは苦々しい思いのままに日傘の持ち手を強く握り込んだが、すぐに力を抜いて壁に立てかけておくと、凛と背筋を伸ばして軽く顎をあげた。
「用事を思い出しましたの。ひとりで済むことですし、すぐに戻って来ますから、ローガンさまはこちらで待っていてくださる?」
ローガンが口を開くよりも先に『ひとりで』を分かりやすく強調して言い放つが、彼は歩みを止めなかった。
「婚約者を一人きりには出来ませんから」
軽い足取りでエリスの隣にやって来る。
すっきりと整えられた銀灰色の髪は乱れひとつなく、髪よりも濃い灰色の印象的な大きな瞳を細めて、朗らかな笑顔で隣に立つローガンを見上げながら、エリスの歪んだ表情にある眉間にはさらに深い皺が刻まれた。
***――
八年前。
海軍の軍人であり、艦長を務めていた父の部下の一人として、ローガンが我が家の食事会に初めてやって来た。
エリスが十六歳、ローガンが二十六歳の時だ。
父は三人の部下を連れてきたが、ローガンは一際目立っていた。上背があり細身ながらも鍛えられていると分かる身体もさることながら、よく笑う表情から放たれる爽やかで男らしい色気に母や祖母、メイド達がぼんやりと見惚れた。会話も愉快で、エリスの兄とも会話は弾んでいた。
この時、ローガンはまだ既婚者だった。
皆がローガンに興味と好意を向けている。
しかしエリスだけは違った。
和やかに笑い声も響く食事会の中で、嫌な汗が止まらない。顔を上げてもまともにローガンを見ることが出来ない。なるべくローガンを見ないように、家族や他の二人の客人に意識を集中させた。
運悪く目が合ってローガンに微笑まれてしまっても、動揺してそっけなく視線をそらしてしまう。
失礼でしょう、と注意してくる母の言葉はまったく頭に響かなかった。
――信じられない! どうして彼は平然としていられるの?
ぎこちない手つきでフォークとナイフを動かしながら思い出すのは、この食事会からわずか五日前に参加したばかりの華々しい王宮舞踏会の夜。
最低最悪な夜の出来事だ。
エリスはダンスが苦手だ。
残念ながらお嬢様にはセンスがないようで、と講師もお手上げになるほどに絶望的にダンスが下手だった。
社交界デビューを果たしてまだ二度目となる今回の王宮舞踏会も、二人の紳士と踊り、盛大に何度も足を踏んでしまった。不甲斐なさと羞恥心。貴族令嬢として会場に立っていること自体が、恥ずかしい気持ちになってしまった。
エリスは灯りの心許ない庭園へ向かった。
羞恥に耐えられず、社交場から逃げ出したのだ。
しばらくは誰にも見つからない場所を目指し、奥へ奥へとうつむきながら突き進むように歩いていた時に、女性のすすり泣く声が聞こえて慌てて足を止めた。しかし、驚いて顔を上げた時に見えたのは女性の姿ではない。ひとりの軍服を着た若い男だ。
彼が海軍の軍人であるのは一目見てすぐに分かった。
父と同じ濃紺色の軍服を着ている。
軍人の横顔は、暗い場所でもありありと分かる程に茫然としていた。
「君は今もアイーラを愛しているんだってね? 愛しているのならば、なおさらだ。彼女を解放してくれたまえ」
ねっとりとしている。
首を絞めるように絡みまとわりつくような男の甘い声音に、ぞくっと身体中に悪寒が走る。エリスは無意識に両腕で自分の身体を抱きしめた。声には聞き覚えがある。つい最近、初めての社交界の場で聞いたばかりだったからこそ覚えていた。
第二王子だ。
エリスからは王子の姿は見えなかった。
王子と泣く女性――アイーラの姿は、庭園を彩る花の生け垣に隠れてしまっている。塞ぐことの出来ない両耳は聞きたくもない言葉を拾うのに、視界を占領するのは青い顔をした軍人の横顔と、彼の手の甲に血管が浮かぶほどに力強く握られて震えている大きな拳。
軍人から伝わってくるのは激しい怒気と悲哀。
エリスは気圧された。
