三
休日の由衣は、椅子にもたれてコーヒーを飲んでいた。ひと口飲んで視線を動かすと、ぐるりと部屋の中を見回して、まだ荷物がダンボールに入ったままの状態で放置されているのを見た。
由衣は先月、今いる部屋に引っ越してきていた。それまで実家で両親と共に過ごしていたので、初めてのひとり暮らしとなる。
今までよく実家を出なかったな、と多くの人は思うかもしれないが、何をするにも腰の重い由衣は余程の事がないと、現状を変えていこうとしないのだった。
部屋の中に荷物は多くない。必要なものだけあればいいと思い、家具もパソコン用の机と、その椅子。大きめの本棚を一台と、それにタンス。あとは小さめのテーブル一台と、衣装ケースをいくつかだけだ。
本棚にはまだ何も置いていない。そこに置くべき本は、まだダンボールに入ったままなのだ。引っ越しした日にちゃんとやっておけばいいものを、その日はのんびりしたいからと言って、しなかったのが良くなかった。するべき時にしないのは、その後いつまで経ってもしないものだ。由衣は特にその傾向が強い。だからこの有様なのだ。
最近仕事が忙しくて……などと自分に言い訳を作って先延ばしにする。由衣の悪い癖だった。実際に忙しいが、片付ける時間がないわけではない。
由衣はコーヒーを飲み終えると、椅子から立ち上がり、ようやく片付ける決心をした様だ。まずは洗濯していた服がまだ洗濯機に入ったままなので、それを取り出した。カゴに入れて、ベランダまで持っていく。ベランダには洗濯用の竿が設置してあり、そこに洗濯物をぶら下げていく。はじめの頃は下着も外に普通に干していたが、この間隣に住むおばさんに、下着はなるべく見えない様に干した方がいい、泥棒にやられる、とアドバイスされた為、最近は室内で干している。
全部干すと、今度は前に干した服をしまおうと、取り込んでそのまま放置していた服のところに行った。一応はどれもたたむ。しかし下着やソックスはたたみもせず、そのままタンスに放り込む。人に見られないものなど関係ないのだ。
服をしまうと、また机のところにいって椅子に座り込む。そうして由衣は、目の前のパソコンのブラウザーを表示させて、ネットを見て回るのだった。掃除はまだしないのか? と思うかもしれないが、当然まだしない。
ひとり暮らしを始めてからの由衣は、今まで以上に怠けている様子だった。
由衣はオンラインショップを閲覧していた。何か興味を引く様なものはないだろうか、とブックマークをしているショップを順番に見て回っていた。
不意に由衣の表情が変わった。何か興味のあるものを見つけた様子だ。
MacBookAirのディスプレイに表示されているのは靴屋である。由衣は仕事用と休日用のスニーカーを一足づつ持っていた。特に仕事用は履く時間が長く、寿命が短そうな気がしていた。
――そうだ。スニーカーを一足買おう。
そう考えると、早速ショップ内を物色し始めた。
現在、由衣の所有しているのは、プーマのGVスペシャルとスエードだ。プーマは気に入っているが、次はプーマ以外を選びたいと思った。
――やはり、ナイキかアディダスか……ニューバランスもいいけど。ナイキだとテニスクラシックがいい。いや、でもエアフォース1もいいかな。アダィダスならスタンスミスか。
由衣は色々と頭を巡らせながら、商品のページを見て回る。とても楽しいひと時だった。
ふと、プーマの商品一覧ページを見ると、意外なアイテムがあった。
――これは……アバンタージュじゃないか! まさか、またしても復刻しようとは……。
由衣はこのスニーカーには驚きを隠せなかった。GVスペシャルと同様のソールを使ったテニスシューズだ。アバンタージュはGVスペシャルと違ってアッパーが外羽根式になっている。そしてサイドのフォームストライプがパンチング穴で再現されていた。
シンプルで格好良く、アバンタージュは若い頃に履いていただけに懐かしかった。しかも発売開始から間もない様だった。
非常にそそられながも、散々悩んだ挙句に諦めた。このままではプーマだらけになってしまう。今回はプーマ以外にする事にした。
それから一時間程度調べた結果、ナイキのテニスクラシック、アディダスのスタンスミスのどちらかを買う事にした。
――あとはどちらを買うか、店で決めよう。そうと決まれば出発だ! ちょうど昼過ぎだし、ついでにコンビニに行ってパンと飲み物も買ってこよう。
……が、まずは服を着なくてはならない。由衣は下着以外は、半袖のTシャツしか着ていなかった。暑い時期はいつも室内ではこの格好だ。このままでは外に出られないので、部屋の一角に置いていたジーパンを履き、ソックスも履いてシャツに着替えた。
由衣は、机の上の財布とiPhone、テーブルに置いているフォレスターのキーをポケットに入れると、早々に部屋を出た。
由衣は再び迷っていた。店の商品陳列棚の前を行ったり来たりしている。ナイキのテニスクラシックと、アディダスのスタンスミス。実物を目の前にすると、やっぱりどっちも良い。しかし、そんなに余裕のない由衣にはどちらも購入するというのはできない事だった。
ナイキの棚を見る。しばらく見る。
そして、アディダスの棚を見る。やはりしばらく見る。
数分おきにずっとこれを繰り返していた。その様子に気がついた店員が、不審な目で見ているのだが、由衣は気がついていなかった。
こうしてずっと迷ってはキョロキョロと意味もなく周囲を見渡しては考える。が、ふとその時、視界の端に警戒すべきものが見えた。
――あれは……黒田?
