四
「――都合により、退社したいと思います」
社長室に由衣の言葉が静かに発せられた。同時に「退社願」と書かれた封筒を差し出した。
「そうか、どうしてやめようと思ったかね?」
藤井は封筒を受け取りつつ、何ら動じる事なく由衣に聞いた。
「もう……いえ、やりたい事があって……」
実際には、特にやりたい事があるわけではない。ただ会社を辞めたいというだけで、便宜上そう言っているだけだった。
「やりたい事? まあ、いいだろう。個人的な事だ細かい事は聞かないでおく」
藤井の表情は変わらない。
「……すいません」
「いや、構わないんだ。早川さんには随分と助けられたものだ。思えば、君を我が社に誘った事が始まりだったと思う」
「――社長」
「君がいたから、フジイがあると思っているよ。今までどうもありがとう。本当に感謝している」
そう言って藤井は立ち上がった。
「……それにしても、頼りにしていた小宮山さんに続いて、早川さんにまで辞められるとは。我が社もそろそろ停滞期に突入かな……」
そう言って藤井は苦々しい表情で笑った。
「そんな事ないです。優秀な人がたくさんいますから」
「ははは、まあそれは認めないわけにはいかないな。でもね、これだけは言っておくよ」
藤井はひと呼吸おいて口にした。
「――僕はたくさん人材を集めてきたけど、君より優れた人材はいないと思っている。君が、この会社が躍進する起爆剤だったんだ。早川さん。君がいて、全てが始まったんだよ」
藤井はそう言って、少しだけ笑った。その笑顔は昔見た……そう、出会った頃の藤井の笑顔に似ている気がした。
とうとう会社を去る事にした。
二〇一八年の六月に入社して三年半。短かい様で長い時間だったと思った。いろいろあって大変ではあったが、どうにかここまで来た。まだ本当に辞めていいのか、迷っている部分もある。でももう退社の意向を伝えたから。――わたしはフジイを去る。
まだ辞めてから、どうするのか決めていない。とりあえずお金には困っていないから、ゆっくり考えようと思う。休憩の期間だと思おう。
「課長、退社されると聞きましたが……」
岡崎がやってきて由衣に聞いた。どこか深刻そうな顔をしている。
「うん。まあ、もう岡崎さんがいたら万全だし、わたしはもういる必要ないよね」
由衣は少しバツの悪そうな顔をした。
「――そう、いろいろとやりたい事もあるんだ」
「……そうですか」
岡崎は何か言いたげな表情で、由衣を見ている。
「あの、課長」
「何?」
「私……その、前に偉そうな事を言ってしまって……」
「そうじゃないよ。わたしの個人的な都合なんだ。本当に」
「そ、そうなんでしょうか……」
岡崎は相変わらず表情を曇らせていた。
「十二月の二十四日が最後になる。それまでなるべく完全に引き継ぎできる様にするよ」
フジイは毎月二十五日が締め日なのだが、十二月二十五日は土曜日なので、前日の二十四日で最後なのだ。
「……はい、よろしくお願いします」
由衣は、自宅にてパソコンの前に座って画面を眺めていた。画面には株価のグラフが表示されている。
以前、小野田に言われてなんとなく始めてみた。少し勉強した後に少額で始めて、もう三、四ヶ月くらいなるが、今のところ損はない。というか正確なデータさえあれば特に難しい事はなかった。無論、由衣は超人的な頭脳の持ち主であるが故だが、由衣自身はたいして意識せずにやっていた。
ふと画面から目を離し椅子にもたれた。もたれたまま、ただ呆然としていた。何も考えず、ひたすら無心でいた。
しかし、会社を辞める事がどうしても頭に浮かんでくる。無心でいる事を諦めると、パソコンをスリープさせて、寝室のベッドに向かった。そのまま背中から倒れこんで、ベッドの上に寝転んだ。寝室は少し寒い。もそもそと布団の中に入って目を閉じた。
――由衣は夢を見た。小さい頃の夢だった。
由衣は以前、母方の親戚である角川家によく遊びに行っていた。親同士が親しかった事に加えて、家も割と近かった為だ。そう事もあり、月に何回かは遊びに連れて行ってもらっていた。
その際に従姉妹の景子と、角川家の隣の家の女の子とよく一緒に遊んでいた。景子と女の子が仲が良かった事から、行くと必ず一緒に遊んでいた。そんな頃の夢だった。
女の子の名前は覚えていない。あだ名で「さっちゃん」と呼ばれていたから、そうとしか知らなかった。
由衣はまだ男の子で、文彦という名前だった。景子は三人の中で一番年上である事と、強気な性格から常に仕切っていた。文彦とさっちゃんは、いつも景子についていって遊んでいた。
近くの公園で遊んでいると、景子は突然、結婚式をすると言いだした。結婚? と不思議がるふたりを、景子は『文くんはお婿さん、さっちゃんはお嫁さん』などと勝手に決めて、おもちゃの指輪をポケットから取り出し、文彦に渡した。
わけもわからず、オロオロする文彦に『指輪をさっちゃんにつけてあげて』と命じる。『なんで?』と問う文彦に『文くんはさっちゃんが好きなんでしょ? だからよ』と、さも当然でしょ、と言わんばかりに答えた。
景子は、『さっちゃんも文くんが好きでしょ?』というと、さっちゃんは少し恥ずかしそうに『……うん』と答えた。文彦はとにかくさっちゃんの右手を手にとって人差し指に指輪をつけようとした。『違うわよ、左手よ。それに薬指』などと指摘され、慌ててその通りにした。
景子は、『じゃあ、今度はキスよ。結婚するんだから、キスするのよ』などと、とんでもない事を言いだした。文彦はどうするのか動揺していたが、なぜか、さっちゃんは目を瞑って待ち構えていた。『さあ、文くん』と強く迫る景子。文彦も目を瞑って、少しつづ顔を近づけていった……。
――ここで由衣は目が覚めた。真っ暗な天井を見つめた。静かな夜。ふと車の走る音が小さく聞こえた。
照明をつけて部屋を明るくすると、眩しさで思わず腕で目を覆った。
しばらくして体を起こすと、そのままうつむいて惚けていた。
「さっちゃん……」
無意識のうちにつぶやいていた。