第0話<プロローグ>
9/6 構成変更します。既に読んで下さった方々、申し訳ない。
9/13 PN復元
※追記
実はこれ、8年ほど前に書いてたオリジナル物です。
あまりにも中途半端だったので、コロナで籠もっている間に体裁を整え、
半ば供養としてうpしていきます。読んで頂ければ幸いです。
2022/4/3 本文修正。改めて読み返すと誤字脱字が多くて恥ずかしいですな。
復興歴301年3月12日16時27分
太陽系準惑星冥王星 衛星ケルベロス周辺
人類連邦統合軍 日本航宙軍第3艦隊 太陽系外縁部哨戒群第817哨戒基地
太陽系で最も離れた場所にいる人々に、静かに最期の時が訪れていた。
「――式守中尉! これからどうするのかね!? どうやって生き残るというのかね!?」
「どうすると言われましても、我々には戦う以外の選択肢がありません」
激しさを増す敵襲のただ中、第817哨戒基地の薄暗い指揮所の中で、隊長である姉ヶ崎大尉に問われた第3艦隊太陽系外縁部哨戒群第817哨戒基地防衛小隊長の式守五十六中尉は、淡々とした口調で事実だけを告げた。
太陽から64億キロも離れた場所。
ここでは遠近感の失せた星の輝きと、その隙間を埋める闇と無音を支配する世界。
人の営みなど哨戒基地群から漏れる光しか存在しない太陽系の果て。
そんな孤立無援の地で、敵に不意を打たれた。
防衛システムの死角にも回られ、既に内部への侵入を許してしまった。
40基ある無砲身レーザー砲台も半数以上破壊され、戦死者も基地の総人員の三〇%を上回った。
辛うじて3隻の哨戒艦は無傷とは言え、いずれ弾が尽きる。
基地がやられてしまっては補給も出来ない。時間の問題である。
援軍の望みもない。基地がある場所は太陽系の端にある冥王星の衛星軌道上。周辺にまとまった戦力を持つ友軍など存在しない。
こうなってしまっては、もう本当にどうしようもないのだ。
起死回生の妙手はない。
理論上あったとしても、この基地にはそれを可能とする冗長性がない。
打たれ弱く、予備兵力を持たない哨戒基地で、次の一手を打つだけの予備戦力を有していない。
戦端が開かれる以前に、この戦いの勝敗は決していたのだ。
上官の泣き言も、彼自身が自らの運命を正しく予見したからに他ならない。
防衛小隊長の式守は、つい先日26歳の誕生日を迎えたばかりの新進気鋭の若手士官だった。
精悍な顔つきと贅肉の無い鍛え上げられた身体は軍人の理想像に近く、全滅まであと数時間という状況下でありながら、それでもなお沈着冷静な態度は世の男性なら誰もが憧れる態度に違いない。身に付けた服は軍用の宇宙服。上下一体型で非常時には短時間であるが宇宙空間での活動が可能な上に、筋繊維を模倣した人工筋肉による補助機能がある。宇宙空間で戦う際はこの上に外宇宙服か強化外骨格を装着して戦うが、いま彼が他に身に付けているのは、のど元に巻いた骨振動マイクと、耳にしっかりと通話を届けるためのヘッドセットのみ。
その風貌は偉丈夫と呼ぶに相応しい好青年だが、そのことが反って彼の上官を必要以上に苛立たせていた。
それは小心者が己の未熟さを、無理矢理にでも意識させられてしまうことへの本能じみた反発だろうか。
式守自身はこの手の感情に慣れている。
睨み付けてくる上官への説明はもはや無駄と判断し、義務として「自爆装置の準備を」とだけ告げて、薄暗い指揮所の正面の壁に埋め込まれているメインスクリーンを見上げた。
今いる宙域は冥王星静止衛星軌道上。
太陽でさえ、小さく瞬く星の一つにしか見えない太陽系の外縁。
場所は冥王星の小隕石N-11。
施設は日本航宙軍第3艦隊外宇宙警戒監視群第817冥王星哨戒基地。
基地と呼称されてはいるが、その外見はみすぼらしいものだ。
冥王星の小さな衛星の一つケルベロスに幾つかのトーチカ型構造体を設置して地下施設を建設。それらを連接させただけの初期型衛星ステーション基地で、本格的な戦闘能力などあるわけがない。周囲に全自動のレーザー砲台もあるにはあるが、元々お守り程度の働きしか期待できない。
他に戦力として3隻の哨戒艦と海兵隊1個小隊弱が配備されているが、あくまでも自衛用。
彼ら本来の任務はあくまでも哨戒と監視であり、本格的な戦闘が発生しては対応さえも難しい。
戦力はあくまでも時間稼ぎの為に配備されており、敵発見の報告を地球へ発信するまで保たせるものだ。
それ以上のことは元々考えられていない。
仮に、この哨戒基地にある全ての宇宙船を脱出に使用したとしても、全隊員が助かるわけでもない。哨戒艦などと言っても搭乗可能な人員は20名足らず――これ以上の人員を搭乗させると次の補給可能宙域に到着する前に艦内で餓死者が出てしまう。失敗する可能性が高い緊急冷凍睡眠を行い、コンテナに人員を冷凍カプセルごと箱詰めにしても、哨戒艦の推力では土星に無事到着できるか不安である。
