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由衣の冒険3  作者: 和瀬井藤
始動
9/32

 風の冷たさが身にしみる十二月。今年は寒くなるとかで、寒さに弱い由衣にとってはいい冬ではないかもしれない。

 しかし、七日の金曜日にはボーナスが支給されるという。先月の給料日にその旨を伝えられた。

「楽しみですねえ。私にも少し貰えるときいて」

 難波は嬉しそうに話す。まだ一ヶ月程でしかないにもかかわらず、まさか貰えるとは思っていなかった様だ。

「わたしも入社して間もなくだけど、少しだけ貰ったよ」

「やっぱりそうなんですか! 金額は全然期待していませんが、それでも貰えるっていうのが嬉しいんですよ」

「ははは、そうだね」


 そして当日、貰った明細を見た難波は終始笑顔であった。

「いくらあったの?」

「うふふ、三万円でした! まさか三万円も貰えるとは思ってませんでした」

「それはよかったね。入社一年後以降から全額もらえるそうだから、わたしは来年の夏は期待してる」

「じゃあ私は冬ですね。何か買っちゃおうかな、ふふふ」

 難波は帰る準備をしながらニヤニヤしていた。久しぶりに貰った様で嬉しいのも無理もない。

「さあ、帰ろう。わたしは帰りに本屋へ寄って帰ろうかな」

「早川さん、どこの本屋に行くんですか?」

「門田書店に行ってみようかと思ってる」

「あそこに行くんですか? 私も寄って行こうと思うんです。よかったら一緒に車で行きませんか?」

「ああ、本当? そうだね。じゃあそうしようかな」


 残業を終えて、真っ暗な会社の駐車場に一台だけ車がある。難波は総社市でひとり暮らしをしている。岡山に戻ってきたものの、実家のある高梁市には仕事がなくて、岡山市内で仕事を探していた。その後、藤井工業に就職したのだ。その際に総社の知人のつてでバイトをはじめた。車は親に譲ってもらっていた。

