二
「――去ってください。あなたの様な人がいると、迷惑です」
岡崎はそう言うと、会議室に由衣を残して出て行った。
岡崎の言葉は、由衣の心に突き刺さった。一瞬、由衣は息ができなかった。
「迷惑、か……」
由衣は無意識のうちに口に出していた。こんな状態が続けば、そう思われても仕方がない。いつか言われる事だろうと思ってはいた。スタッフの陰口はそこまで気にならなかったが、岡崎にそう言われるとやっぱり突き刺さる言葉だ。
岡崎は有能だ。仕事に対してとても熱心である。ゆえに、やる気をなくして幽霊の様な由衣の事が、とにかく目障りで仕方がないのだろう。
――もう、この会社にわたしの居場所はあるのかな? そんな疑問が湧いてくる。
そんな時、今ごろになって蝉の鳴き声がもう聞こえなくなっている事に気がついた。
秋も深まりつつある頃、児島繊維の工場で騒動が起こった。
フジイによる買収で、事業の再編が行われたのだが、衣服関係の事業を全て廃止すると通告した途端、縫製工場の工員達が騒ぎ出したのだ。
この衣服の事業とは、一般の衣類ではなく学生服や業務用の制服だ。これらは以前は安定した利益をもたらしていたが、近年は他社に負けて赤字続きだった。それでも簡単には社員を解雇する訳にもいかず、ずるずると続けていた。
無論、そんなものを藤井が許すはずもなく、早々に廃止を決定した。そうすると当然、人員も削減しなくてはならず、正社員十二名と、派遣社員三十名の合計四十二名を解雇か、別の工場に異動してもらうという事になった。
派遣社員はどうしようもないが、正社員も県内の工場ではなく、新たに買収した広島県の工場に異動となる。県外に出るのは厳しい社員ばかりである為、皆退職を余儀なくされる事になった。
「俺達が何をした! お前達の言う通りに一生懸命働いてきて、何様のつもりだ!」
児島繊維の事務所の前には社員と派遣社員が群がり「説明しろ!」「横暴だ!」などと、怒号が響いていた。
「……あ、あの藤井社長。解雇する予定の社員達が事務所に詰め寄せいていて、収拾がつかないんです」
児島繊維の社長は、戦々恐々とした声色で説明していた。
『けしからん話だ! 奴らは甘えだ!』
「……と言っても、どうしたらいいか」
外の様子を伺いながら、心配そうな顔をしていた。そばにいる別の役員も青い顔をしていた。
『そんなものを許すな。とりあえずは説得しろ。こっちからも人を寄越す』
「は、はい。なるべく早くお願いします」
『とりあえず、そのまま待て。わかったな?』
「は……はい」
児島繊維の社長は窓の外を見た。外では社員達がシュプレヒコールを上げている。怒号の飛び交う、その様相に不安を隠せなかった。
一時間ほど後に、小宮山と柚木がやってきた。小宮山は人事の責任者でもあるからだ。柚木は、この決定を後押しした張本人でもあり、藤井から一緒に行く様に指示を受けていた。
「これは……すごい有り様だな」
小宮山は、到着して敷地に入ろうとした際に、事務所前の様相を見て驚いた。
「部長。まったくけしからん話です。今時こんな馬鹿騒ぎを起こすなんて。昭和じゃあるまいし」
柚木は言葉に少し怒気を含んでいた。
「社長から指示があったそうだが……本当に大丈夫なのか?」
小宮山は少し疑心暗鬼である。
「ええ、大丈夫です」
ふたりは車を降りると、集団の方に向かった。
「なんだ、あんたらは?」
集まっていた男のひとりが言った。小宮山が説得するべく話そうとするが、それを制して柚木は一歩前に進み出て叫んだ。
「君達、今すぐ解散したまえ! こんな事をやっても無駄だ!」
「はあ? 何だこいつ、偉そうに!」
途端に社員達の声は怒気を帯びていく。
「おい、柚木く……」
小宮山が慌てて抑えようとする。
「君達はこんなところで、こんな事をやっている場合じゃあないだろう」
柚木は続ける。
「君達がいるべき場所はハローワークだろう! こんなところで遊んでいる暇があったら、仕事を探したらどうなんだ!」
「て、てめえ! このやろう!」
ひとりが叫んで柚木に掴みかかると、それに続いて数人が柚木に群がった。
「君達! 落ち着くんだ!」
小宮山が慌てて怒り狂う社員達をなだめようとした。しかし、社員達はそんな小宮山の服をひっぱたり掴みかかったりした。
「うるせえ!」
小宮山は髪を引っ張られた。
「我々は、正当な理由があって君達を解雇するのだ! にもかかわらず君達は暴力に訴えようとしている!」
柚木は叫んだ。大人数に揉みくちゃにされている柚木は、着ているシャツの袖が破れていた。髪が乱れ、鼻血が出ている。どうやら鼻を殴られるか小突かれるかしたらしい。