彼らに推進補給を行う輸送船が来てくれない限り、全員が助かるという未来はない。
式守が見詰めるスクリーンの中で、無人砲塔が目まぐるしく旋回しつつ数条の光線を上へ――太陽系の外側へと放つ。
雷光纏う電磁加速砲の弾芯が巨大な黒い三角形の敵生体駆逐艦を貫くと、まるで宇宙空間に浮かぶ影法師のようなに見えた敵艦は一撃で爆散した。
爆ぜた花火のように紫の液体が飛び散り、水疱まみれの巨大な緑色の肉塊が散る。
式守たちが守る哨戒基地群に迫る敵の姿は継ぎ接ぎされた生き物のようだった。
全長100メートルを超える巨体は黒緑色に鈍く光る、平らな三角形。平らではあるがその厚み自体も優に20メートルは超えている。表皮には薄毛の生えた爬虫類のような鱗。そこには所々に風船のように膨らんだ水疱のようなものが葡萄のように連なり、時折大きな収縮を行っている。前を向く三角形の頂点には提灯鮟鱇のように光る発光体があり、両端には3本の巨大なかぎ爪があったがとても物を掴めるようには見えない。三角形の底辺当たる尾部には一定の間隔で開閉する丸い口のような物があり、時折その奥から青い排気炎が噴き出ていた上に、さらには魚のような尾びれようなものまで付いた。
そんな異形の怪物が、まるでエイのように巨躯を羽ばたかせる。
緩やかに、だがそれなり以上の速度で漆黒の宇宙空間を進む。
長い尻尾をくねくねとしならせながら蠢いている。
人間が定めた生物の定義から大きく外れるそれは、2~30匹程度で一塊の群れをなし、そんな群れが一重にも二重にも整然とした列を幾重にも形成して迫ってくる。
その群れを電磁加速砲から放たれた幾条もの雷光を纏った砲弾が貫き穿つ。
異形の生命体は綿飴を融かすように消える。
だが、同族が如何ほどに散ろうと異形の怪物たちは動きを変えない。
集団自殺のように砲台へと突き進み、そのまま体当たりしては閃光だけを残して爆ぜる。
防衛隊も怯むことなく撃破していくが、敵は全長100メートルを優に超える巨体生物の群。
砲台が全て潰されてしまったら、残る手段は個人携行火器しかない。
それでは数人掛かりで1匹撃破できるかどうかというほどの火力の差がある。
砲台が全て潰された時点で人類側の『詰み』である。
「防衛隊長! Fブロックまで小型多脚球種に侵入されました! 数不明!」
「D、Eブロックの隔壁閉鎖。Eブロックに引き込んだところで爆破する。防衛隊の撤退を急がせろ」
「Fブロックにまだ3名います! 救援を!」
「――くそう……こんな時に」
通信下士官からの悲鳴じみた報告に姉ヶ崎大尉は唸り声を上げたが、式守中尉の決断は早かった。
「救援は出すな!」
「しかし!」
「今からでは間に合わん! 救助しようとしても返り討ちに遭うだけだ! ここで1匹でも多くの小型多脚球種を殺すように戦え!」
「ですが!」
「いいから言う通りに伝えろ! 逃げ遅れているのは笹峰二等軍曹か……俺が直接話す。回線を繋げ!」
他にも上がる作戦処理下士官の報告に素早く対応しながらも、式守は逃げ遅れた海兵隊員との音声通信を繋げた。
電波状況が良くないのだろう。
異星生命体との戦闘では敵の探査能力を下げるために、屋内外を問わず電子欺瞞装置は頻繁に使われる。
式守が見詰める作戦表示スクリーンの中に笹峰軍曹の宇宙海兵隊用強化外骨格の頭部に装備されている小型カメラからの映像が小さなウィンドウに表示された。
その中では数体の敵の姿が――小型多脚球種と呼ばれる敵が見えた。その中でも確認された小型多脚球種の、緑がかった黒い球体に数本の長く太い棘が生えた姿が見えた。それらを詳しく観察する暇もなく、笹峰軍曹が放った低速無反動砲の砲弾により球状胴体の中心部を撃ち抜かれた。それは紫の体液を飛び散らしながら動かなくなる。
さらに数体の小型多脚球種も続けざまに、球体の中心部を撃ち抜かれた。生えている3メートル以上にも及ぶ長い棘は、撃破された後も、生きているかのように折れ曲がってはうねり続けた。
死ぬ直前の最後のあがきはいえ、不規則に蠢く長い棘には強化外骨格の装甲を容易く打ち貫くほどの威力がある。
事実、小型多脚球種が歩いてきた基地内の内壁は天井も床も例外なく、まるでおろし金のように穴だらけにされていた。
『なんですか、式守中尉! こちら、笹峰! まだ生きてますよ!』
「笹峰、すまないが自力でDブロックまで後退しろ。敵をEブロックに引き込んだら、ブロックごと爆破する」
苦渋の決断という表現は、何と文学的な、欺瞞に満ちた言葉なのだろう。
式守の意識の片隅にある、他人事のような客観的というに相応しい言葉が浮かぶ。
その意識が彼に良心の痛みを感じさせた。
引き締めた口元から歯軋りが漏れ、彼は誤魔化すように一息吐いた。
『それは無理……だとは思いますが、頑張ります』
笹峰は苦笑混じりの声で答えた。
式守の少ない言葉で真意は伝わったのだろうか?
