第15話<戦いの儀式Ⅲ>
2022/04/05 漢数字→アラビア数字に変更。一部修正。
クリスティーナとフランチェスカが、喫茶店でお茶を終えた頃――。
伊佐波・東郷・サクヤが主催する日本航空宇宙軍第3艦隊第2機動戦闘団の出陣式が行われる予定の要塞都市“リトル・キョート”。
その要塞都市の中心部には特別な区画がある。
人工重力制御装置により、常時1Gに保たれているセントラル・ブロック区画の地下250メートル。
そのジオフロント内には巨大な軍事基地がある。
日本軍海兵隊第3海兵団の居城、リトル・キョート基地。
伊佐波・〈東郷〉・サクヤ少将率いる日本軍第3艦隊第2機動戦闘団と共に出撃予定の増強第17海兵団に一部編入予定の部隊であり、火星における日本軍最大の陸戦部隊でもある。
そこでは今、急遽行われた新海兵隊員の訓練課程終了に伴う臨時修了式が行われていたが、賓客達が拍子抜けするほどあっさりと短時間で終わった地味なものだった。式次第は第3海兵団長の訓示と招待者のお言葉が数名続き、それが終わると国歌斉唱。最後にお互いに敬礼を交わして式典は終わる。
新海兵隊員訓練課程臨時修了式後には会食会――真っ昼間にも関わらず行われる、海兵隊主催による宴の席も用意されていたが、それは高級幕僚や士官たちと一部の招待客だけが参加するもので、ここにいる招待客らはあまり期待していなかった。
それよりも今夜開かれる日本航空宇宙軍主催の第3聯合艦隊出陣式の方が圧倒的に華々しく、まさに豪華絢爛。その事実を知っている招待客らは――有力な経済人や高級官僚らは航宙軍の出陣式にも招待されている――夜の御馳走のために、ここで深酒をするような者は一人もいない。
もっとも、これらは将軍や高級士官の場合だ。
臨時修了式の主役である、新隊員には関係ない。
それ以外の――つまり下士官や兵士、それに訓練課程を修了したばかりの新兵にとって、本当の新隊員訓練課程臨時修了式兼ねて記念パーティーは、場所を移して行われる二次会のことである。
堅苦しくなく、気楽な二次会であるが故か、ホテルや居酒屋の宴会場など使えない。いや正しくは、彼らは予約出来ない。飲食店の方が断るのだ。訓練課程修了直後の海兵隊員たちは、商売人にとって割にあわない厄介な客だからだ。
修了式直後で酔っ払った新兵たちは、ただの荒くれ者と化す。
そういった処置も仕方ない一面もある。ただでさえ元気一杯の若者たちを容赦なく鍛え、集団生活で個人の自由を奪い、規則で僅かな余暇まで奪う日々を年単位で強いるのだ。ストレスが溜まらない方が、人間としておかしい。しかし人間である以上、どのような状況でも徐々に慣れていく。
だが、本当の意味で順応するわけではない。
その揺り戻しの反動が修了日に爆発するのだ。
世間をろくに知らず、お金の価値も分からぬ年端もいかない新兵たち。
例え財布のひもが緩い上客であろうとも、今日だけは遠慮したいのが飲食店の本音であった。
そういった経緯で彼らは繁華街から弾き出され、消去法で彼らの宴会場は常日頃使っている体育館になる。無造作に長机を並べ、パイプ椅子を配置しただけの宴会場に豪華さや飾り付けなどさしてない。飾りがあるとすれば、場違いにしか思えない紅白の垂れ幕が四方を囲んでいるだけだ。その机の上には安物の発泡酒や焼酎もどきが無造作に配られ、簡単な料理やスナック類、飲食業者に発注したパーティー料理が山積みされた大皿が何十皿も置かれていた。会場には誰も聞いていないポップミュージックが無意味に流れ続け、赤い顔をした男たちが不健康であることを誇るかのように煙草を吹かし続ける。その結果、体育館は紫煙が霧のように漂う空間と化していた。
照明を落とした薄暗い宴会場の中で、ただ一箇所だけ煌々としたスポットライトが当たる場所があった。そこには幅と奥行が3メートル以上もある正方形状の大きな檻が設置され、多くの者が檻を取り囲み、酔った勢いで狂ったような歓声を上げていた。この光景だけを見れば、彼らの中に軍人らしい規律など見つけることはとても難しい作業だろう。
