三
それから少しして、小宮山の退職が決まった。由衣は驚かなかった。もはや時間の問題だと気がついていたから。
小宮山が藤井に退職を宣言した後、藤井は小宮山を呼んで慰留した。藤井にとって小宮山は、自分の片腕としてなくてはならない存在だった。
藤井は小宮山の組織調整能力を高く買っており、今後も会社を成長させて、大きくしていく上で益々重要な存在となるはずだった。
特に、来年に設置予定の東京営業所は、今後力を入れる海外展開の拠点になる為の、重要拠点である。藤井はこの東京営業所の所長に、小宮山に就いてもらう予定にしていた。
小宮山の退社は今後の計画の見直しを迫られる事態だった。
夕暮れ時の、赤く染まる空の下。由衣と小宮山はふたりで話していた。
「……思えば、初めて会ったのはいつ頃だったか。三年くらい前だったかな。社長が突然、とびきりの逸材を見つけた、だとかそういう事を言っていたな。とうとう僕達は頂点に到達する時が来た、なんてね」
由衣を見て少し笑った。
「そして連れてきたのが君で、初めて会った時は、<若返り>の発症者だとは言っていたが、まさか? と思ったよ。ここまで若いとは思わなかった」
「誰だってそう思うと思います。わたしはもう聞き慣れていますから」
由衣は苦笑いをした。
「それでも辛かっただろう。特に、最近はよくない噂も聞こえてくる」
「まあ、わたしなんて……もう役目を終えている様なものですから」
由衣は視線を逸らした。
「君はそもそも、人の上に立って采配を振るう様なタイプの人間ではない。正直、我々人事が悪い」
「……そんな事」
「だが、フジイ躍進の影の立役者と言ってもいい君を、下っ端に置いておくわけにはいかなかった。そのあたりは理解してほしい」
「……いえ、別にそれは構わないんです」
由衣は入社当時、ひとりで製品の設計を担当していた。部屋とパソコンと作業台。これだけで最初はやっていたのだ。
由衣はそれでも、理想の職場にしていく為に頑張って環境を整え、ほぼ無いところから作り上げていった。そのうち、難波などの後輩が増えていき、製品開発も軌道に乗っていった。
人が増え、大掛かりな開発を手がける様になると、細かい部分は後輩達に任せて、由衣はまとめ役の様な立場へと変わっていったのだ。その頃になると、もう圧倒的に優れた人材ひとりが頑張るよりも、それなりの人材が大勢でやる方が効率もよかったのだ。
そうして、由衣にとっては苦手ではあったが、頑張って職務を全うしようとした。
その後、岡崎という優れたリーダーシップを取れる人材が現れた。結局、彼女の登場が由衣の役目に引導を渡す事になる。
もう由衣は役目を終えたのだ。
「みんな辞めちゃいました。末森くんは頑張って残っていますけど」
由衣は小宮山を見て苦笑した。
「早川さん、君は君のやりたい様にするしかない。よく考えてみたらいい。そして出た結論が君にとって一番ベストな選択だと思う」
「わたしはどうするのか……わたしは」
「焦らなくていい。じっくり考える事だ」
「――元気ないねえ。どうしたの?」
中村は、どうも気持ちが沈んでいる由衣に尋ねた。由衣はその晩、「Y&H」に夕食を食べに来ていた。
「いえ、わたし……」
「何かあったのかい?」
由衣は箸を止めて、じっとしている。何かを言いたいのだろうが、それを離せないでいる。
「仕事の事?」
「え、ええ。そうです。もう……」
由衣はゆっくりと、ひと言づつ語り始めた。
「以前からいた人達がみんな会社を去って行って……いつの間にか、わたしだけが残っている状態。ああ、でもひとりだけまだ頑張っている人がいますけど」
由衣はアイスコーヒーに砂糖とミルクを入れると、ストローでかき混ぜた。
「会社も大きくなって、人も設備も揃って、給料もたくさんもらえる様になったんですけど、わたしの思い描いていた職場とはやっぱり違う」
「由衣ちゃんは、いったいどういう職場を目指していたのかな?」
「――わたしは、笑って許せる会社がよかった。ひとりの失敗を、仲間達みんなでフォローして。時には雑談なんかして、ちょっとサボったりなんかして。でも本当に大変な時は、みんな真剣になって。そんな会社がよかった」
「割とアバウトな職場だね」
中村は少しだけ笑顔になった。
「ええ、アバウトでいいんです。どうでもいい時にはサボっても、大事な時に頑張れる、そのくらいの会社でいいと思うんです」
うつむいたまま、つぶやいていた由衣は、顔を上げて中村を見た。
「でも、フジイはそういう会社じゃなくなった。社長は向上心が強い人だから、会社をどんどん大きくしていこうとした。それは当たり前だろうと思う。でもその為に、わたしが大切に思っていた事をひとつづつ捨てていった」
「何か、できなかったのかい?」
中村が言った。
「できなかった……いや、しなかった。ただ流されるままに流されて、もう戻れないところまで流されてしまったんです。わたしが情けない為に」
「人には、決してどうにもできない時の流れというものがある。それはしょうがなかったのではないかな? そう諦める事も大事だと思うよ。次に一歩、踏み出す為にはね」
「……そうですね、それはそうかもしれません。でも……」
由衣はそこで黙り込んでしまった。
「——いやあ、ようやく涼しくなったねえ!」
そう言って店に入ってきたのは小野田だった。小野田はカウンターに由衣の姿を見つけると、早速近づいてきた。
「お、奇遇だねえ。由衣ちゃん。僕達やっぱ相性いいよね。今度さ、食事にでも……って、どうしたの?」
小野田は、なにやら深刻そうな雰囲気に気がついた。
「……小野田さん。相変わらずですね」
由衣は小野田を見ると、呆れ顔で言った。
「そうさ、僕は相変わらずだよ。で、さっきの食事の件、どう?」
ニコニコしながら言った。
「……あはは、まったく小野田さんったら。本当……」
小野田の明るい調子に、思わず笑ってしまったが、いつの間にか由衣の瞳は潤んでいた。由衣は手で涙を拭いた。
「おいおい、呆れた顔してたと思ったら、笑い出して、最後は半泣きかい? そんなに僕に会えたの嬉しかった?」
「もう、そんなわけ……ううん。会えてよかった」
由衣は、そんな小野田に微笑んだ。
十一月の初め頃に小宮山が退職して、およそ一ヶ月が経った。相変わらず会社は好調で、とても景気のいい会社だ。経営状況は当分悪くなるとは思えない。今日もまた、たくさんの仕事が待っている。
仕事をこなしつつ、その間、ずっと頭の隅で考えていた。そして由衣は席を立ち上がった。