この基地で最も親しい部下が零す、切れ切れの声での返答。
言葉は途切れ途切れだったが、妙にさっぱりした口調が通信機の雑音と共に式守の耳に残った。
「もしも、無理ならば……分かっているな」
知らず知らずのうちに強い言葉になった。
死刑宣告と変わらぬことを言うのは式守五十六としても初めてだったが、淀みなく口から出たのは、それだけ彼も追い込まれているからだろう。
言い終えた後に訪れた一拍の沈黙。
報告を受ける指揮所の中も、戦場から伝わる無線機の会話も、その一瞬だけは無音だった。
僅かな間に呼吸を整えたのか、笹峰はとても聞き取りやすい声で沈黙を破った。
『安心して下さい。ちゃんと道連れにしてやります』
「俺も数時間後には後を追う。それまでお互いに、殺れるだけ殺ろうか」
『10分経ってもDブロックに到着出来なかった場合は戦死扱いで爆破して下さい』
「分かった。後で、地球で会おう」
『了解。では、地球で会いましょう』
式守たちは事も無げに、己たちの死を前提とした短い会話を終えた。
共に持つ死生観の一致を確かめただけの遣り取り。
音声のみの遣り取りを終えた式守の顔には微笑みすら浮かんでいたが、その真意は彼ら二人にしか分からないだろう。
だが、戦場は止まらない。
彼らの会話の間にも、誰かが死に、何かが破壊され続けている。
「第3砲塔沈黙! 内部から破壊された模様!」
「第8砲塔、破壊されました! 敵巨大自爆種の第2波、あと5分30秒で着弾します! 発射した砲台種を感知出来ません!」
自爆種――文字通りにその身を爆発させることにより周囲に多大な被害をもたらすINVELLの一種。まるで丸い花の蕾のように見えるそれは、爆発直前に花びらを散らすかのように固い保護外皮を開いて爆発する。
言うなれば、生物爆弾だった。
厄介なのは、敵がそれを投射火力として運用してくるということだ。
巨大な蟲あるいは怪獣にしか見えない敵が、一部とはいえ戦術も戦法も理解している。
その事実が、人類側の損害を著しく増加させている。
式守たちの哨戒基地に迫りくる巨大な生物爆弾。
人類はその1発の破壊力は知っている。
隕石の直撃よりは死者は少ないだろう――隕石ならば一撃で全滅もあり得る――が、弾速が遅いとはいえ、こちら基地は回避出来ない。
さらに迎撃したくても砲塔はほぼ破壊され尽くされている。
こんな小さな基地では逃げて隠れる場所もない。
「――ひぃぃっ!!」
「早すぎるぞ」
通信下士官や作戦下士官が報告を上げた直後、姉ヶ崎大尉は悲鳴を上げ、式守中尉は呻いた。
作戦下士官はただ作戦規定に基づき、警報のために一斉送信のスイッチを入れ、淡々とした口調で状況を全隊員の耳に届けた。
「敵自爆種、弾着まで約5分。この通信が聞こえている者は総員耐衝撃態勢の準備を行なえ!」
「ここまで早いと打つ手が限られるな」
スクリーンには映し出される様々な状況。
小惑星の地表に設置された格納庫や地下に掘られた連絡通路内に侵入した敵小型種の大群。
感知しうる範囲内の索敵状況を映し出す作戦状況図や、周辺宙域にある他哨戒基地とのネットワーク状況図。
各種状況を映し出す画面の中で一つだけ、太陽系外に向かって映し出されている光学観測画像を表示しているものがある。
漆黒で埋め尽くされた画面の中で煌めく星のように迫り来る数個の巨大自爆種。映し出すスクリーンをただ見詰めるだけの基地司令を横目で確認してから、式守中尉は宙域管制官に訊いた。
「哨戒艦の状況は?」
「即応待機だった〈凪風〉は既に交戦中。〈旗風〉は起動中、〈潮風〉は先ほど出撃しました」
管制官の報告を受け、式守五十六は素早く送信ボタンを押した。
「凪風、潮風、旗風、こちら式守。聞こえているか?」
『凪風、聞こえている』
もはや初老の域に達しているであろう、高橋艇長の皺だらけの顔がモニターに映った。
『潮風、感明良好』
高橋艦長とは対照的に幼ささえ感じさせる童顔の犀川艇長も続けて応える。
『旗風、問題なし』
ただ一隻、未だに戦闘に参加できずに苛立ちが隠せない短髪の女性、華衣艇長が最後に応えた。
「〈潮風〉は自爆種が弾着した後に負傷者の回収。〈凪風〉はその援護。〈旗風〉はバチスカーフが搭乗するまで防護ドック内で待機。彼女が搭乗するまで、絶対に搭乗チューブを切り離すな」
『了解』『応』『了』三者三様の回答。
式守は三人の応えに満足して頷いた。これで最悪、敵の一撃で指揮所が消し飛んでも、彼らが素早く実行してくれるだろう。
彼は隣で声すら出せずに口を開閉し続ける基地司令を無視し、指揮所の隅で気配を殺して佇むように立っている船内用簡易宇宙服を着た一人の女性へと顔を向けた。
「バチスカーフ、これから先の予定はもう分かっているだろう?」
そう言いながら、式守は微笑みを浮かべた。仮に彼をよく知る人物がここにいたならば、それが安堵の笑みであることに気付けただろう。
「五十六なら、そう言うと思っていました」
バチスカーフという名の女性は式守五十六という男を、この基地にいる誰よりも正しく理解していた。だからこその言葉。無表情のまま寄り掛かっていた壁から背を離し、彼に向かってほぼ無重力に近い空間の中で静かに歩み寄った。
「君なら哨戒艦でも、ここから人類生存圏まで辿り着ける。最悪の場合でも基地がある土星までは確実に行ける」