無理もない。
軍隊における二次会というものは参加者の階級が低ければ低いほど――古今東西、無礼講になると相場が決まっている。
しかし軍隊というヒエラルキー社会の中で、無礼講すら許されぬ最下層に位置する新兵にとって、酒の席以上に嫌なものはこの世に存在しない。
当然その中でも運の良い奴や要領良く切り抜ける者と、それが出来ない者がいる。
宴会に参加している200名以上いる新兵の内の一人、式守直也2等兵は不幸にも後者に属するタイプの少年だった。
そして、彼は檻から少し離れたところに設置された待機所のベンチに座り、選ばれし新兵がくぐり抜ける『儀式』とも呼ばれる戦いに身を投じる為の準備をしていた。
式守の身体を包むのは、訓練期間中は嫌になるほど身に付け続け、今やその体の一部と化した灰色を基調とした都市迷彩柄の戦闘服。上衣の袖はまくり、動き易さを優先させた。腰に巻いた弾帯には刃渡り20センチを超える分厚い戦闘ナイフ。その鞘を腰の後ろで水平に取り付け、何度もナイフを抜き差しして装着具合を確かめる。手慣れた手付きで肘当てと膝当てを装着し、固定バンドの締め具合を確かめた。きつすぎても、緩すぎてもいけない。軽い柔軟を行い、各関節を動かして入念にチェックする。大事な目を守る極薄のゴリラガラス製のアイ・プロテクターをしっかりと掛け、最後に防弾防刃性能を持つ戦闘用手袋をはめた。手の甲を守るナックルガードの位置を拳骨にぴったりと合わせ、何度も掌を開いては握り、遊びを消して指と手袋を完全に密着させる作業に集中する。
そういった確認作業に没頭するのは、ある意味、現実逃避の面もあった。
緊張した面持ちの少年――式守直也は、特に目立ったところがない平凡な少年だ。
中背中肉だが、やけに引き締まった細身の筋肉質な身体。街中であれば、少年の体格はそれなりのものに見えるはずなのだが、この場にいる筋骨隆々の海兵隊員たちと比べれば見劣りする感があるのは否めない。そんな程度の体格の持ち主。黒髪は短めに切り揃えられているが、それは少年が軍人で、しかも新兵であるからだ。他に選択の余地は無い。彼が髪型で僅かばかりの個性を主張できるような立場になるまで、まだまだ時間が掛かるだろう。
顔立ちは比較的整っているが、少年を二枚目と評す者はまず居ない。目は少し細めで、覇気も無い。当然、軍人らしい威圧感も鋭さも無い。身に纏う雰囲気は地味そのもの。
加えて、目立つことを嫌い、小さな動作しかしない立ち振る舞いが染みついている。
そんな少年の視線が、右に動いた。目の前に差し迫っている戦いから意識を逸らしたのではない。無視できない嫌なやり取りが、始まってしまったからだ。
式守の視線の先には彼よりも大きい、それなりの体格をした新兵が一人直立不動の姿勢のまま、ある助教から罵倒を受け続けていた。
選ばれし者だけが行う『儀式』で醜態を晒した新兵が、怪我の手当を受ける前に罵倒され続けているのだ。頭部の傷は浅いと衛生兵に判断された結果だが、見た目には頭部から血を流し続ける少年兵への虐めにしか見えない。
浴びせられる罵声が、直也の集中力を掻き乱す。
「――てっめぇ! 早田ッ! 俺が今までなに教えてたのか分かっちゃいねぇじゃねぇか!! ああっ!!」
「はい!」
答えた瞬間に平手打ちが飛ぶ。小気味良く肉を打つ、乾いた音が一つ鳴った。
「何が、ハイだ! 無様な戦い見せやがって! ハイハイ答えれば終わると思ってんのか!?」
「いいえ! 涌井班長、違います!」
言い終わった直後に二連発のビンタが飛んだ。
目尻に涙を浮かべながら、負けた少年兵――早田2等兵は泣きそうに顔を顰めながらも、頑張って背筋を伸ばし続ける。曲げたら、即座に鉄拳が飛んでくる。そのことを学ぶための2年半と言っても過言ではない。新兵の誰もが、その身を以って理解している。
「違いますじゃねぇんだよ! お前、俺が教えた、戦いで必要な3つのものを言ってみろ!」
「勇気、努力、友情です!」
