金曜日、夜11時30分 ~かみ合わない電話から、今夜何かが起こる・・・
メールもスマホもなかった頃、電話は今とは比べものにならないくらい重要なコミュニケーション手段だった。
しかし、顔が見えずお互いの状況も分からない中での言葉のやりとりは、時として思わぬすれ違い生むこともあった。
今晩も「僕」は、あまり深く考えることなく彼女に電話をしてみたのだが・・・
トゥルルルルーー、トゥルルルルー、ガシャッ、
「あ、もしもし。」
「コチラハ、XXXデス。タダイマ、ルスニシテオリマス。ピーッ、トイウハッシンオンガナッタラ、ゴデンゴンヲオネガイシマス。」
ピーッ。
「もしもし、僕だけど。こんな時間に留守ってことはないだろ。いるんだったら出てくれないか。是非、今日話したいことがあるんだけど……。」
…………、プツッ。
「…… もしもし。」
「なんだ、いるんじゃないか。」
「なんだはないでしょ。最近、夜、変な電話がかかってくるのよ。それに、これからシャワー浴びようと思ってたのよ。」
「またそれか。せっかく電話してるんだから、少しは付き合ってくれたっていいんじゃないのか。」
「せっかくって、自分の都合ばっかし。電話ってそうなのよね。かける方はいいけど、受ける方はいつだって不意打ちよ。」
「そんな言い方あるかよ。やっと久し振りにつながったんじゃないか。大体、ここんとこ、どうしてたんだ。」
「そんなの、いちいち詮索しないでよ。仕事だって忙しいし、お付き合いだって、それなりにあるのよ。」
「十一時過ぎまでか。ま、いいや。それより、明日会えないか。」
「また、唐突ね。」
「唐突が悪かったらどうすればいいのさ。一週間前までに文書で申請しろとでも言うのかい。」
「そうね、でも、承認が下りるのは当日の朝よ。」
「何を勝手なこと言ってるんだ。」
「心の準備だって、その日のコンディションだってあるでしょ。」
「今から調整してくれよ。とにかく明日だ。」
「そういう強引なのが嫌なのよ。明日は、きっと疲れて寝てるわ。」
「少しは強引にしないと、君は寝たきり老人みたいになっちゃうぞ。」
「大きなお世話よ。それより用事は何よ。」
「だから、明日会おうって誘ってるじゃないか。」
「明日の用事よ。」
「君、何か虫の居所でも悪いのか。デートの申し込みをするのに用事はなんだってのはごあいさつだな。」
「虫なんていないわよ。あなたのほかには。」
「やれやれ、困ったお嬢さんだ。でも、明日は確かに用事がある。相談したいことがあるんだ。」
「珍しいわね。でも、私は心理学のカウンセラーじゃないわ。」
「だれも人生相談しようなんて考えちゃいないよ。」
「じゃ、なによ。」
「だから、それは明日会ったときにゆっくりと……。」
「もう、その手にはのらないわ。」
「え?」
「その手は喰いませんって言ってるの。いつだったかもそうじゃない。あなたが、『どうしても君に見せたいものがある。』とか何とか言うから、出掛けて行ってみたら、どっかのゲームセンターで取ったとかいうちっちゃな縫いぐるみ。」
「あれは、そう、たまにはそういう遊び心があったっていいじゃないか。それに君だって、結構可愛いって言ってたし。」
「でも、嘘は嘘よ。」
「嘘だなんて大袈裟なものじゃないだろ。大体、そんなにいつまでも根に持つようなことかよ。」
「ただね、あなたの言う相談の中身も、たいしたことないんじゃないかって思ってるだけよ。」
「やっぱり何かあったのか。今日の君、何か変だよ。」
「図星だから、話の角度を変えてきたのね。」
「君は、そんなに僕の言うことが信じられないのか。」
「疲れてるだけよ。」
「どうしたんだ。」
「相談はいいのね、切るわよ。」
「勝手にしろよ。」
「ほうら、やっぱりその程度の用件だった。」
「ちょっとまてよ、これだけは言っておく。今日の僕は真剣だ。明日、君が時間を作らないのは君の勝手だけれど、僕としては、どうしても君に聞いてほしいことなんだ。」
「じゃ、今、言えば。」
「………。」
「どうしたのよ。」
「………。いや、会って話したい。」
「なによ、また勿体ぶっちゃって。」
「今日の君は、僕の話をまともに聞こうという気が、全くないじゃないか。」