黒田は、由衣の前の会社の同僚だ。実は彼も<若返り>の患者である。馴れ馴れしい性格で、由衣はあまり好きなタイプではない。
由衣の見る限り、ふたり連れで店に入ってきた。もうひとりは割合若い女性だ。黒田は発症後に結婚しており、奥さんなのかもしれない、と思った。
由衣はそのまま店の奥側の方に移動した。先ほどいたナイキのところは、店の入り口に近くすぐに姿を見つけられそうだったからだ。より奥の方だと、背後のブーツの棚があり、その陰に隠れる事ができた。
由衣はプライベートな時間に、知った人に偶然居合わせるのが苦手だった。知ってる人だと、どうしても相手しないといけないからだ。その知人が、あのチャラい黒田だと思うと何が何でも気づかれない様にしなくてはならない。
どうも黒田達は、ついさっきまで由衣が品定めしていた、ナイキの棚の前で談笑しながら靴を見ていた。
――な、何でそこにいるかな……わたしも見たいのに。
由衣はひとまず欲しくもない紳士靴のコーナーのところで、黒田達の動向を監視した。あの二人が去ったら改めて品定めをするつもりだ。
すでに三十分以上なるが、ナイキやアディダスのところから一向に去っていかない。
――何やってんのかな……わたしは買いに来ているのに。奴らはただ見てるだけかもしれないのに。でもわたしは買いに来ているのに!
意味不明な事を心の中で叫びながら、黒田達を睨む。しかし、睨んだところでどうにもならなかった。
由衣は諦めて他の店に行こうかと考え始めたところ、ようやく黒田達は動き始めた。しかも店の出口の方に向かっていった。
――よし、帰るみたいだ。
ふたりが店を出たのを確認すると、すかさず目当てのスニーカーの棚の前にやってくる。再び、どちらを買うか悩ましい選択を再開した。
「やあ、由衣ちゃん! こんなところで会うとは奇遇だね!」
後ろから嫌な声が聞こえた。由衣の表情が固まった。聞こえないふりをしたいが、そういう訳にも行かなかった。振り向くと、そこには見たくない顔があった。
「スニーカー買いに来たの? 由衣ちゃん」
「ま、まあ……そんなとこ」
慌てて苦笑いした。
「へえ、気に入ったのある?」
「まあ、一応ね……」
居心地の悪い空気を感じながら、そわそわしていると、黒田の連れの女性が喋った。
「ねえ、健ちゃん。この子だあれ?」
健ちゃん、というのは黒田の事で、フルネームは黒田健太という。
「この子はねえ。元、会社の同僚さ。この子もさ、<若返り>で今の様になってるんだ。早川由衣ちゃんって言ってね。前に言った……」
「あ! 思い出した。でも、信じられないわあ、中学生でしょ? この子」
「ど、どうも……」
由衣は苦笑した。
「この人は、僕の嫁さんだよ。美人だろう」
黒田は満面の笑みで話している。
「もう健ちゃんったら!」
そう言って顔を赤くしながら、黒田の妻は黒田を叩いた。
「はは……ま、まあ……」
由衣は曖昧に返事をした。のろけを聞かされて面白い訳がない。というか、早く立ち去りたかった。
「由衣ちゃん、よかったらさあ。どこかスイーツでも食べに行かない? 美味しい店あるんだよ」
「——いや、忙しいから。この後、用事あってね」
由衣は、いい加減鬱陶しくなってきたので、即座に断った。それに散々ノロケ話を聞かされるに違いないと直感していた。
「そうなの? いいじゃん。ねえ?」
そう言って黒田は妻の顔を見る。妻は「ねえ」と言って同意している。
「いや、本当に用事があるから。じ、じゃあ……」
由衣は、もうなりふり構わず、その場を立ち去った。これだけ強引に行動できたのは、我ながら成長したかな、と思った。黒田も特に追っては来ない様子だ。
由衣は結局、買う事ができなかった。また引き返して、というのは嫌なので別の店に行く事にした。
無事購入して帰る途中、もう空は茜色に染まっていた。昼過ぎに家を出ていつの間にかこんな時間になった。
――まったく、黒田がいるからこんな遅く……。由衣は半日潰れた不満を黒田にぶつけた。
ようやく帰ってきて、靴を脱いだところで、コンビニで何か買うつもりだった事を思い出した。何にせよ、もう夕食を買ってこなくてはならない。――ああ、もう! と、持って行き場のない不満を抱えたまま、再び玄関のドアを飛び出した。