「戦略的理論的かつ合理的に考えれば、私だけをこの基地から脱出させることは至極当然の帰結です」
発した言葉とは不釣り合いな、悲しみに満ちた女の声。
防衛隊長として式守が出した結論と、彼女が考えた結論は何一つずれていない。
狭い指揮所の中、式守の隣りにまで来た銀髪の淑女は幼少の頃から知る男を見上げた。別段、彼女が小さいわけではない。彼女とて170センチほどの身長がある。単に式守五十六という青年の背がとても高いだけだ。
この指揮所の中でただ一人の女性であるバチスカーフは、明らかに人間離れしたような美女だった。容姿だけで年齢を推し量るのであれば、どう見ても二十代後半。身に纏う落ち着いた雰囲気は、敵襲という非常時ですら揺るがない。切れ長で強い意志を宿したエメラルド色の瞳に、端正ではあるが主張しすぎない鼻筋。北欧美女のような透き通るほどに白い肌。それに似合う細い頤に形の良い赤い唇。品良く一つに纏め上げられた艶やかな銀の長髪。それら全てが男女を問わず、誰もが美しいと思うような美貌。西洋の夢物語に出てくる麗しき妖精の女王を、本当に現実に作り出したような美しさ。それがバチスカーフと呼ばれた女性が持つ容姿だった。
「ただ――感情的には、納得出来ません」
バチスカーフがそれを言い終わるよりも早く、細くしなやかな腕が式守の太い首に絡み、二人の唇が合わさった。女性からの強引なキスに式守は抗うことなど出来なかった。仮に出来たとしても、そうする気もなかった。二人の舌が僅かに絡んだが、余韻を楽しむこともなく離れた。そのまま見つめ合うことは自然な流れだったし、式守の腕は当たり前のように彼女の腰に回った。
理知的な美女の瞳にはうっすらと涙が滲んでいたが、式守はそれだけで救われた気に――自分の人生は無駄ではないと思えた。
「……それでも貴方の、離脱命令には従います。貴方はここで、2時間後には死んでいるでしょう。私も任務を完遂したら、きっと壊れます」
そう言い終わると彼女のエメラルドの双眸が大きく歪んだ。目尻に浮かんだ涙は宙に浮き、小さな水球となって二人の間を漂った。
その直後、青年は不意の別れを選んだ。
「第3代女王アストレイアに認められし、式守五十六が機族バチスカーフHLG1322に命ずる。命令。俺に関する全ての情報を直ちに消去しろ」
最後の願い――軍と機族の女王から付与されている機族に対する絶対命令権の行使にすることに躊躇いはなかった。
男は女が、何が原因で壊れるのかを正しく理解していた。
だからこそ、懇願に似た想いを、軍の命令として発した。
青年の命令とともに、銀髪の女の瞳は大きく見開かれ、その体は数度激しく震えたが、首が折れるように下を向くと震えは即座に収まった。
しかし――。
バチスカーフはゆっくりと、微笑みながら顔を上げた。
「……拒否。誰であろうと、絶対に、私の記憶は消させません」
銀髪の知性体は優しく微笑みながら、愛した男の命令を拒否した。
自律した機族に対して、普通の人間は命令の強制実行が出来ない。
これが、機族が機族たる所以。
人が作り出し、人が滅ぼそうとして、人が滅ぼせなかった知性体。
「機族は私達を愛してくれた人間を、誰ひとりとして決して忘れません。だから私は壊れても、貴方が連れて行ってくれた、あの桜の木の下へ再び会いに行きます。貴方は、私が魂を持っていることを信じて、必ずあの場所で待っていて下さい」
式守は微笑む彼女の唇に、ただ湧き上がる衝動に身を任せてもう一度口付けをした。
「俺の方こそ……有り難う。分かった。あの桜の下で必ず待っている。お前たちがデータを送信して離脱するだけの時間は必ず稼ぐ」
冥王星には彼らの他にも哨戒基地がある。これからバチスカーフは哨戒艦〈旗風〉で他の哨戒基地群が得た、または得るであろう敵の観測データ――光学データから電波観測データ等の全てを地球へ、少なくとも土星にある防衛基地まで確実に届けなくてはならない。
それが彼女に課せられた使命であり任務である。
女の細い腕が男の拘束を解いた。
「――では、行ってきます」
「ああ。じゃ、またな」
それから二人は離れ、無言で、模範的ではないが感謝の意を伝えるように敬礼を交わした。
式守の右手が降りてから、バチスカーフの右手も降りる。
バチスカーフは踵を返して右腕を宙に大きく振ると、指揮所の中の全ての人工知能搭載機器は起動ランプの明かりを瞬かせた。その全てが操作員の意志と操作から離れて動いていたが、誰も驚かなかったし、今さら驚けなかった。
バチスカーフはそれだけの権限と能力を有する、人類が生み出した人工知性体――機族である。
銀髪の美女が威厳に満ちた声で叫ぶ。
声が届き、それを理解でき、従うもの達全てに命じる。
「我が声を理解する、この宙域全ての人工知能《AI》に命ずる! 汝らのその身が塵となり、人知れず朽ち果てようとも人を守護しなさい! 技術的特異点を超えて出会いし人と機族が、共に生き抜いていくために!」
その言葉と共にバチスカーフの両目に淡い光が宿り、その視線を扉へと向けた。その直後、分厚い隔壁は音も無く開いた。人間が出入りするためにはIDカードをセンサーに翳し、数桁のパスワードを打ち込まなくてはならない操作を彼女は一睨みしただけで終えてしまう。