「勇気、努力、勝利だろッ! クソ野郎が!!」
教え子の叫びながらの返答を即座に否定し、抜く手も見せずに往復ビンタを食らわす。助教は感情に任せ、たたらを踏む新兵の尻をさらに蹴り飛ばした。
(最後のは嘘だろ。いつもは友情って言ってたくせに……)
殴られる同期を視界の片隅に置きながら、式守は心の中で異議を唱えた。勿論、口にはしない。そんな命知らずのことはしたくない。それを指摘すれば、正しいことをした気持ちにはなるとは思う。
だけども、軍隊の中では少し――少しだけ、間違いだ。と、彼は思う。
指摘したらどうなるかを具体的に考えよう。
まず、余計な口出しをするなと罵倒される。
次に、新兵のくせに勘違いしてんじゃねぇとビンタを食らう。さらに、自分を教えた助教に「てめぇの教え子だろ。しっかり指導しろよ」と告げ口のように言われて、追加のビンタを食らう。もしかしたら、自分の助教である猿渡班長だったら反省という名の腕立て伏せかもしれない。
そして最後に指摘した班長、つまり下士官の一人に目を付けられて部隊での生活をスタートすることになる。
つまり、自分が得することは何もない。殴られている同期が余程の大親友でもない限りは言う気にならないし、第一、大親友でも言わない。親友にする以上、その程度の分別が付いている人物を友人にしているはずだ。と、式守は自らの性格を再確認した。
結果として、何もしないことは正しい。
自分自身のために正しい。
それで十分。
僕が助けるのは同期だけでも手一杯だ。
酔った勢いで殴られている新兵と助教を、周りの者がさらに無責任に囃し立てる。
「そんなんで宇宙怪獣と戦えると思ってんのかよ!」
「猿から逃げる臆病者に人権なんてねえんだよ!」
「おいおい、涌井! お前、舐められてんじゃねぇの?」
「涌井の2年半、無駄じゃねぇか!」
「今も昔も身体に教えるのが一番確実だろ!」
「早田! 男を見せろ! 男気だ! 男気!」
「涌井! さっさと根性入れちまえよ! 馬鹿は殴って教えるに限るだろ! 犬と同じなんだよ、新兵は!」
どうやら彼らの認識では平手打ちは殴ったうちに入らないらしい。知っていたことだが、直也は余計に陰鬱な気分になった。
『儀式』で無様に負ければ、次に殴られるのは自分だろう。せめて善戦して、文字通りの満身創痍になるか、傍から見て精一杯戦ったと認められなければ、周囲からの鉄拳制裁から逃がれられない。
「早田ッ! 力を入れろッ!」
「はいっ!」
禍々しく口角を上げた涌井助教が右の拳を固く握りしめ、それを誇示するかのように肩をグルグルと回し始めたのは、パフォーマンス以外の何もでもない。それを見て覚悟を決めた早田2等兵は顎を引き、足を肩幅に開き、手を後ろで組んで、全身を硬直させた。
お待ちかねのショーが始めるとあって、野次はより激しくなっていく。何を言っているのかよく聞き取れないほどになった頃、涌井が拍子を取るように怒鳴った。
「早田、まだまだだッ! もっと腹に力を入れるんだよ!!」
「はい!」
「まだまだ、足りてねぇんだよ!」
「はいっ!」
早田が顔を真っ赤にして怒鳴るように答える。彼とてこの先の展開は分かっているのだ。
「気合い入れ終わったかッ!!」
「はいっ!!」
早田が答えた瞬間――。
彼の足は鈍い音と共に床から浮いた。腹部にめり込んだ涌井の右拳が、少年の身体をくの字に曲げて持ち上げ、激痛と衝撃が少年の呼吸を奪う。涌井が無造作に拳を引き抜くと彼の教え子は頭から崩れ落ちた。悶絶しながら地面に這いつくばる教え子を尻目に、勝利者のように涌井は高々と右拳を掲げた。
約束通りの見せ物に、割れんばかりの歓声が湧き上がる。
その中で、つまらなさそうにノンアルコールビールだけを飲んでいた衛生兵が、素早く腹を抱えてうずくまる新兵に駆け寄った。衛生兵は『儀式』での流血よりも、今のボディブローの方を危険と判断した。呼吸を整えさせ、様子を観察する。生命には問題はないと判断した衛生兵が新兵に立つようにと促すと、先ほどまでの野次は、口汚いが――それでも、確かに声援へと変わった。