「そうかしら。ただ、今は明日の約束をしたくないだけよ。悪いけど、本当に疲れてるの。この体調だと、もし今日約束をして、明日目を覚ましたら、心から後悔すると思うのよ。そうしたら、あなたにもっと迷惑が掛かるわ。そんな約束をさせたあなたを恨んでしまうかもしれない。そうでしょ?」
「よく分からない理屈だなあ。」
「とにかく、そんなに大事で急を要する相談なら、今してちょうだい。あと十五分なら聞くわ。でなかったら、来週まで待って。」
「分かったよ。しかし、電話だと、どこからどう話そうか……。」
「会って話すときだって一緒でしょ。」
「まあね。いや、要するにね、僕の部屋の冷蔵庫が壊れちゃったんだよ。ほら、君もうちにきたときに見て知ってると思うけど、あのちっちゃいワンドアのやつだよ。実は学生の頃からずっと使ってたんだけどね、もう十年にもなるのかな、さすがに、どこか切れちゃったんだろうな。全然冷えなくなっちゃったんだよ。それで、きのう帰ってきたらもうただの箱でね。いや、風通しが悪い分、ただの箱より始末が悪いかもしれない。氷が解けだしてびしょびしょだし、チーズだかなんか、変な匂いがするし……。」
「その話のどこが大事な相談なのよ。」
「まあ待ってくれよ。でね、もうあいつも古いし、この際、新しいのを買おうかと思ってね。」
「そりゃ、そうでしょうね。」
「うん。それで問題は、どんな冷蔵庫にしようかと……。」
「それがあなたな相談なの?」
「でもさ、冷蔵庫っていったって、いろいろあるんだよ。」
「あたりまえよ。」
「今日、仕事で出掛けたついでに駅のとこのデパートによってさ、少し見てみたんだよ。」
「あら、優雅なご身分だこと。」
「そしたらさ、ツードアのやつはもちろんだけど、引き出し式でいろいろ分かれてるのとか、そうそう、ドアが右からも左からも開くやつまであるんだよ。」
「知ってるわよ。」
「で、どんなのがいいかなって思ってね……。」
「そんな物、自分で決めなさいよ。大体ねえ、あなたは一緒に喫茶店に行っても、私がケーキ決めるまで待ってて、『僕も同じものください。』だなんて。あきれてものも言えなかったわ。だから、冷蔵庫なんかで途方に暮れちゃってるわけ?」
「そういうことじゃないんだ。思ったんだけど、冷蔵庫なんて、そうちょくちょく買い替えるもんじゃないだろ。それに、考えて見れば、僕たちだって、もうかれこれ三年半くらいになるし……。」
「あなた、なにいってるのよ。」
「独り者用と、なんていうのかな、そう、家庭用とでは、容量からして全然違ってくるだろ。少し先のことも見越して考えないといけないかなって思ったんだ。ついてはさ、その、要するに、君の好みも聞いてみようかと……。」
「あきれたわ。それ、プロポーズしてるの?」
「いや、もちろん、プロポーズそのものではない。それは、まあ、その、しかるべきときに……。」
「何が『しかるべきとき』よ。」
「ただね、これから冷蔵庫を買うにあたっては、近い将来どんな暮らしをしていくことになるかのイメージがなくっちゃ決まらないし、そうなってくるとさ、君のことだって避けて通れないってことはわかってくれるだろ。」
「つまり、冷蔵庫を買い替えなきゃいけないと思ったら、結婚のことを考え始めたって意味?」
「うん。まあ、そういうことになるのかな。」
「失礼な話ね。」
「え?」
「だってそうでしょ。もし、あのボロの冷蔵庫が壊れなくて、まだぴんぴんしてたら、私のことなんか考えることもなかったんだ。」
「そんなことはない。いつだって、君のことや、結婚のことだって、頭からはなれたことはないよ。そりゃ、つきあい始めた頃は、毎週末に会って他愛のない話しをしているだけで十分だったけど、そうはいったってもうお互いにいい年なんだし……。」
「悪かったわね。」
「そうじゃなくて、君だって同じだと思うけど、街を歩いててアベックを見ても小さな子供を連れた夫婦を見ても、テレビのドラマを見てたって、いつも君と僕にあてはめて考え始めてしまうくらいなんだ。」
「だったら、もっとストレートにそう言えば? 冷蔵庫なんて関係ないじゃない。」