「この車はタント? 少し前のやつだね」

「ええ、そうです。もう十年くらいなるみたいです」

「そうなんだ。初代だし、そのくらいだろうね」

 難波の車で会社を出て行くふたり。門田書店は、由衣の家より更に向こうにある。ちょうど会社から由衣の家までと同程度で、単純に通勤距離の倍くらいだった。

 由衣は岡山市内に住んだ際に、大き目な本屋が比較的近い位置にあるのは嬉しい事だった。


 十分も経たずに到着する。駐車場に車を止めて店の入り口に向かう。

「この門田書店は割合遅くまでやっているのがいいですね」

「そうだね。確か午後十時だったかな。他だと九時には閉店してたし」

 門田書店は比較的遅い時間帯まで営業している。その為か会社帰りのサラリーマンなどもよく見かける。由衣も家から比較的近いので、割合よく行っていた。

「いらっしゃいませ」

 店員の声が聞こえる。由衣と難波は入ってすぐ正面にある新刊コーナーのところに歩いていった。

「単行本はあんまり買わないけど……何かないかなあ」

 由衣は所狭しと並べられた本を見ていく。

「早川さんはどういうジャンルを読むんです?」

「わたしは……ミステリーやSFが多いかなあ」

「私も推理小説は幾つか読みますよ。この間も……」

 ――あれは面白かった、これはどうかとか、しばらく二人で喋っていた。そんな中、ふと変えがする。

「……あら、もしかして歩美ちゃん?」

 難波は声をかけられ振り向くと、そこには懐かしい顔があった。香川という店員である。由衣も知っている店員だ。

「え? 冬美さん? あれ、久しぶり」

 みるみる嬉しそうに表情を変えていく。

「何年ぶりかしら、いつこっちに帰ってきたの?」

 香川もとても嬉しそうに話している。

「今年の春だから半年くらい前かなあ。というか冬美さん、この本屋さんで働いていたんだね。気がつかなかったなあ」

「いつもは昼だから。今日はたまたま夜間のシフトに入っていたのよ」

「それで見かけなかったのね。時々会社帰りに寄ってるのに」

 難波と香川は楽しそうに話していた。難波も懐かしいのか、積もる話があるみたいだ。由衣は邪魔したら悪いと思い、その間新刊コーナーを見ていた。


「早川さん、すいません。ちょっと話し込んでしまって」

 難波は申し訳なさそうに由衣に言った。

「別にいいんだけど……知り合い?」

 親しく話している様は、かなり仲の良い間柄の人なのだろうと予想された。

「ええ、そうなんです。従姉妹なんですよ」

「ああ、そうなんだ」

 香川は難波の母方の従姉妹になるという。

「この人は早川さんといって、会社の先輩なのよ」

 難波は香川に由衣の事を話した。

「え? 会社の?」

 香川が驚くのも無理もない。由衣の容姿は、どう見ても社会人には見えないのだから。

「ああ、早川さんは<若返り>なのよ。実は私より歳上だし」

「あらそうだったの。――でもお客様はよく来てくださっていますよね」

 香川も時々来店する由衣の顔を覚えていた。

「冬美さん、早川さんを知ってるの?」

「ええ、よく買っていただいてるお客様だもの。いつもありがとうございます」

 そう言って、笑顔で小さくお辞儀する。由衣は顔を赤くしながら愛想笑いした。

「いつだったか……一年くらい前かな? ガラの悪いおばさんに絡まれて困ってた時に助けてもらった事があったなあ」

 由衣は、ふと思い出す様に話した。

「そういえば、そんな事もありましたね。あの時は松葉杖でしたよね」

「そうです。まだ退院して間もない頃で、足腰が弱くて……」

「早川さんって、そんなに重症だったんですか?」

 難波は少し驚いた様子だ。

「うん。そもそも二年以上入院してたし」

「ええ? そんなに?」

「大変だったんですねえ」

 三人で様々話していると、いつの間にか三十分以上話し込んでいた様だ。香川が別の店員に呼ばれて行った。

「じゃあ、ゆっくりしていってね」

 香川はそう言って、向こうに行ってしまった。


「早川さんは何を買うつもりなんですか?」

「わたしは文庫買って帰ろうかな」

 由衣は雑誌は滅多に買わない。反面、文庫小説は本屋に行くとほぼ必ず買っていた。

「私は好きなイラストレーターの画集を買うつもりなんですよ」

「画集かあ、誰の?」

「高山加奈子です。すごく好きなんですよ」

「そうなんだ」

 由衣はイラストレーターに興味が無いので、よく知らなかった。先週発売したらしく、ボーナスが支給されると聞いていて、もらってから買おうとしていたそうだ。

「イラスト関連は……あっちですね」

 由衣は、難波と一緒にイラスト関連のコーナーにいった。

「これこれ。このイラストですよ。見た事ないですか?」

 難波は購入する画集を手にとって、由衣の前に掲示した。

「ああ、これは……見た事ある。小説の表紙でも時々あるね」

「そうです。いいでしょう。色彩も鮮やかで、とっても素敵なんですよ」

 その後、しばらく難波によるイラストレーターの事をずっと聞かされる羽目になった。

 それから由衣は文庫のコーナーに向かった。どうせだからエラリー・クイーンの文庫数冊を買って帰ろうと思ったのだ。


「――エラリー・クイーンですか。名前は聞いた事ありますね」

 難波は由衣の持っている文庫を見て言った。

「いつの間にか新訳版が出てたりしてて。最近ちょっと気になってたんだ」

 二人はレジに並んで順番を待っていた。二箇所をそれぞれ並んで待っていると、難波が先に順番が来て精算してもらっている。由衣も前の客が終わって立ち去ろうとしたところ、由衣の目の前に子供連れの若い母親が割り込んできた。

「早くしてよ、遅いわね!」

 横柄な態度で、由衣の前にいきなり割り込んできた。――何なんだ、この人は! 順番でしょうが! と、由衣は心の中で憤慨し、

「あの! 順番が……」

 と言いかけた途端、振り向いて由衣を睨みつけた。

「何? 子供がいるんだけど」

 そんなの関係ないだろう、と言いたいところだが言い出せない由衣。どうしようかと困り果てるレジの若い女性店員。難波も何事かとこっちを見た。

「――ちゃんと並んでください、割り込みはいけません!」

 突如声がして、由衣は声の方を見た。また以前の様に、そこには香川がいた。香川は目の前の若い母親に言い放つ。

「順番を守ってください!」

「はあ? 子供がいるのよ! 子供優先でしょ」

 由衣は、――そんな訳あるか! と言いたかったが、

「お子さんがいるからと言って、割り込みはダメです!」

 と、香川が先に言いきった。

「店員が偉そうに! 何様?」

「お子さんがいるからこそ、マナーを守って見本となるべきじゃないんですか!」

 毅然とした態度で若い母親に対面する。気がつくと、周囲には人だかりができていた。他の店員もやってくる。どこかで見た光景だ。

「ふ、ふん! ばっかじゃないの! こんな店で誰が買うか!」

 若い母親は、本をレジに叩きつけて店を出て行った。ざわつく店内。そして注目の的である由衣。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。


「す、すいません。なんだかご迷惑を……」

 由衣は香川に言った。

「お客様は何も悪くないです。時々いるんですよ。ああいうマナーの悪いお客様」

「そうなんですか……」

 前もそうだが、どうあれ客との騒動を起こして大丈夫なんだろうか? 由衣は心配になった。こういった事が原因で解雇される様な事になったら……そう思うと申し訳ない気持ちになった。

 香川は店長と思われる人物と話している。事情を説明している様だ。

「なんかすごい事になってましたね……」

 難波が側にやってきて言った。

「まあ……そうだね」


 レジで清算を済ませて店を出ようとした際、「ありがとうございました」と後ろから声がした。振り返ると香川がこちらを見て微笑んでいた。由衣と難波は微笑み返して店を出た。


「じゃあ、帰りましょうか。家まで送りますよ」

「そんなに遠くないから大丈夫だよ」

「いえいえ、私からしても全然問題ないし。さあさあ、乗っちゃってください」

 そう言って難波は由衣を車に乗せようとする。こうなると由衣は乗らないと悪い気になってしまって、家まで送ってもらう事にした。


「ありがとう。気をつけて帰ってね」

「はい、ではお疲れさまでした」

 難波は窓を閉めると、小さく手を振って車を走らせた。由衣はそれを見送っていた。見えなくなると部屋に戻った。

 ――さあて、これだけもらったんだし。何か通販で注文しよう。何を買い換えようかな。

 そんな事を考えながらパソコンのディスプレイをしばらく眺めていた。

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