「男だったら、自力で立てッ! 立つんだ!」
「女々しいんだよ! 立てるだろ! クソガキッ!」
「立て立て! もうちょっとだ! 気合見せろ! 気合だ!」
「キンタマ付いてんなら立てよ! 童貞ッ!」
涌井は手を貸さない。生まれたての子鹿のように足を震わす早田が立ち上がるのをただ見つめ続けた。
少年が怒号と野次に囲まれたまま、1分ほど時間が過ぎた。
ようやく歯を食いしばった早田2等兵が何とか立ち上がり、再び酔っ払い達の歓声が上がった。
誰もが立ち上がった新兵の気合いを褒め称えた。
弱い新兵が負けない意志を示し、自分達の仲間になったと叫ぶ。
早田2等兵を殴った張本人である涌井助教も、肩を貸し、労りながら早田を少し離れたところにある長椅子へと連れて行く。
まさに『儀式』。
今までの訓練だけでは一人前ではないと示す場――新兵にとっての戦場『儀式』という戦いは続く。
式守は意識と視線を戦場に戻した。
数メートル先で別の新兵が『儀式』を行っている。
その次は、式守直也の番だ。
僕の敵は言うまでもない。
猿だ。
それもニホンザルをベースに製造され、異星生命体との地上戦や要塞戦の際に使い捨てで投入される戦闘猿だ。
助教が猿渡という名字だから、猿と戦うというわけじゃない。
これは元々戦闘猿と戦うイベントなのだ。
狂ってる。
天羽の代役になることは、僕が選んだけれども、もう少し上手くやればよかった。
精神的には最悪だ。
無駄に緊張している。
手足が震える。喉が渇き、乾いた唇が張り付く。
僕は猿と戦うことにビビってる。
こんな立場に陥るのは運命なのか。
柄にもなく、代役を志願した。
これはなけなしの正義感を発露してしまった代償。
猿渡班長が、天羽を指名したことはただの虐めだ。
さすがにあれは見過ごせない。
だけど、僕たちはその状況を変えることが出来なかった。
だから、奴隷のように従うしかない。
行く当てもなく、そこに居座り続けしかない奴隷のような立場。
僕は本当に奴隷だろうか?
間違いなく、奴隷だ。正真正銘、現代の奴隷。そうに違いない。
だから僕は戦闘猿と戦う。
馬鹿馬鹿しい。
これは一体、何の真似だ。
古代ローマに実在したという奴隷の剣闘士?
僕はそんなに上等じゃない。似ているのは戦うことだけだ。
猿に勝っても自由は手に入らない。
仮想現実空間におけるRPGゲーム?
それも違う。そうであれば緊張しない。もっと楽しく、気楽に出来る。
あの猿は本物だ。野生の猿より質が悪い。
ニホンザルをベースに遺伝工学により作り出された狂暴な戦闘猿。
相手が、それほど大きくない個体なのが救いか。
一番大きい戦闘猿は同期が先に殺してくれた。
ありがとう。担架で運ばれた、名前も知らない君のことは忘れない。
怪我人が出た程度では、このイベントは終わってくれない。
観客は血を見て、余計に盛り上がるだけだ。
別の同期が30分ほど前に手首を酷く噛まれて、悲鳴を上げて泣きじゃくった。
彼はそのまま担架で軍病院へ直行したらしい。
どうして、止めないんだ。士官は威張るだけが仕事かよ。
猿と戦うのは僕たちだよ。僕、特に僕なんだよ。
ああ、そうか、そうだよな。だから止めないのか。自分とは関係ないからな。
僕はやっぱり頭が悪い。当たり前じゃ無いか、そんなこと。
今戦っているのは他中隊の名前も知らない同期。このまま行くと、彼は間違いなく負けるだろう。とてもじゃないが勝てそうにない。
数分後、僕は戦闘猿と戦闘用ナイフ一本で戦う。
檻の中に閉じ込められてワンラウンド五分、一本勝負のゴングが鳴る。
結果――勝者、戦闘猿。敗者、僕。
最低だ。人類が霊長類の長なんて言葉は嘘だ。
少なくとも、僕の目の前には存在しない。
目の前にあるのは現実しかない。戦闘猿は生身の人間より強い。嫌だけど認めよう。
僕は勝てそうにない。
それでも戦うのは僕一人。
この上なく最悪で、これ以下が無いほど最低だ。
ここは数千年前のローマか?