「それはそのとおりだ。でも、ふだんそういうことを考えている、ということと、それじゃあ将来について真剣に語り合おう、なんて切り出すことの間には、とてつもなく大きなギャップがある。君だって、僕がそんなことを言い出したりしようものなら、それこそ『唐突だ』っていってまともには取り合わないんじゃないのか。」
「そんなに決めつけないでよ。私だってそれなりに考えているわ。だから、あなたからいつそういう話が出てくるのか、待ってなかったわけじゃないわ。でもね、冷蔵庫の話にかこつけて、しかも電話でなんて思ってもみなかったわ。最低よ。不愉快だわ。」
「だから、明日会って話そうっていっただろ。電話でしてくれっていったのは君のほうだよ。」
「そりゃそうよ、なんの話か分からないもの。でも、こんなことなら、あなたは来週まで待つべきだったわ。」
「だって、それまでの間、冷蔵庫はどうするんだよ。これから夏に向かって、無きゃこまるだろ。明日の土曜日にでも買いに行って、日曜日に配達してもらわないと、ふだんの昼間はいないんだし……。」
「あなた、一体何考えてるのよ。要するに冷蔵庫さえ買えればいいの? そのための相談がそんなに簡単に終わるわけ? 信じられないわよ。あなたの言うとおり、明日会ったとしましょうか。で、『どんな冷蔵庫がいいの?』ってきかれて、『そうね、冷凍室は下にあって、お野菜が一杯入って、色は薄いグリーンかしら』なんて答えて、二人のための冷蔵庫がめでたく買えるわけ? 馬鹿にしているわ。それじゃ、まるで、結婚してくださいっていうプロポーズに対して、その場での即答を求めてるわけでしょ。しかも、自分は絶対に傷つかない場所にいて。」
「そんな変なとり方をしないでくれよ。」
「だって、どこが違うのよ。」
「わかったよ。確かに、なんだか観測気球をあげたみたいなことになって、それが気に障ったのなら、あやまるよ。でも、言いたかったのはさ、つまり、その、結婚ていうのは、要するに、それまではそれぞれ別々の生活をしてきた二人が、ある日を境にして一緒に暮らし始めることだろ。これは、とくに、独身生活をもう結構長くやってきた僕たちにとっては、なかなか大変なことだと思うし、いろいろと戸惑うことも多いと思うんだ。だから、どう言ったらいいかなあ、そう、オペラの前奏曲のようにね、本番の幕が開く前に、ある程度二人の暮らしのイメージを描いてみる、できるだけその気になってみる、そういうステップが必要だと思うんだよ。」
「………。」
「そうやってね、お互いの持っているイメージを少しずつ擦り合わせて、同時にね、気持ちの準備をしておけば、たぶん、うまく入っていけるんじゃないかって……。」
「どこかに書いてあったわけ?」
「そんなんじゃないよ、だからね、僕が冷蔵庫の話をわざわざしたのも、要はそういうことで、もしかしたら君も、それをきっかけして、二人の新しい生活について、なにかを考えてくれないかな、って思ったわけなんだ。」
「なんで、それが冷蔵庫なのよ。」
「だからさ、例えば、二人が休みの土曜日、一緒に近くのスーパーマーケットに、買い物に行くんだ。僕は大きなワゴンを持ってきて、二人してほしいものをいれていくんだ。」
「バカみたい。」
「君は、まず野菜を選ぶ。それも、季節の新鮮なやつ。トマトでもブロッコリーでもいい。僕はグリーンアスパラを取ってきて、横から滑り込ませる。それからお肉だ。君は脂身の少ないロース肉を選ぶ。魚は、翌日も食べられるように煮付けにできるものを買おう。でも、美味しそうなお刺身があったら、それもだ。」
「それで?」
「それから、冷凍食品を少し仕入れて、紅茶の葉を買って、そう、君の好きなハーブティーも入れておこう。最後は卵とパンだ。」
「牛乳はどうするのよ。」
「ごめん、忘れてた。それから、二人で袋に詰めて、少し遠回りをして、公園の花や、ベンチで昼寝をしている猫や、近所の子供達が遊んでいるところなんかを見ながら帰ってくる。ケーキ屋さんによって、君の好きなケーキを買ってもいい。そうして、短い散歩が終わって部屋に戻ると、君は冷蔵庫のドアを開けて、まず冷凍食品を整理して、あとは肉や魚なんかもきれいにその中に納める。食べるものが一杯に詰まった冷蔵庫は、見ているだけで、何か、こう、楽しい気分になってくる。そんな生活のひとこまを、君も思い浮かべてくれるんじゃないか、そんな風に思ったわけなんだ。」
