序 偏屈なエリス
――エリス嬢は確かに美人だが、美人であることだけが彼女の唯一の美点だ。性格に難がある。負けん気ばかりが強い偏屈で、愛想笑いすら出来ない彼女との会話は不愉快で退屈だ。彼女とダンスを踊ったことはあるか? 最悪だぞ。足が使い物にならなくなる!
カセラ男爵令嬢エリスという女性はどんな人物か?
そんな話題になると、大抵そのような評判に着地している事実は、エリス自身も昔から知っていた。
しかも、この話題が上がるのは淑女達の噂話ではない。
未婚の若い紳士達の噂話で持ち上がる定番の評判になっているという現実が、エリスにとっては屈辱的であると同時に自己嫌悪に深く陥り続ける原因となっている。
エリスの社交界デビューは八年前。
現在すでに二十四歳。
自国の貴族社会に生きる貴族令嬢では、立派な『行き遅れ』の仲間入りを果たしてしまっている。
これまでに色のある浮いた話題を一つも作ることが出来ないまま、厄介な性格も改善に至らず、誤魔化しは当然利かず、かろうじて婚約を結ぶ直前まで至りかけた奇跡的な縁すらもふいにしてしまう始末だった。
貴族子女は愛想良く、しなやかに凜として淑やかに。
頭では理解していても、納得のいかない言動や侮られているとしか思えないような態度をされてしまうと、すぐに応戦するような態度を出してしまう短気さは、貴族令嬢としては致命的な欠点だった。
容姿は満点、人柄は最悪、では家柄はどうかと問われると、紳士達にとっては魅力ある家柄とは言いきれない。
エリスは軍人一族のカセラ男爵家の娘だ。
父は現役の海軍の軍人で、兄は陸軍の軍人でもある。
領地を持たず莫大な資産がある訳でもない。軍人として仕える忠誠の厚さの信頼の元にある男爵位であり、そこを魅力と捉える貴族は少ない訳ではないが、決して多数でもなかった。
行動力のある闊達な父、美人で社交力のある母、冷静沈着で優しい兄。
エリスにとっては自慢の家族であるが、では自分は家族にとっての誇りになれているのだろうか?
考えると、頭痛がしてしまう。
母譲りの白い肌、光沢のある滑らかな長い金髪、きりっとした目力のある深い藍色の瞳をもつ美しい顔だけが美点で、他の部分に関しては、決して褒められない生意気な大人の女性になってしまっているという現状がショックだった。
同性の親しい友人は年齢問わずに何人かいて、交流に問題も抱えていない。相談されたり、励ましたり、頼られることの多い役回りの立場にいる機会が多い。
しかし、紳士相手となると『生意気な偏屈女』の悪評がつきまとう。その悪評を、払拭することも出来ない。
優れた容姿とやらのおかげで頻繁に声をかけられる。
しかし、親しくなるに至らない。悪評の詳細はエリスも事実と認めるしかなく、否定も出来なかった。
このまま未婚でいては家に多大な迷惑がかかってしまう。
すでに大きな迷惑をかけている。
兄はすでに婚約しているのに、彼は妹思いで、兄の婚約者もエリスに対して惜しみない親愛を注いでくれる人だった。
エリスの縁談が進まないせいで、二人は結婚を先延ばしにしているのだ。
エリスは毎日、部屋でひとりになると項垂れた。
十六歳で成人してからすぐに、貴族子女の務めである慈善活動や社交に励みつつ、フィリンター侯爵夫人の元で行儀見習いもしている。
夫人との関係も、侯爵家との関係も良好なおかげでお手当も貰えているが、お手当とわずかな人伝手を駆使して職を得て自活するという選択が、エリスに残されている生きていくための最終手段だった。
しかし、この最終手段すらも家族に迷惑がかかるのは避けられない。
今以上の悪評が生まれ、家族を深く傷つけてしまう選択になる。
一度も婚姻を結べずに家を出る選択をした貴族令嬢と、その家族に対する風当たりの強さと冷たさを知っているエリスは他人事に思えなかった。
でも、もう時間切れ。
今日こそ父に伝えよう。
家を出て真面目に働きます、ご迷惑をおかけしますが、行き遅れの生意気な偏屈女という悪評以上のご迷惑は、もう決しておかけしません――と。
決意した日の朝。
普段とは違いすぎる鬼気迫った様子のエリスに家族は困惑していたが、朝食を終えたあと、ごほんとわざとらしい咳払いとともに父に書斎に呼び出された。
「結婚についてだが、マクベイト少佐はどうだ? 彼の仕事も人柄もエリスはよく理解しているだろう? 過去の結婚歴さえ気にしないのならば、カセラ家にとっても安心してエリスを任せられる最良の男ではあるんだ」
二人きりでの話と言われた時から、新たな縁談が申し込まれたか、あるいは父が誰かに縁談を申し込む目星をつけたのだろうと覚悟していた。
久々の縁談だが、エリスは浮かれることはない。
浮かれるどころか、偏屈な性格の本領が発揮されすぎてしまい、ひねくれた心持ちのまま話を聞いていた。
伯爵位を持つ、海軍の軍人ローガン・マクベイト少佐。