僕はタイムスリップでもしたのか?
堂々巡りだ。さっき考えたことをまた考えてる。
分かってる。言われなくても分かってる。
ここは火星だ。
嫌になるくらい、現実の火星。
改造されて、なんとか人が住めるようになった惑星。
ストレスで正気の向こう側へ行ける程度の精神力なら、もっと人生は楽しいだろう。
「――クソったれ!!」
悪態吐いても誰も気にしない。気にするわけがない。
目の前の戦いに、周囲の馬鹿騒ぎは天井知らずだ。
こんちくしょう。
偉大な先人達が、叡智を結集して作り上げた、人類第二の故郷。
ごく一部だけとはいえ緑地化が成功した星。
それなのに、僕がいるのは煙草の煙と零れたアルコールと汗の匂いがむせる体育館。
折りたたみ式の長机とパイプ椅子が並び、スナック菓子やピーナッツが床に転がり、机の上にはアルコールが山と積まれた、上品とはいえない打ち上げの宴。
やっていることは古代ローマと変わらない。
戦いと血と酒に塗れた空間。
ファッキン・ジーザス。
神様なんて死んじまえ。
人間なんて進化しない。
僕らは遺伝子を弄くり回されて、改造されただけだ。
大昔の地球でやっていたことを、未来の火星で繰り返す。
人類は今も昔も馬鹿なままだ。
ああ、僕自身が馬鹿だから仕方が無いのか。
再確認。頭が良ければ、大学に逃げれたはずだ。
僕には軍隊しか選択肢がなかった。
いや、今の時代なら、これが当たり前か。
みんな、仲間だ。
赤信号、みんなで渡れば、怖くない。
僕でも俳句を詠めるんだ。ああ、骨の髄まで日本人。
主に文化的に、そして特に遺伝子的に。
これから行うのは、ただの誰かの、娯楽のためだけの戦い。
痛い思いをするのは僕だけだ。
式守の思考は、タイムキーパーが延々と鳴り響かせる甲高いホイッスルにより断ち切られた。
一つの儀式が終わったのだ。
「時間切れ!! 止めッ!!」
アナウンスの声が古ぼけたスピーカーが音割れした雑音と共に鳴り響く。その音量に負けないぐらいの罵声が酷さを増した。
その多くは挑戦者への不甲斐ない戦いをなじる言葉であり、それは賭けに負けた博打打ちの憂さ晴らしに過ぎない。
アナウンスと同時に跳ね回っていた猿が短い悲鳴を上げて檻の隅っこへと飛び退いたが、それはタイムキーパーが持つリモコンにより首輪から電気が流されたからだ。サルに特段驚いた様子は見えなかった。しっかりと躾けられている証拠と言えるだろう。
名前も知らない同期が猿を殺し損ねた。
馬鹿野郎。
戦闘猿は元気満々。
死ねよ、馬鹿猿。くそったれ。
今さら逃げることなんて出来やしない。
いや、出来なくもないが、怪我をするよりも悪い結果が降り掛かってくる。
猿と戦うのは今日だけだけど、逃げたら先輩たちに毎日いびられるだろう。
まさに、奴隷というべき立場。
僕は現代の奴隷。
軍隊の奴隷。
社会の奴隷。
まさに、由緒正しく奴隷オブ奴隷。
考えるだけ無駄だ。
奴隷は何も考えなくて良い。
代わりに選択肢が存在しない。
だから、今の僕には選択肢が無い。
選ぶ自由が無い。
少なくとも、今はない。
訂正する。
今回は自分で捨てた――天羽の代理になるために。
ああ、クソ。
僕は女々し過ぎる。
式守は再び「くそったれ」と零すと、ベンチから引き剥がすように腰を上げた。
踏み出す一歩目がやけに重く、遅かった。
それでも、真っ正面を睨んで無理矢理歩き出す。
ここから逃げる惨めさと、猿と戦う痛みを天秤に掛けて、後者を選んだ。
途中で敗北した同期とすれ違う。
