五
十二月二十四日、金曜日。クリスマスイブである。今日、由衣は退職する。
結局、仕事の引き継ぎ等で、残っていた有給休暇は全く使う間がなかった。いつも通り、土曜日には休日出勤までしている。
由衣は、朝早く会社にやってきた。別に名残惜しいから少しでも、などと感傷に浸る為に早めに来たわけではない。ただいつもより、早く目が覚めて、いつもより時間に余裕があったから早く来てみたのだ。よく考えると、こんな事は初めてだった。
まだ午前七時前である。八時の始業まで一時間以上もある。今日はかなり冷え込み、午後からは雪が降るかもしれないという予報だ。由衣は車から降りると、凍える様な冷たい空気に顔をしかめた。
駐車場にはまだほとんど車がない。多くの社員は七時半前後の時間にやってくる。
事務所内に入ると、すでにロビーには人がいた。若い事務員の女性で、来客者の窓口をしている。由衣は「おはようございます」とふたりに声をかけた。彼女達も「おはようございます」と応答した。
由衣は、そのまま階段を上がって開発課の事務所に向かう。途中には誰とも会わなかった。
開発課のオフィスは、やはりまだ誰もいない。セントラルヒーティングによる暖房で、室内は相変わらず暖かい。
由衣は、一番奥の自分の机に向かった。以前ここには由衣の机が一台だけだったが、現在は岡崎の机と並べてある。岡崎は由衣から、課長の職を引き継いで、開発課の新課長となる。
由衣の机はまだ物がほとんど残ったままだった。少しづつ片付けようと思ってはいても、引き継ぎの為に色々と忙しくしていたせいで、まったく片付けられていない。岡崎曰く、不要なものは放置しておいてくれたら、こちらで片付けるとの事だ。今から片付けても無理だろうから、言葉に甘える事にした。
窓の前に立って外を眺めた。もう何回も眺めて見慣れた景色だ。右手には工場の建屋が見えて、正面のずっと向こうには駐車場がある。数台の自動車が止まっているのが見える。当然、その中の一台は由衣の車だ。
ずっと先には田んぼがあって、畑があって、点々と民家があって、その向こうには山が連なる。
本当によく見た、いつもの景色だった。これは最後まで変わらない、いつもの景色だった。
――気がつけば、由衣はいつも見送っていた。町工場時代の向井、吉木達若い職人。
由衣にとって初めての後輩となる、難波。それから高橋。
由衣にとって最大の理解者であった、小宮山。
みんないなくなった。この会社から去って行った。でも、それ以上に大勢の人が会社にやってきた。次第に大きく成長していく会社。しかし、由衣の考えていた方向には歩んではいかなかった。
しばらくすると、開発課のスタッフ達が出勤してきた。
「あ、おはようございます」
由衣の姿を見て挨拶をする、若いスタッフ。以前から由衣を慕っていたスタッフだ。由衣も挨拶を返した。それに応じて、由衣のそばにやってきた。
「今日が最後ですよね。今までお疲れさまでした。それに今まで、どうもありがとうございました」
その若いスタッフは笑顔でそう言った。
「うん、こちらこそ、今まで本当にありがとう。辛い事をしてもらう事もあったけど、みんな頑張ってこなしてくれていた。そういえば、結構無茶な事を言った覚えが……」
由衣は苦笑した。
「そんな事はないです。あたしなんて全部勉強ですから。課長に教えていただいた事は忘れません」
「岡崎さんを支えてあげてね。彼女、頑張りすぎるところがあるから……」
「はい、開発課スタッフ一丸となって、これからも頑張っていきます!」
そう言ってにっこりと笑った。由衣も同じ様に笑った。
「……じゃあ、皆さん。本当にどうもお疲れさまでした」
定時の後、由衣は最後にそう挨拶してお辞儀した。岡崎が拍手すると、スタッフも皆拍手した。
荷物を入れたザックを背負うと、開発室のオフィスを出る。その時、振り向きたい衝動に駆られた。しかし、由衣は振り返らなかった。どんどん歩いて、正面ロビーから事務所を出た。
本部や工場などには昼間に挨拶をしていたので、この時にはもう帰るだけだ。
事務所を出て駐車場に向かう由衣。真っ暗な外の空気が由衣を包んだ。今は午後六時前だが、もう外は暗い。
外はとても寒かった。刺すような寒気が由衣の体を震え上がらせた。
「……雪だ」
由衣が夜空を見上げると、ハラハラと小さな雪の結晶が舞い降りてきた。どうりで寒いわけだ。風がないので、雪はハラハラとしたに落ちている。
――ホワイトクリスマスか……。
由衣は、そこにしばらく立ちすくんでいた。ずっと、ずっと立ちすくんでいた。どのくらい、そこに立っていたのだろう。由衣の足元が白くなっていた。
降り続ける雪の中、由衣は寒さを忘れたままずっと立っていた。ふと気がつくと、意を決して歩き出す。自分の車の前に立つと、それが当たり前の行為だったかの様に、自然と事務所の方を見た。
「……さよなら」
ひと言だけつぶやいて、ドアを開けて車に乗り込むと、エンジンもかけずにハンドルに突っ伏した。
やがてルームランプも消えて、真っ暗な車内で名残惜しむかの様に、ずっとそうしていた。
「由衣の冒険3」これで完結です。
最後まで読んで頂いた方々、どうもありがとうございました。