「虫のいい話ね。でもだめよ、お休みの日は、ゆっくり寝てたいわ。」
「そう、やっぱり、まずそこから始めなければいけなかった。休みの日の朝、君は疲れてまだベッドでまどろんでいるとする。僕は、そう、モーツァルトのピアノを控え目のボリュームで流す。そして、冷蔵庫からよく冷えたヨーグルトを出してきて、スプーンで一口すくって、君にたべさせる。」
「私、赤ちゃんじゃないわ。」
「グレープフルーツジュースでもいい。そして、君が少し目を覚ましかけたら、僕は珈琲をわかす。もちろん、豆は君の好きなマイルドなやつ。そして、フランスパンで朝食だ。ジャムはコケモモでも木イチゴでも……。」
「あなた、詩人になれるわ。」
「現実感がないっていうのか?」
「いつも、そうやって、あなたが朝ごはんの用意をしてくれるの?」
「今のは、休日の話だ。土・日の、そう、十時半頃の話かな。その代わり、ウィークデーは、君が作るんだよ。」
「なるほどね。でも、せっかくの休日だったら、もっとベッドにいたいわ。体がとろけていくくらいに……。」
「だから、まだ起きたわけじゃない。そもそも南向きのリビングをベッドルームにするんだ。」
「お客さんがきたら?」
「それはそのときに考える。とにかく、ふだんの暮らしの中で一番幸せな気分になれるのは休みの日の朝だろう。だから、その時間を第一に考える。その時間を、最高の状態で迎えられるようにする。北向きの狭いベッドルームじゃ、目が覚めたら起きるだけだ。」
「そりゃそうだけど……。」
「だから、広いリビングにベッドを置いて、朝は、そこでさっきの食事をする。もしお望みなら、そのままもう一眠りしてもいい。」
「怠惰な生活ね。」
「それが贅沢だろ。君の理想でもあるはずだ。」
「窓の外には、鳥の声が聞こえるのかしら。」
「聞こえるかもしれないね。でも、それは住む場所による。そういうことも、これから一つずつ決めていけばいい。」
「でも、あなたは、どうせそんなにゆっくりは寝かせといてくれないわ。」
「そんなことはない。じゃあ、そう、朝食の支度ができたところでカーテンを開けるけど、半分だけにする。」
「私のほうだけ、閉まってるの?」
「そのほうがよければね。」
「じゃあ、そうさせてもらうわ。」
「そう、その調子だ。そして、お昼になったら……」
「待って。カーテンは、何色?」
「そうだな、薄いグリーンかな。」
「そんなのいやよ。」
「え?」
「グリーンなんてダメ。せっかくの朝の光が、不気味な色になってしまうわ。わたしの顔だって、血の気が失せたような色になるのよ。ダメ、絶対にダメよ。」
「ちょっと待ってくれよ。そんなにむきにならなくたっていいじゃないか。」
「だって、どうしてグリーンなのよ。」
「嫌いじゃないだろ? それに、さっき君は、冷蔵庫は薄いグリーンがいいって言ってたし……。」
「そんなこと言ったかしら。でも、それにしたって、冷蔵庫とカーテンは一緒じゃないわ。どうしてそう無神経なのよ。」
「じゃあ、君は何色がいいんだ?」
「知らないわよ。」
「そうか、朝の光の色を大切にするんだったら、やっぱり白かなあ。」
「やめてよ。病院じゃあるまいし。」
「一体何が気にさわったんだ? もういいよ。分かった。カーテンは君にまかせるから、好きなのを選んでくれたらいい。」
「そういう言い方が一番嫌いなのよ。あなたはほんとに私の選んだカーテンで満足できるの? 赤でも黄色でも……。あなたは、我慢して『いい色だね』なんて言って済むかもしれないわ。でも、あなたの好みを押し殺させてまで私はそんなことしたくないの。そうよ。やっぱり無理なんだわ。私たちはどこかズレているのよ。あなたの言うとおりだわ、他人同士なんだから、一緒にやってけるわけはないのよ。」
「そんなこと、言ってやしないじゃないか。話がどこまで一気に飛んでいくんだ?」