震えそうになる足を、物音をたてないように静かに後ずさったつもりが、靴を履いた踵はドレスの裾を踏んでいた。小さな悲鳴が漏れた時には地面の上に盛大に尻を打ち付けていた。
「痛っ!」
ハッと、驚きに開かれた軍人の瞳がこちらを向く。
その反応で、やっぱり彼はすぐ近くにわたくしがいる事に気付いていなかったんだわ、とエリスは思った。腰が抜けて立ち上がることが出来ない。その場で尻をついたまま、顔面蒼白になりながら軍人を見上げて硬直してしまう。
「おや、ローガン。君にも秘密の逢瀬を重ねる最愛が?」
愉快げに姿を見せたのはやはり第二王子。
第二王子の片腕は女性の腰にまわされている。アイーラと呼ばれた女性は儚げで可憐な面差しの可愛らしい人で、エリスの視線は涙に濡れたアイーラの瞳に釘付けで離すことが出来なかった。気の強い派手美人という言葉がぴったりのエリスとは、顔の造形や身体付き、纏う雰囲気も、何もかもが違う女性だ。
わずかな時間だけ見つめ合っていたが、やがてアイーラは無言のまま顔をそむけ、第二王子の胸に頭を寄せている。
軍人には一瞥もしない。
アイーラの心はまっすぐに第二王子に向けられているのは明白だった。
「違う! 彼女と俺は面識もない。無関係だ!」
「無関係でもどちらでも構わないが、ローガン、早急にアイーラと離縁するんだ。期限を設けよう。お前の艦の修理明けまでに手続きを済ませるんだ。抵抗するというのならば構わないが、その際は、今お前の手中にあるもの全てを失う覚悟でいるように」
「殿下!」
軍人の言葉を、命令の形で軽々と踏みにじりながら、第二王子とアイーラはエリスの元へと歩み寄ってくる。
座り込んだままの情けない姿のエリスの耳元に、第二王子は一度アイーラから優しく腕を離すと、優美な顔に蕩けるような甘い微笑を浮かべて片膝を折り曲げて口元を寄せた。
「君はローガンを追いかけてくるほどに慕っているのか。喜ばしい、一年も経たずして彼は晴れて独身だ。親身に寄り添って、彼を慰めてやってくれ。彼は貴重な軍人だ。自暴自棄になった挙げ句、早々に現役離脱なんてされてしまっては、国にとって大きな損失になってしまうからね」
「なっ……!」
囁かれた言葉にカッと頭に血がのぼった。
恐怖と混乱に支配されていたエリスの思考が怒りに変わる。第二王子を睨みつけた時にはすでに彼は立ち上がり、エリスではなくアイーラを見つめて甲斐甲斐しくエスコートしていた。二人は一度も振り返らず、煌々とした灯りにみたされた社交場へと向かっていく。
薄暗い庭園の奥で、ローガンと呼ばれていた軍人と、エリスの二人だけが残されていた。
静かな沈黙の時間が続いた。
どこに発散すべきか分からずに収まらない怒りに、歯を食いしばって舞踏場の灯りを睨み続けていたら、突然、正面に回り込んできたローガンが跪いてくる。
「足を挫いてしまったのでは?」
「い、いいえ。平気です」
「手を」
色を失った無表情のまま、抑揚のない口調で言いながらローガンはエリスに手を差し伸べる。
茫然自失。
そんな状態に近い様子の彼は、それでもぎりぎりの理性と気力で、王宮舞踏会の最中である今はあくまでも紳士として立ち居振る舞わなければならないと理解した上でエリスを気遣い、エスコートをしている。
ローガンの心は今ここにはない。
灰色の瞳にエリスを映しながらもまったく違う場所を見ている。あるいは暗い世界。
何も見えていないのかもしれない。
差し伸べられた硬い手に自分の手を重ねて、支えてもらいながら立ち上がる。怒りや混乱、悔しさやら悲しさやらでいっぱいいっぱいだったエリスは、たまらずに口を開いていた。
「殿下は悪党だわ! あんな人だったなんて!」
「どうかお静かに」
硬い表情を浮かべたローガンに小声ながらも鋭く言われ、エリスはグッと喉を鳴らして口をつぐんだ。
「……申し訳ない。お一人で戻れますか?」
エリスは「ええ」と蚊の鳴くような小さな声で返事をすることしか出来ない。