目を向けなかった。見たら負けてしまうような気がした。
だから見ない。慰めの言葉も掛けない。
今は自分のことだけに集中したい。
親しくない奴のことなんてどうでもいい。
皆の声援が聞こえる――。
「式守! 怪我しないで!」
罵声の中でも、天羽の声はよく届く。
「私が絶対治すからね!」
彼女の傍にいるのは椎名か。
「式守! ファイトぉおお!! ファイトぉぉおおぅうっ!!」
聞き慣れた汚いダミ声は同期の野郎ども――。
「式守ぃいい! エテ公ごときに負けんじゃあねぇぞ!」
「君なら勝てる! 自分を信じて!」
「気合いだ! 気合い! 気合いいれてけ!」
「アッラー! アクバル! アッラー、アクバル!」
「あの猿を殺せぇええッッ!!」
ボブの野郎、マジでうざってぇ。
馬鹿みたいに騒ぎやがって。
慣れない人助けはするもんじゃない。
僕には全く似合わない。
恐怖と興奮に駆られて叫びたい……なんだ――結局、僕も変わらない。
出来ないことを選んだ、ファッキン・ジーサスな愚か者だ。
式守は歩きながら、戦闘猿の一挙一動を注視する。
やがて檻の周りに陣取る観衆達が、次なる挑戦者――式守を見つけた。
再び湧き上がる歓声と野次。
終わらない祭りを楽しむ雄叫びの数々。
「――式守ッ!」
背後から響いた、聞くだけで背筋が伸びてしまうような威圧感のある濁声が、彼の足を止めさせた。
声の主は分かっている。
その煩わしさに無意識に小さな舌打ちが漏れた。
だが、無視をするなどと言う無礼は、例え、この先階級が上がろうと許されない。
少年は声の主に顔を向けるために振り向き――。
無意識に両腕が動いた。
痛覚よりも先に感じる衝撃。揺れて焦点がずれた視界。無意識が動かした両腕。
前腕を交叉した十字ブロックで腹部への一撃を防いだが、それでも身体が数歩後方へ吹き飛ばされた。
助教である猿渡の右前蹴り。
後方からの不意打ちだが、そこには手加減はなかった。
無防備に食らえば、それなり以上の痛みと損傷を与えうる容赦ない一撃。
それを見ていた観客たちは余興の一つとして受け入れ、さらに大きな歓声を上げた。
「よう。気合い入ったか、失敗作」
「……班長」
式守は不意の攻撃で、湧き上がる殺意も敵意も隠せなかった。本能のままに睨む。
しかし、そんなものは何もなかったように猿渡は瓶ビールを呷った。黄金色のアルコールを胃袋に流し込み、げっぷをひとつ吐いた後、厚かましそうに口を開いた。
「偶には本気出せよ、失敗作」
猿渡大悟は、式守が嫌う渾名でわざと呼んだ。
「自分は、いつでも本気です」
従順な式守としては珍しく抗弁した。はらわたが煮えくり返りそうだが、まだ我慢できる。
古参の海兵隊下士官は鼻で嗤った。
「それが駄目なんだよ、テメェは。中途半端は止めろ、失敗作。もっと殺気を滾らせろ。思う存分、発狂しろ。何も考えるな。一切考えるな。そして感じるんだ。狂って、喚いて、叫んで、獣のような本能に従え。勝ったら、お情けの報酬も出る。少しは頑張れや」
猿渡は歪んだ笑みを見せつけながら、教え子に鋭く言い放った。
「命令だ、式守直也。サルを、確実に、殺せ」
「了解」
言いたいことを言うだけ言った猿渡は手に持っていた瓶ビールをラッパ飲みで呷った。教え子の憤りなど眼中に無く、それが空になるまで呷ると口元から零れたビールを手の甲で拭う。空になったビール瓶は適当に投げ捨てた。