「ううん。私は、あなたがそうやってすこしずつ自分を抑えながら私のご機嫌をとっているのが痛いほどに分かるのよ。それはね、私にとっても、ものすごく負担になるのよ。勝手なこというなよって思うでしょうけど、仕方がないのよ。ほら、前、ディズニーランドにでかけたわね。覚えてる? あなたが初めてだっていってた時よ。あの時、あなたはスペースマウンテンに乗りたかったの。そりゃ、当然よね、ディズニーランドに行ったんだから。でも、私はどうしても怖くて、そのつもりになれなかったわ。『ここで待っててあげるからあなた、乗ってくれば?』ってわたしは言ったわ。でもあなたは、『いいよ、そんなにまでして乗らなくっても。じゃあ、つぎは何にしようか?』なんて言ってた。」
「どれでいいじゃないか、そんなこと全然気にしてないよ。」
「そういうことじゃないのよ。本当は私が一緒に乗ってあげるのがいいに決まってるから、私だって、なんとかそうしようと思ったわ。でも、それだけでなんだか足がすくんでしまうの。」
「だから、無理することないんだよ。僕だって、そんなに、どうしてもスペースマウンテンに乗りたかったわけじゃない。子供じゃああるまいし……。そうだろ?」
「ディズニーランドはどうでもいいのよ。ただ、その時にね、あなたには私よりもっとふさわしい人が絶対にいる、そう思ったことだけは間違いないわ。」
「唐突だな。」
「でも、紛れもない事実よ。」
「そうだとしても、それは、僕が心配すればいいことじゃないか。僕はそうは思わない。それで十分じゃないのか?」
「そうはいかないのよ。あなたは、そんな風に、元へ戻って見つめ直すことはできないのよ。それができる人だったら、私も心配しないし、もっとのんきに生きるわ。」
「わからないな。」
「どうしてよ。なんだか歯がゆいのよ。私たち、これでいいのかしらって。今までは、楽しかったわ。でも、だからといって、このまま続けていくことがお互いのために最良の選択だって保証は、どこにもないのよ。このままの関係を保っていく義務だってないわ。」
「ほかに、好きな人ができたのか?」
「そんなんじゃないわよ。あなたは私の言ってることが分からないの? そういう不安にとらわれることはないの?」
「だって、僕は……。」
「なによ。真剣に考えてないんでしょ。」
「そんな……。」
「じゃあ、あなたは、本当はいったいどうしたいのよ。スペースマウンテンには乗りたかったんでしょ、カーテンは何色にしたいのよ。冷蔵庫なんて、決められるわけないわよね。そもそも、あなたはいったいどういう人生を生きたいのよ。」
「………。」
「……。」
「………。」
「どうしたのよ。何か言いなさいよ………。」
「………。」
「ま、いきなりこんなこと言っても、無理よね。そんなこと、いつも突き詰めて考えてるわけないものね。私だって、偉そうなことは言えない。同じこと言われたら、きっと面食らうと思うわよ。でも、ついでだから言わせてもらうわ。あなたはたしかに優しいし、いろいろと気も使ってくれる。会社に行ったら行ったで、それなりの仕事をしているんだとは思うわよ。だけどね、本当に何を考えているんだか、分からなくなるときがあるのよ。自分を殺すのは、そりゃあ必要なときもあるでしょうけど、それだけでは、そばにいる人間は時々不安になるのよ。これでいいのかしらって。」
「………。」
「ちょっと言い過ぎてるかしら。こんなこと、言われたこともないでしょうからね。傷つけてたらごめんなさいね。ま、こんな言いかたしても全然傷ついてなかったら、そのほうが心配だけど……。」
「ずいぶんな言いかただな。」
「だから、ごめんなさいって言ってるじゃない。」
「君は、本当にそんな風に思っているのか?」
「なによ。」
「そんなに、僕の考えていることが分からないのか? まあ、それは、僕にも責任があるのかも知れない。残念なことだけど……、それは、仕方がない。でも、そんな風に、今まで積み重ねて来た時間を白紙にして考えることで、なにかいいことがあるのか。」
「どうして、そう考えてみないのよ。」
「そう、どう言ったらいいのかなあ。つまりね、出会った日から今日まで、君と僕は、お互いに同じものを見て、喜んだり悲しんだり、腹を立てたり、善かれ悪しかれ、いろいろ影響を与えたり助け合ったり、全部ひっくるめて言えば、愛し合いながら、とりあえず一緒に生きてきたわけだよね。」