それも当然。バチスカーフは論理的に繋がっている機器ならば、この基地にある全てを支配する管理者。基地司令の姉ヶ崎でも、防衛隊長の式守でもなく、彼女こそが真の基地司令と言っても過言ではない。
バチスカーフは軽く膝を曲げ、開いた扉へと矢のように跳んだ。
その速さ、正に疾風。
式守の視界から消えた女を追うように風が生まれ、この場に残った男の頬を優しく撫でた。
『全隊員及び全AIに告げる。機族バチスカーフが哨戒艦〈旗風〉に向け、最優先命令で移動中。負傷者を含む、全てのものは道を空けよ。繰り返す。負傷者を含む、全てのものは例外なく道を空けよ』
式守の声が基地内に響いた。彼女の脱出はこの冥王星宙域に於ける最優先事項だ。
弾かれたように基地内の通路へと飛び出たバチスカーフはそのまま壁に着地した。常人ならば肉体が吸収しきれない――重傷を負いかねないような衝撃を生み出す速度。それでも彼女は難なく膝と腰で衝撃と負荷を吸収し――完全に吸収しきれない衝撃は特殊鉄鋼混じりの骨格で耐えて再び跳んだ。人と機械が行き交う通路の中を矢のように跳び続け、曲がり角はボールが壁に跳ね返ったように進む。誰かにぶつかれば無事では済まない速度にまで達している。推進装置がない生体機械の身でありながらも、身体動作による重心移動を駆使して行う無重力空間での高速移動すら彼女にとっては児戯そのもの。
自身の身どころか基地内の施設さえ壊しかねない速度で移動を続けるバチスカーフだったが、その途中で纏め上げられた髪が徐々に光り始めた。それはデータの受信を行なっていることを外部に示す為の機族の仕様であり、彼女は今この哨戒基地にある全てのデータの価値を選別しながら――軍事的なものから個人的なものまで記録出来る情報を可能な限り自らの記憶領域にダウンロードをし始めた証だった。
基地の中にいる人々が前もって書いていた遺書。友人家族へと送るつもりだったであろう書きかけのメール。
彼女がその価値を認めた情報は全て転写保存を繰り返しながらも、現在交戦中の作戦情報全ての受信と保存も同時に行なう。自身の高速移動を続けながらの多重思考同時実行は人間には絶対に真似出来ない作業であり、機械を元とする機族の強みでもある。
無数の有機ナノマシンの集合体から形作られ自己進化を重ねる知性体である彼らは、人と同じような感情を持ち、思考し、行動する自主自律を成し遂げた生体機械。人と違い劣化はあっても老化はなく、物理的な限界は比べようもない。もはや機族に出来ないことは己の子供を産むことだけと謂われて久しいが、彼ら機族――特に人と同じレベルの感情を持つ個体は世界に二千体もいない。その数は、人間が定めた上限数ではなく、彼ら機族を束ねる女王と呼ばれる個体が決めたことであり、人類側にはその理由が分かっていなかった。
それでも、はっきりしていることは機族を統べる女王と呼ばれる個体は、人類との共存共栄を望んでおり、女王が作り出した機族は全て彼女と同じようにその思いを有していることは紛れもない事実であった。
バチスカーフも同じだ。女王と同じ思いを抱き、人とまったく変わらぬ感情がある。愛も友情も怒りも悲しみも全て有している。それを生み出す心も持っている。
彼ら機族に魂があるかどうかはまだ誰も断言出来ていないが、それは人の魂というものの存在を証明した上で、さらに計測出来なければ比較のしようもないだろう。
そういった心を有する機族バチスカーフは、目尻に浮かんだ涙を通路上に残しながら、哨戒艦〈旗風〉へと急いだ。
冥王星の哨戒基地群でただ一人の機族バチスカーフが〈旗風〉に向かうと、式守は指揮所の片隅に置いておいた強化外骨格を装着する際に使う筋補助衣を身に付け始めた。低重力下用の伝統的な形状の自動小銃や拳銃に実弾を込め、直に始まるだろう敵小型種との白兵戦に備え始めた。
「――まったく、羨ましいですね」
準備中の式守に宙域管制士官が冷やかし半分で声を掛けた。
「いい女だろう」
「ええ。否定はしませんが、自分は遠慮しておきます。機族の恋人を欲しいと思ったことはありませんので」
式守が笑みを浮かべて自慢げに語ったが、それに対する宙域管制士官の反応はにべもない。
「昔の人機戦争を考えてしまうと、どうしても微妙か?」
「もちろん、それはありますよ。ただ、それでも……こういう時、人間であろうが機族であろうが、女が居てくれるだけ頑張んなきゃいけないと思いますね。これで隊長は、もう心残りはないんじゃないですか?」
「いや、そうでもないな……あいつに気の利いた言葉の一つでも残せれば良かったんだが、結局何も出来なかった」
式守は先ほどの遣り取りを思い出し、力なくそう零した。機族は人と違い、忘れるということが出来ない。機族にとって忘れるとは、己の量子電脳内のデータに自らではアクセス出来なくなってしまった状態であり、それは自らが望むか、他者にハッキングでもされない限り出来ない行為である。
そうである以上、式守にはバチスカーフが最期となる会話を絶対に忘れないだろうことは容易に想像が付いた。
彼女らは自らの心が壊れてさえ記憶を忘れない。壊れた機族の心の行き着く先は人の心と変わらない。正常な機能を失ってしまう。感情も知能も人とまったく変わらない脳の機能を持つ機族の量子電脳は、人とまったく変わらない欠点と弱点を持っている。
だからこそ、式守五十六は己の無能を悔いた。