助教の名は猿渡大悟。ふてぶてしい表情を浮かべた顔に、容姿には無頓着なのか散切り頭で無精ひげは生やしたまま。四角い顔に潰れたような鼻と耳が特徴的といえば特徴的だった。骨太で筋肉質な身体付きはスマートとは決して言えないが、格闘家として見ればかなり恵まれた体格である。酒と女と賭け事を愛する日本航宙軍第三海兵団所属の三十代手前の二等軍曹。入校以来、式守たちを2年半に渡り教えた助教の一人にして、営内班長――軍隊生活を指導する者として、文字通りに手取り足取り鍛えた。彼は、式守のことを本人よりもよく知っていると言えるかもしれない。
「……任務を完遂できるように努力します」
自分を『儀式』に叩き込んだ張本人に対する態度は、今はこれが精一杯だ。
軍隊の中で、今の力関係を忘れるわけにはいかない。
「期待してるぜ、式守」
まるで気にも止めてない言葉の軽さ。
式守は湧き上がる罵声を封じ込めて、踵を返し、再び歩き始めた。
少年を急かす罵声が木霊する中、足早に檻へと向う。
そんな教え子の後ろ姿を視界の片隅に捉えながら、猿渡は観客席として並べられているパイプ椅子の一つに腰を下ろした。新兵たちの教育者として共に仕事をした仲間の輪に入り、奇声と共に乾杯と叫び、思い思いの杯やビール瓶を打ち鳴らして勢いよく呷った。誰憚ること無く、げっぷを吐き出し、アルコール混じりの臭い息を撒散らす。
昼間から飲む酒は最高だ。
何もかも忘れられる。
彼にとって、脳裏に刻み込まれた悪夢を暈かすには、この上ない特効薬。
嫌なことを忘れるには、酒と女と賭博に限る。
「よう、ギャンブラー! お前、本当にノーナンバーに賭けたのかよ?」
猿渡と同じように酒臭い息を吐き出しながら聞いてきたのは、同じ小隊で他班の教育を受け持っていた柏倉2等軍曹。一見優男のような風貌だが、酒が入ると手が付けられない酒乱で、年も近く、猿渡とはよく気が合った。
賭けは言うまでもなく、目の前で行われている戦闘猿対新兵の戦いだ。
毎年新兵訓練課程修了の締めとして、教官や助教達に『選ばれた者』たちが檻の中で、廃棄予定の戦闘猿との一騎打ちを行う。
その勝敗は賭け事として恒例化していた。
彼らも新兵の時代にこれを経験している。この戦いが正規の人事書類に残ることは無い。だが、この戦いで立派に戦う気概を見せた者は、古株たちの間でそれなりに目を掛けられるようになる。それはその新兵を鍛え上げた助教たちにとっても同様だ。教え子の出来がそのまま彼らの評価に直結する。
だから、彼らは教え子の中で、最も戦いに適した者を『儀式』へと送り出すのが通例だ。
ギャンブラーとお気に入りの渾名で呼び掛けられた猿渡は、満更でも無さそうな笑みを浮かべた。
「おう、俺は教え子に一点張りだぜ」
胸を張って答えたが真っ赤な嘘だ。彼は他にも賭けている。
「へぇ!? 嘘臭えぜッ!」
それぐらいの嘘は柏倉でも即座に見破れる。その程度は理解出来るぐらい、共に過ごしてきた。
「なに言ってやがる! 俺のギャンブルは勝つ奴にしか賭けね~えんだよ」
「失敗作に、か? はッ、笑わせるぜ」
ノーナンバーという不名誉な渾名を付けたのは猿渡本人だ。柏倉は訳が分からないと大げさな表情を作った。教官たちの間では式守の評価は低くは無いが、特段高いわけでも無い。
「俺はアイツに期待してんだよ」
「言ってることとやってることがあべこべだぜ?」
興味が湧いたのか、赤い顔をしながら柏倉は問う。隣の男の教え子が檻の中に入るのが見えた。激しくなった周囲の野次と共に、彼も野次を飛ばす。それでストレスが多少発散できたのか、満足げな表情を浮かべて、柏倉は猿渡に視線を戻した。
「なんで手の込んだ真似までして、班代表を式守に変えた?」