「愛し合っただなんて、軽々しく言わないでよ。」
「違うのか?」
「あくまでも、お互いの、経験した部分の、ごく一部同士が重なり合っただけよ。」
「まあ、それでもいい。にもかかわらず、その事実はとても重い。なぜなら、それは、消しゴムかなんかで消すことができないのはもちろんだけど、もっと大事なのは、その時点では幾らでもほかの選択肢があったはずだったにもかかわらず、その時その時に、お互いにそれを選びとって、そうして積み上げてきたものだからだ。」
「………。」
「君にも、そこのところをよく考えてほしい。始めてデートしたときのこと、クリスマス、誕生日、旅行、何でもいい。そのときに、そのような過ごし方をしようと思って、実際にそれを実行に移してきたのは、ほかでもない、君であり僕だ。その時々では、それなりに迷ったり悩んだりしながら、そうやって積み重ねて来た延長上に、今の君や僕が居るし、そういうふうにして得た経験が、今のお互いの人格の一部分を形作っているともいえる。」
「………。」
「そして、僕はそれを決して後悔していない。やり直そうとも思わない。もしその日々がもう一度巡ってくるんだったら、やっぱり君と出会いたいと思う。もう一度ディズニーランドに行くんだったら、やっぱり君と行きたいと思う。たとえスペースマウンテンには乗れなくっても。それが、僕の選択だ。僕が君のことや将来のことを考える場合の、すべての出発点だ。そして、できることなら、君にも、そういう風に考えてほしい。」
「………。」
「……。」
「………。」
「確かに、僕は、君の前では自分を抑えていたことも多かったかもしれない。だけど、それは一つには、君という人に出会ったことによって、自分ではないもう一つの存在を通して僕の中に訪れて来た変化を大事にしたかったからだ。大袈裟な言い方になるかもしれないけれど、例えば、喫茶店にいって君が頼むケーキと同じ物を僕も注文する。そのことによって、単にその新しいケーキを知るだけではなく、君の好みの味も体験できて、それは、要するに、君という人間をより深く知る一つの方法であり、同時に、僕の人生の経験の幅を広げる手段でもあるんだ。もし、僕は僕で、今までどおりブラック珈琲だけ飲んでいたんでは、そういう核融合のような発展は起こり得ない。ただ、一方通行でもいけないから、同じ意味で、君を僕の好きな土地への旅に連れて行ったりもした。君がどのくらい楽しかったかはよくわからないが、そのことはそれなりに君の内面に何かを残したはずだ。」
「………。」
「もう一つの理由は、これは言うまでもないことかもしれないけど、でもやっぱり実際に口に出して言わなければ、気持ちというのは目に見えない分きちんと伝わらずに誤解も生むことになるから、やっぱりこの際言っておく。ただし、言い方は非常に難しい。つまり、それは、君とこれからもずっと感動を共有したい、共通の思い出を作って行きたい、僕の人生に君という人がこれからもずっと光を与え続けてほしい、そう思っている。」
「………。」
「なぜそうであるのか、という説明は要らないと思う。人を好きになるということはそういうことなんだ。その点は、君も分かってくれると信じている。そして、その大きな目的の前では、それ以外のことによって生ずる小さな諍いなど、本当にとるに足らないものに思えてくる。オペラでもシンフォニーでもいい、大きな曲を演奏しようとしている指揮者が、細部の仕上げにこだわっていると、音楽の持つ全体像、迫力がいつのまにか消えていってしまうものだ。そういう、なにか大いなるものが、君と僕とを引き合わせた。」
「………。」
「よく言われることではあるけれど、これだけ大勢の人間がうごめいている中で、君と、こうして深く知り合えて、多くの時間を一緒に過ごしてきたということは、なにかそういう大きな力を想定しないと、うまく説明がつかない。だから、僕はその大いなるものに対してのみ責任を果たす。それ以外のことは、徹底的に妥協してもいい。」
「………。」
「……。」
「………。」
「ちょっと、しゃべり過ぎたかな。聞いてるのか?」