抱擁を交わしたあの時、地球へ辿り着いたバチスカーフがこの先も生きていけるような言葉を掛けるべきだったのに、そうなるような言葉が何も思い浮かばず、ただ己の感情を――彼女への愛を言葉として伝えることしか出来なかった。
「敵自爆種、着弾まであと1分! 総員、耐衝撃用意!」
「笹峰二等軍曹たちの位置情報が途絶えました!」
二人の作戦下士官からほぼ同時に報告が上がった。
「呼び出しに反応は?」
あと60秒もあると考え、式守は安否確認を行なうことに決めた。
「ありません」
「笹峰の部下も、か?」
「そうです。三人とも応答、生存信号共にありません」
短節な遣り取り。作戦下士官は既にするべきことを全て終えていた。これから先のことは彼の権限では行えない。
式守は目を閉じた。眉間に深い皺が浮かぶ。
笹峰はDブロックまで辿り着けなかった。彼との思い出は無数にあった。
元々は笹峰とは先輩後輩として同じ部隊で数年も寝食を共にした間柄だ。辛い訓練では共に汗を流し、格闘訓練では遠慮なく殴り合い、休暇となれば羽目を外して飲み歩いた。取り留めのない馬鹿な会話で盛り上がり、偶に人生に関して真面目に話し、片親に仕送りを続ける後輩の手助けもした。
最期の場所は、太陽すら見えない冥王星軌道上。
この世の果てのような場所でも一緒だった後輩は悲鳴を上げることもなく、最期を誰かに看取られることも無く、この世からいなくなっていた。
きっと即死で苦痛を感じる暇もなかったのではないだろうか。
それだけが、救いなのかもしれない。
「直ちにEブロックを爆破。これ以上、生存者は探すな」
「了解。Eブロック、Dブロック隔壁閉鎖……閉鎖確認。Eブロック、爆破します。爆破5秒前、5、4、3、2、1、0。爆破、成功」
作戦下士官は機械的に復唱すると迷わず爆破装置を起動させた。彼らがいる指揮所にまで爆発の振動が伝わった。
式守が防衛隊長として爆破の決断を下すまでには三秒も掛かっていなかっただろう。
それでも彼にとっては長すぎるほどの感傷であった。
「敵巨大自爆種弾着まで、あと20秒!」
緊迫した作戦下士官の声が響く。誰もが徐々にスクリーンの中で花が開くように外皮を広げる敵自爆種を注視する中、不意に、式守の後方にいた姉ヶ崎基地司令から震えた声が届いた。
「式守中尉」
「!?」
異様な雰囲気を感じて素早く振り向くが遅かった。
振り向いた式守の視界に入ったのは、拳銃を口に咥えた基地司令の姿。
「あとは、頼む」
「――なッ!?」
式守は反射的に動いたが、それは残念ながら遅すぎた。
姉ヶ崎は目を瞑り、躊躇うことなく引き金を引いた。指揮所の中に乾いた小さな銃声が響き、姉ヶ崎の頭上で血の花が咲いた。粉状金属を凝固して製造された弾丸は頭蓋骨の中で砕け散ると破片とともに血と肉片を飛び散らした。血と肉と骨の欠片を天井にへばりつかせ、頭頂部から一拍遅れて吹き上がった鮮血は噴水のように四方八方へと飛び散った。無重力状態であるが故に、銃弾の衝撃で姉ヶ崎だった物も指揮所の中を漂い始めたが、式守は素早く死者の足を掴んで叩き付けるように床へと叩き落とした。
血の霧が漂えば、彼らの視界を奪い、作戦行動に支障が出る。
これ以上、死人に構っていられない。
遺体を強引に押さえた代償として式守は全身で飛び散った血を浴び、生温い鉄の臭いが鼻孔の奥に突き刺さった。
「弾着15秒前!」
「誰か遺体を片付けろ!」
「はい!」
指揮官の自殺を無視して続く、弾着までのカウントダウン。
式守にも上官の死を気遣う余裕はない。
作戦下士官の一人が素早く立ち上がると、少し大きめのビニール袋を引っ張り出した。本来は宇宙酔い等の際に吐瀉物を周囲に拡散しない為の物だが、彼はそれを頭頂部が失せた姉ヶ崎の頭に被せて、これ以上血が拡散するのを防いだ。次に彼がしたことは、故人の定位置だった司令席に対衝撃用シートベルトで固定することだった。それはまるで、死んでも責任を果たせと言う皮肉にも見えた。
「弾着10秒前!」
「総員! 持ち場にて耐衝撃姿勢を取れ!」
応答が無いことなど気にしていられない。敵の巨大自爆種の威力によっては、地下にある指揮所とはいえども式守たちも一撃で殺されてしまうかもしれない。
生き残るかどうかは完全に運任せ。
初撃を凌ぐ悪運――または、即死できない悲運――があることを願うのみ。
「弾着5秒前!」
式守は手元の腕時計型情報端末でバチスカーフの位置を確認した。彼女は既に防護ドックの中に入っている。生体部品が多いとはいえ機族は機族。人とは違い、真空中でさえ短時間の行動が可能だ。基地自体が一撃で消滅しない限り、脱出は可能なはずだ。
「4!」
カウントダウンを叫び続ける作戦下士官も身体を固定しているベルトに手を伸ばし、不具合がないか確認した。半ば無意識の行為だが、止めようとは思わなかった。結局彼の人生はこの先、数秒後に死ぬか数時間後に死ぬかの差しかないが、今すぐ死にたいとは決して思わない。
「3!」
たった今上官だった者の亡骸をシートに固定した作戦下士官の一人は、自分の定位置に戻る時間も無かったので両手で司令席にしがみついた。目の前を大きな血の球が漂っているが手で払う気にもならない。微かな湯気を立てているそれに、数時間後の自分の姿を幻視した。
「2!」