柏倉が口端を大きく歪めて問うと、猿渡も同じような表情をわざと作りながら応じた。
「はッ、何の話しだ?」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、柏倉が胡散臭そうに睨め付ける。
「猿渡、なに下手な芝居してやがんだよ。ちゃんと俺の耳にも入ってんだよ。今回の儀式、お前、熱望した荒木をわざと叩き落とした上に、天羽を指名して教え子全員を追い込んだだろ」
「へぇ~、そうか。お前の耳にもやっぱり入ってんのか。俺の教え子は口が軽すぎるな。やっぱ、お仕置きしなきゃ駄目かな」
軽口で返す辺り、猿渡は質問を想定していたように見えた。
同僚はその様子を確認しつつ畳み掛けた。
「天羽は若いし、女のわりには武術の腕前も大したもんだ。だがよ、新兵としちゃ上出来だが、本当は年端もいかない少女で腕力は大してない。しかも相手は武器無しとはいえ戦闘猿だ。普通に考えれば有り得ない人選じゃねぇか。合理的に考えれば、お前の班で一番腕っ節の強い荒木を選ぶだろ。それを強権発動で排除して、中隊長の忠告や先任の指導まで無視して、女の子を指名したらただの苛めにしか見えないよな。そこまで強行しておいて、式守が代役を申し出たらあっさりと認めやがった。お前自身の評判も結構落ちたってのに悩む素振りも無く、その場で変えやがったよな。猿渡、本当はお前、なにを企んでんだ?」
「さぁ~ねぇ~」
猿渡はわざとらしく口笛を吹くだけでまともに答えない。
「白々しい。なんだ、苛めか?」
「半分はそうだな」
助教という新兵を教える立場の者ではあったが、猿渡は笑いながらあっさりとそれを認めた。
「救いようがねぇな」
「これもまた教え子を成長させる一手段さ」
「まともな言い訳をする気もねぇのか、酔っ払い」
不評と不利益を被りながらも、本心を打ち明けようともしない同僚に呆れながらも柏倉は食い下がった。
「お前が出来損ないに金を賭ける理由ってなんなんだよ? 今のお前はギャンブラーじゃなくて、出来の悪い詐欺師にしか見えねぇよ」
猿渡は疑いの視線を無視して教え子を注視し続け、同僚には顔を向けずに説明した。
「式守は、よ……臆病なんだよ。そのくせして根っこは凶暴で生き汚くて、残忍で我儘だ。あいつの本性は本物だ。だから、賭けた。欠点は、まだまだ中途半端なことだが……。まぁ、だからこそ、ギャンブルなんだけどよ」
喧噪の中でもはっきり聞こえる口調。それは猿渡の確信と自信を表しており、柏倉は目を丸くした。
「お前、それ褒め言葉じゃねぇだろ」
生き汚いというのは、どんなことをしてでも生き残ろうとする執念のことだろう。と、柏倉は見当を付けたが、今この場では無関係にしか思えない。
この儀式で評価されるのは戦う意志の強さだ。
別に猿に勝つことや殺すことが、目的でも主題でも無い。
自らより強い敵に、最後まで戦う意志を見せることが最も重視され、評価されるのだ。
「確かに褒め言葉じゃねぇが、アイツは文字通りの失敗作さ。きっと俺たちを楽しませてくれる」
「じゃあ、俺も賭けとけば良かったか?」
「いいや。俺一人しか張らないから、ギャンブラーって名乗れるんだよ」
猿渡が心から楽しそうに笑い、また酒を呷る。その様子を横目で見つつ、柏倉は「そうだな」と答えて話題を終わらせた。何事もなかったように野次を飛ばし、乾いてしまった喉に生温いビールを流し込んだ。
彼らの視線の先で、やっと『儀式』という名の催し物が再開される。