申し訳ない、の言葉は、紳士の務めを果たさずに淑女を一人きりにすることへの謝罪なのだろう。人混みに行く気力が彼にはまったく残っておらず、今は一人になりたいという無言の主張が伝わってくるような気がした。
無言のままするりと手を離して、エリスはローガンに背中を向けて小走りに舞踏場へと急いだ。
けれど。
急速に身体中に巡る熱い感情がエリスの足を止めた。
振り返る。薄暗い闇に浮かぶ、虚ろになりかけている二つの瞳を見つめながらエリスは声を震わせた。
「あなたは悪くないわ!」
虚ろだったローガンの瞳にほの昏い光が灯る。
強張っていた口元は冷笑を作り、開かれた。
「誰からの慰めも求めていません。悪人かもしれない男の元からは一刻も早く立ち去ったほうが賢明ですよ」
エリスの頬は瞬時に朱色に染まる。
じわじわと浮かぶ涙のせいで視界が大きな横揺れを始めたと同時に、エリスはもう一度ローガンに背中を向けて、逃げるように走っていた。
ダンスが嫌で社交場から逃げた情けない自分は、恐らく何もかもを間違えた。明らかに深く傷ついていた人を、さらに傷つけてしまった。彼からすれば、何も事情を知らない赤の他人の女の慰めのような言葉は、軽薄で、耳障りな雑音でしかなかったのは容易に想像出来てしまう。
エリスは人目を避けるように舞踏場の隅のカーテンに隠れるように身を覆い隠し、心を落ち着けながら、唇と足の震えが止まるまでその場から動かなかった。
動くことが出来なかった。
最悪な一夜から五日も経過して、さすがに冷静さは取り戻している。
第二王子はもちろん、ローガンという軍人とも個人的に関わることは絶対にない。たとえ父と同じ海軍の人だとしても。海軍の軍人は大勢いる。万が一、今後、社交界で顔を合わせる機会があったとしても、誰にも見られたくはなかったであろう現場を目撃したエリスと親しくなろうなどとはきっと思うはずがない。
しかし、いずれ口止めを求められるのかもしれない。
求められずとも、エリスはあの夜の出来事は家族にはもちろん誰にも話していなければ、話すつもりは一切なかった。
ローガンという名の軍人貴族を調べることもしなかった。
彼の人となりを知れば知る程に、深く悲しい闇にずるずると引き込まれて、苦しい思いをする羽目になってしまいそうな気がした。
すべてを忘れてしまいたかったのに……
「エリスさん、今宵は素晴らしい食事会の場にお招きいただき、ありがとうございました」
「……お礼でしたら父と母にお伝えになって。喜びますわ」
「すでに伝えております。エリスさんにもお礼をお伝えしたかったのです」
「本当の用件は、あの夜のことではなくて? ご安心を。他言はしておりませんし、する趣味もありませんから。詮索も深入りもしたくありませんもの。無理にわたくしとお話されなくてもよろしいのですよ?」
食後の歓談の場は、各々がグラスを片手に暖炉脇やピアノの側に立ったり、あるいはソファに座りながら会話を楽しんでいる。
母が座っている近くの一人がけのソファに浅く座って、ちびちびと果実水を飲みながら聞き役に徹していたが、ついにこちらに歩み寄って話しかけてきたローガンに、エリスは身体中に緊張を走らせながら扇を広げて口元を隠しながら早口に囁いた。
なぜわたくしは、こんな言い方しか出来ないのかしら?
自分の発した言葉にげんなりしながらも、もう後の祭りだった。
ローガンの瞳が一度大きく開かれたが、すぐに細められていく。
あの夜とは大違いの、純粋な親しみのこめられたような優しい灰色の瞳に、エリスは「別人?」と内心動揺が走ってしまう。
「……エリスさんには酷い言葉をかけ、怖い思いもさせてしまいました。申し訳ありません。お優しい心遣いに、深く感謝申し上げます」
謝罪と、なんのてらいもない感謝の言葉に、エリスはついに視線と同時に、ぱちりと扇も閉じて持ち直しながら膝の上で両手を握り合わせてしまう。
気まずさは増し、ぎゅっと寄せたままの眉間の皺は深くなるばかりだった。