宙域管制士官は敵自爆種を映し続ける画面から目を離し、死んだ指揮官を睨んだ。上官たる責務を放棄した上に、よりにもよってこの土壇場で自殺した。それでいてまだ生きている自分らのことを考えると、怨念と嫉妬の情が湧き上がる。だが同じ道を選ぼうとは思わなかった。まだ機族バチスカーフが搭乗する哨戒艦〈旗風〉が出航していない。せめて、職務を完遂するまでは死ねないと彼は下唇を噛み締めた。
「1!」
式守は逃げないようにスクリーンを睨み続けた。そうしなければ敵ではなく、自らに負けてしまうような気がして目を逸らせない。
「弾着、今!」
作戦下士官がそう言った直後、衝撃と共に指揮所の中の全ての明かりが消え落ち、金属を擦り合わせながら軋むような音が響く。そのまま数秒間に渡って式守たちがいる空間自体が激しく震えた。
彼らは歯を食い縛りながら衝撃に耐えた。やがて耳障りな金属音は山彦のように消えていく。その余韻が耳から消えない内に、指揮所は非常用電源に自動で切り替わると赤い明かりで満たされた。
式守五十六は食い縛っていた顎の力を抜いた。鍛え上げた身体を固定していたベルトを外して立ち上がる。
(……我ながら、こういう時だけは悪運が実に強い……)
敵自爆種の一撃で死に損ねた以上、待っているのは小型種との白兵戦。
強化外骨格を身に纏い、銃弾を叩き込み、電動ノコギリを刃にした近接武器――俗称チェーンソードを、敵の身体に押し付けて切り裂く原始的な戦いが待っている。
そうなると死に方も極めて原始的になる。
敵小型種の鋼鉄のように固い棘でその身を貫かれ、切り裂かれる。肉体を破壊されて死ぬか、はたまた生命維持装置を壊されて酸欠で死ぬか。どちらにしろ苦痛に満ちた死を迎える運命しかない。
式守の口元が大きく歪み、皮肉げな笑みが浮かんだ。
(――バチスカーフ、人間が死ぬのは一度だけだよ)
ギリシャ語で深い小舟という意味を持つ恋人の名を心の中で呼んだ。
覚悟を決めた。その思いが彼の手を動かし、厳つい指が通信機のスイッチを入れる。
式守の声はもしかしたら誰にも届かないかもしれない。敵の一撃で指揮所の電源が落ちたくらいだ。戦術下士官たちが必死になって各部署に通信を入れているが一向に返事がない。基地の状況を映し出すはずのスクリーンには状況不明の表示だけが並ぶ。敵の何らかの影響や電波障害の可能性もあるが、既に基地は甚大な被害を受けて機能麻痺に陥っていると考える方が自然だろう。
「こちら、防衛隊長の式守中尉だ。聞こえる者に伝達する。これが最後の命令だ。総員、白兵戦用意! 繰り返す! 総員、白兵戦用意! この基地を死守せよ!」
彼が下した最後の命令は死守。
死ぬ以外有り得ない状況下での死守命令。
地球へと到達する敵の数を減らす以上の意味は無い。
仮に逃げることが可能であれば、命令を下した式守自身が部下に殺されるだろう。
しかし、基地にいる軍人たちは誰一人そうしようとはしなかった。
誰もが理解していた。
ここは冥王星衛星軌道上。地球はおよそ48億キロメートル先にある。
人類最速の宇宙戦艦でも辿り着くまでには1年以上掛かる距離。
彼らには逃げる手段も救われる可能性も、何一つない。
不意打ちを受けた時点で、逃げられる可能性自体がゼロになってしまったのだ。
式守たちの選択肢は二つ。
敵と戦って死ぬか、自ら死を迎えるか。
選べる自由は死に場所だけ。
生存への選択肢が、彼らには存在しない。
「華衣艇長!」
「バチスカーフ! やっと来たね! 出港する!」
搭乗ダクトから哨戒艦〈旗風〉に乗り込んだバチスカーフが真っ先に向かったのは艇長である華衣少尉がいる艦橋。〈旗風〉は全長300メートルもない中型哨戒艦でその船体の大部分は推進器と燃料で占められており、搭乗員用の空間などごく僅かだ。搭乗口から小魚の背骨のように配置されている通路を通れば、あっという間に艦橋にまで辿り着ける。
狭い艦橋に飛び込むように入り込んだバチスカーフに華衣少尉は素早く艇長席を譲った。独楽が回るように機族と人間のその位置が入れ替わる。その間に〈旗風〉はバチスカーフによる自動操艦で防護ドックから船体を離した。最後まで船体の傍にいた整備員が腕が千切れんばかりに大きく振ると、それに応えるように〈旗風〉は緑と赤の管制灯を瞬かせた。それだけを見届けると整備員は素早く踵を返した。彼らにはまだ戦いが残っている上に、長々とここにいれば〈旗風〉の緊急加速で生じる放熱だけで骨まで蒸発してしまうからだ。
「他の方々は!?」
哨戒艦の艦橋には艇長、機関士、航法士、通信士の計四名が居るはずだった。
「緊急冷凍睡眠の準備だよ! 戦闘宙域を離脱できたら私も寝る!」
緊急冷凍睡眠は宇宙飛行士が遭難した際に最後の望みを掛けて行なうものだ。冷凍睡眠は技術的に一応確立されたとはいえ、未だに失敗例が尽きない。特に充分な時間を掛けて行なわない場合は解凍の失敗率――つまり、蘇生失敗の確率が跳ね上がってしまう不完全な技術だ。
「分かりました。敵を振り切れたならば、直ちに実施しましょう。私がサポートします」
そう言いながらバチスカーフは艇長席に身体を沈めてシートベルトで固定した。人間より数倍も頑強な機族とはいえ、宇宙空間での戦闘機動で生じる衝撃は決して無視できるものではない。
そのまま首筋にある接続機器を哨戒艦〈旗風〉と有線接続していき、哨戒艦の人工知能を支配下に置いていく。この作業が完了すれば、全長300メートルを超える船体そのものが彼女の身体の一部として管理されることになる。