名を聞いた瞬間にエリスは「あぁ……」と苦笑した。
苦笑は失笑に近かった。
父の今の言葉は、こちらから結婚を申し込めばローガンは決して断らない、と確信しているかのような口ぶりだったから、余計に苦笑せざるを得なかった。貴族や平民という身分以上に、階級がすべての厳しい上下関係の海軍の世界がそう思わせてしまうのかしらとエリスは考えてしまう。
爵位では父がローガンよりも下だが、階級はローガンよりも父が上だ。
お父様は何も知らない。
わたくしと彼しか知らない秘密の過去を。
それに、彼の心は今もまだ……
自然とこぼれそうになるため息を寸前で堪える。
エリスは小さく、力なく微笑んだ。
「ローガンさまが承諾してくださるのでしたら」
「エリスが望んだと知れば彼は承諾するさ。後悔はしないか?」
「しません。気さくな方ですが紳士的で、ユーモアもあって、誰に対しても分け隔てなく公平なローガンさまですよ?」
「……彼を、愛していたのか?」
「そのような大層なものではありません! 人としての、敬愛です」
後悔なんてしない。
彼がこの縁談を承諾するはずがないもの。
エリスは投げやりになっていた。
皮肉にも、投げやりになってしまったからこそ、ローガンに対して長年に渡って抱いていた感情を、初めて父に対して正直に打ち明けることが出来た。すぐに彼に申し込みをしなければ、と珍しくて気が高ぶっている様子の父を、微笑みの下で気持ちを深く沈ませながら眺めていた。
でも、ローガンに縁談の申し込みをきっぱりと断られた後のほうが、エリスが伝えたかった今後の人生についての意志を、父は少しは理解してくれるかもしれない。
エリスは悲観的な意味合いで前向きに考えていた。
ローガンは、紳士間で悪評高い噂を流されているエリスに対して、好意的に接してくれる希少な独身紳士の一人だ。
彼にとっては上官にあたる父の娘だから親切にしてくれるというのも、残念ながら間違いなく理由の一つだろう。しかし、彼の人柄の根の部分が、おおらかで明るさを持つ愛情と優しさに満ちている人であることも、八年前の思いがけない初対面から現在に至るまでの長い親交の中で、エリスは心苦しくなる程によく知っている。
人として敬愛しているのは、紛れもないエリスの本音だ。
縁談は断られると分かりきっているからこそ、ローガンに気遣わせてしまう事を申し訳なく思ってしまう。
父の行動は早かった。
幸か不幸か、ローガンが所属している軍艦も港に帰って来たばかりの時で、連絡もすぐに取り合うことが出来たらしい。
再度、二人きりになるために書斎に呼ばれ、一体どんな丁寧な言葉で断られてしまうのだろうと覚悟を決めたエリスを出迎えたのは、父の弾けるような明るい笑顔だった。
「諦めずに彼を二年間も口説き続けた甲斐があったというものだな。エリスの意思を伝えたら、彼もついに了承したぞ」
「……二年間も口説き続けた!?」
真相を知り、エリスは血の気を失いかけた。
父はローガンに対し、エリスとの結婚を二年間におよぶ長い期間、説得し続けていた。
最近、ついに父の説得にローガンが根負けした結果『正式な婚約は、エリスさんご本人に私との結婚の意思が明確にあることが絶対の条件です。歳もですが、過去の私の婚歴はあまりにも醜聞にまみれすぎています』と心配そうに伝えられたという。ローガンの言質を取った上で、父はエリスにローガンとの結婚についての相談をした。
条件だけではなく、二年間の説得という事情まで伏せられていた事実に、エリスは怒りを抑えられずに父をキツく睨み付けた。
「なぜ教えてくださらなかったのです!? そのような条件があると知っていれば、わたくしはローガンさまが承諾してくださるならばなどと口が裂けても言いませんでした!」
「だから言わなかったんだ。すべての事情を知ったら、本心はどうあれ断る以外の選択肢を考ないだろう?」
「それはっ! 当然でしょう!? この事実をローガンさまに知られてしまったら、どのような言い訳をなさるおつもりなのです!?」
「言い訳も何も。知られたとしても何も問題はないから安心しなさい」
あっけらかんと笑う父を前に、エリスの両手の拳には力が入りすぎて爪が深く肌に食い込んでいく。
八年間もの家族ぐるみの付き合いがあったせいか、エリスが可愛げも素直さもカケラもない性格なのだと家族以外で一番理解している異性こそローガン・マクベイトという人なのだ。
あまりの恥ずかしさにまともな言葉が出ない。
悶え叫びたい衝動を必死で堪えていた。
ローガンさまは一体どんな気持ちで、父の口から伝えられたわたくしの想いを聞いていたというの!?
荒んで壊れかけていたエリスの心は、不成立にしかなりようがないとすっかり思い込んでいた婚約が父の騙し討ちによって成立してしまったせいで、がらがらと崩壊しかけていた。