「………。今、しゃべってるのは、あなただわよね。」
「もちろん、そうだ。聞き慣れない話かもしれないけれど。」
「そう………。」
「どうしたんだ?」
「さっきの話、もう一度言ってみてくれる?」
「え?」
「私と、どうしたいのか。三つ言ってたでしょ。」
「何度でも言うよ。ただ、まったく同じ言葉は出てきにくい。そうだ。君と感動を共有したい。共通の思い出を作って行きたい。僕の人生に君という人がこれからも光を与え続けてほしい。そんな風に言ったのかな。」
「そう。そういうことかもしれないわね。………あなたの考えは分かったような気がするわ。………でも、そのためには、これから私たちどうすればいいのかしら。」
「そこのところがちょっと難しい。というのは、今言ったことは、結婚したい、というのとはイコールではない。結婚という形をとらなくても、そういう関係を維持していくことは不可能ではないはずだ。ただ、そのためには、たぶんお互いの大きな努力が必要で、なおかつ、どこかで消滅する危険性は高い。もちろん、そのほうが純粋だという考え方もあるだろうが、そのために費やすエネルギーは、おそらく馬鹿にならない。だから、昔の人は、例え一時的に失速しても、段々と弱まることがあっても、よほどのことがない限りこうした関係を維持できる装置を考えたのだろう。それが『結婚』というものだと、僕は思っている。」
「………。」
「だから、もし、それだけだったら、僕は君に結婚を申し込まない。むしろ、そういう結婚という形に頼らずに、君を愛していくことのほうが、ずっと重要で、そして誠実であるとさえ思っていた。その気持ちは、基本的には、今も、変わってはいない。」
「………。」
「ただ、そのことが、君をどんな不安な状態に置いているかまでは、考えたことがなかったわけではないが、想像力が及ばなかったようだ。」
「………。」
「だから、もし、僕が、結婚というものに意義を見出だすとしたら、それは、そう、さっき言ったこと、要するに、君と一緒にあるいていきたい、ということを、将来ともにそうしたいと今確信を持って言明し、目に見える形にしておくための、一つの手段としてだ。つまり、結婚を申し込むということは、僕が今そういう気持ちを君に対して抱いている、ということの、その何よりの証拠になるのではないかと思ってる。」
「………。」
「……。」
「………。」
「結婚してほしい。」
「………。」
「……。」
「………。」
「……。」
「………。」
「どういうわけか、今日、こういう話になってしまった。電話をかけたときには、まったく予期していないことだった。君も、驚いて、もしかしたら、怒っているかもしれない。でも、そもそもは、君が仕掛けたことでもある。」
「………。」
「いつかはすべき話だったと思うけれども、こんなことでもなければ、僕は永遠に話をするきっかけを見つけられなかったかもしれない。その意味で、君の挑発に感謝しなければいけない。そうはいっても、しゃべり過ぎたという後ろめたさもないわけではない。これだけのことをしゃべってしまうと、もう今までのようには会えなくなるのかもしれない。でも、それは仕方がない。いずれにしても、あとは君が考えてほしい。」
「………。」
「……。」
「………。」
「じゃ、切るよ。君はシャワーを浴びようとしていたんだったよね。」
「……あの……。」
「え?」
「………あした……。」
「ん?」
「明日、冷蔵庫、見に行きましょう。」
「………。」
「探しましょうよ、二人の冷蔵庫。午後だったらなんとかするわ。」
「そう、それは……。いや、その、……なんて言ったらいいのか。」
「なによ。それで電話してきたんじゃなかったの?」
「そうだ。そうだったね。じゃ、とりあえず、うーん、渋谷、いつものところで、二時……。」
「いいわよ。」
「ついでに、部屋も探そうか。広めのやつ。」
「冷蔵庫のついでにお部屋を探す人なんているかしら。」
「それもそうだね。ま、それは、じゃあ、会ったときに。」
「そうね。じゃあ、また明日。」
「うん。おやすみ。」
「おやすみなさーい。」
プツッ。
ツーーー
(了)