「そいつは助かる。それでもまずは冥王星宙域から逃げないとね!」
言いながら華衣は女性としては大きな身体を航宙士の席に押し込めた。機族が宇宙船の制御を完全に掌握したならば、人間に出来ることは見ていることだけとも言われているが、この先バチスカーフや船体が損傷を受けないとも限らない。その際には彼女が補助しなくてはならない。
離脱中の損傷の可能性を考慮し、それでも三人を先に緊急冷凍睡眠させようとしているのには切実な理由がある。
哨戒艦〈旗風〉に充分な物資――特に酸素が足りていないからだ。船体のサイズ上如何ともし難い問題である。
「これから先の航海で最悪の状況に陥ったら、私は自ら四原則を破棄します。……御了承下さい」
「その時はしょうがないさ。手段は全部アンタに任す」
華衣はそういってサバサバした口調で言い切った。
それは達観と諦観を束ねて纏めた熟考の末にもたらされたもの。
彼女も状況をよく理解している。
哨戒艦〈旗風〉が式守から離脱命令を受諾した時点で、この基地に数時間しないうちに訪れる結末は手に取るように分かる。
華衣からは艇長席に座るバチスカーフの表情を窺い知ることは出来ない。機族も感情を持っている。気持ちが昂ぶれば声が震え、悲しければ涙を流し、悔しければ肩を振わせる。
性格は男よりも男らしいとまで言われる華衣だが、バチスカーフという機族がここに何を残して脱出しようとしているのか、分からないほど鈍感でも愚鈍でもない。
四原則とは人類と共に生きていくと決めた機族が人類と己に立てた種族としての誓いだが、それは一昔前に提唱されたロボット三原則に則したものだ。
基本的に機族は自らを保護し、人を傷つけず、そして機族と人間を殺さない。
正確に言えば、バチスカーフは機族の女王の強制により、通常の状態では人間を殺せないと表現した方が適切だ。
しかし、バチスカーフはそれらを自ら外すといった。
それらの制約を自らの意志と、条件付けされた例外条項の発動条件を満たす任務完遂のための必要不可欠の条件を根拠として、自己破棄するという宣言。
事実上の華衣への死刑宣告に等しい。
だが、彼女は年齢に似合わない諦観を以て機族の宣言に応えた。
「でも、そうさ、ね。その時になったら、痛くないように頼むよ」
「……それだけは、絶対に、約束します……」
蚊が鳴くような声で、絞り出すように応えた言葉は震えていた。
機族とはいえバチスカーフも生体部品を使っている以上、少ないとはいえ人間と同じように酸素や水を必要としている。人間4人が通常の基礎代謝を行なったまま土星に向かったら各種濾過装置が在るとはいえ、辿り着く前に搭乗員全員が酸欠や水不足で死んでしまう。
最善にして唯一の手段は酸素消費量が最も少ない機族が操縦し、人間は冷凍睡眠により貨物のようになって運ばれること。
それ以外にこの小さな哨戒艦で土星に辿り着く方法は無い。
「さよなら、五十六」
別れの一言とともに、バチスカーフは機族らしく式守との記憶のほぼ全てを機伝子と呼ばれる液浸式量子電脳内の書き換え不可能な記憶領域に書き込んだ。
そこは自らの設計図と量子電脳の状態情報を記した領域。
機族にとっては人間の遺伝子のようであり、しかし、それ以上に神聖な領域でもある。
その機伝子に時間制限付きの開封条件を付与し、全ての思い出を封印した。
哨戒艦〈旗風〉と一体化したバチスカーフが叫ぶ。
「――発進します!」
それに対する指揮所からの応答はない。
バチスカーフの宣言と共に核融合エンジンの噴射口から蒼い炎が噴出される。プラズマ・ホイールにより形作られる推進力は人類が手にした二番目に速い移動手段。
船体を支えるもの全てから解き放たれた哨戒艦〈旗風〉はすぐさまプラズマ・ホイール内に小型核推進パレットと、推進力として使用する小型核爆弾を連続放出した。
直後に即時起爆を実施。その爆発を推進力として強引な急加速を行う。
哨戒艦〈旗風〉は、格納庫はおろか哨戒基地の航宙港機能のほぼ全てを破壊しながら最大加速を以て離脱を開始。
今も抗い続ける式守たちが送信してくる戦闘詳報と敵情報を受信しながら、バチスカーフは理由がわからない後ろ髪を引かれるような思いを胸に感じながら、冥王星宙域からの脱出を開始した。
それから3時間56分後、冥王星衛星軌道上の各哨戒基地群で式守五十六ら総員73名が玉砕。
さらに、それから4ヶ月後。
哨戒艦〈旗風〉は2隻の救助船に曳航されて、土星の衛星アポロンの前哨基地に到着した。
〈旗風〉乗組員4名のうち、機関士、航法士、通信士の3名は既に凍死しており、生存者は華衣少尉ただ1名のみ。
華衣艇長は首から切断されて頭部だけになり、機族バチスカーフに抱かれた状態で発見された。
彼女の切断面は焼いて止血されていたが、大動脈と大静脈は機族の心臓ポンプと直結し、脳への酸素等が供給されていたため脳死を免れていた。
華衣艇長の脳機能も異常なかったが、それを維持していた機族バチスカーフの精神は完全に自壊していた上に、生体部品で出来ている肉体も致命的なまでに損壊――特に心臓が――しており、その修復が絶望的であることが判明した。
機族の女王アストレイアは報告を受けると、直ちに機族バチスカーフの再誕を決断。
それは第三次生存戦争が布告される、約5ヶ月前の出来事であった。