「ふざけるな! 何が正当な理由だ!」
「そうだ! 勝手な事ばかり言いやがって!」
皆、口々に叫んでいる。
「何をするんだ! 暴力には反対だ!」
柚木はそう叫ぶも、やられるがままだ。
「落ち着け! 落ち着くんだ!」
小宮山も叫ぶが、もはや聞こえていない。
しばらく混乱が続いた後、パトカーのサイレンが聞こえた。皆、動きが止まって辺りを見回す。どうやらここにやってくる様子だ。
パトカーから降りてきた警察官は、
「これは一体何事なんだ! 何があったんだ?」
と言った。すかさず、ボロボロの柚木が叫んだ。
「彼らに暴力を振るわれた! 見てくれ、このザマだ!」
「こ、このやろう!」
再び混乱しそうな緊張感が漂ったが、今度は警察がいる事で暴れはしなかった。
「一体何があったのか説明してほしい」
警察は、ちょうど事務所から出てきた児島繊維の役員達に声をかけた。
「さすがだな。うまく収めてくれたものだ」
藤井は満足そうに語った。
「乱暴な連中でした。一時はどうなるかと思いましたが」
「しかし、大丈夫か? 鼻は殴られたのか?」
「ええ、少し小突かれただけです。大した事はありません」
警察が来て児島繊維の役員達は、仕事の関係でちょっと騒ぎが起きただけで、もう問題ないと説明した。社員達はこれ以上騒ぐと、警察沙汰になったら困ると思ったのか、静かにしていた。
特に柚木に掴みかかったり、殴ったりした者達は——もしかして逮捕されるのでは、と内心ヒヤヒヤしていた。
しかし、柚木はいの間にかおとなしくなっていた。小宮山も少し口論になっただけだと言って、警察は帰った。
後日、児島繊維の人員削減は滞りなく行われた。
「ひどい! そんなやり方って……」
由衣は柚木を非難した。先ほど小宮山から事の次第を聞いたのだ。
「だからどうしたっていうんです? じゃあ、あなたならうまく収束させる事が出来るのですか?」
柚木の見下す様な視線が由衣に刺さる。
「それは……」
由衣は言い淀んだ。
「結局彼らは暴力を振るったんだ。だから当然の事でしょう」
「あんたが振るわせたんでしょう!」
由衣は大声で非難した。
「まったく、普段おとなしい割にこういう時はよく怒る人だ」
柚木は辟易しながら言った。
「……あなたの様な人は、組織を運営していく事は難しいでしょうねえ。そう感情論ばっかり唱えて現実逃避しても、事態は収まらない。そうじゃないですか?」
そう言って由衣の顔を見ると、少し笑った。
「……確かに、うまくはいかないかもしれないけど……でもだからこそ、みんなで協力して、一丸となってやっていけるんじゃないですか。わたしはあんたが言う様な、そんな冷たい会社でなんて絶対に嫌だ!」
「ほほう、そうですか」
柚木はそれだけ言って、立ち去った。
この騒動をどう収めたのかというと、簡単に言えば、社員達に暴力を振るわせれば、こちらは被害者だという事になる。そうすると解雇したいという、会社側の言い分を通しやすくなる。柚木はわざと煽って、そしてされるがままにさせていたのだ。
警察に通報したのも藤井の差し金だった。
「社長、こんなやり方をいつまでも続けていると、必ず足元をすくわれるぞ」
小宮山は険しい顔つきで言い放った。
「小宮山さんは心配しすぎだね。前からそうだが慎重すぎる」
「そんな事はない。ただ何かを始める時、一瞬でもいい。疑問を呈する事を忘れてはいかん。でなくてはいつか取り返しのつかない失敗をする」
「何度も言わせないでほしいな。フジイは、もっと大きくなるんだよ。そうもっと大きく!」
藤井は両手を広げて誇らしげに叫んだ。
「その時、小宮山さんも知る事になると思うよ。僕のやり方がいかに正しかったという事がね」
そう言うと、藤井は背を向けて、ドアの方に向かった。
「まだ話は終わっていない!」
小宮山は大きな声で呼び止めた。ドアノブを握った手が止まる。少し間をおいて、藤井の背中に向かって言った。
「――人間は感情の生き物だ。情を捨てては生きてはいけない。会社にしても同じだ」
小宮山はなおも言う。
「会社は人が集まって機能している。その人をないがしろにして、機能するわけがない。
社長、君の経営者としての手腕は認める。しかし、儲かればそれでいい、そんな人間についていくのは同じ様な人間だけだ。君は知る事になるだろう。それだけでは人はついてこない事を」
小宮山はひと呼吸おいて、静かに言った。
「私は会社を、フジイを辞めさせてもらう」
なおも振り向かない藤井は、一瞬動きが止まった。しかし次の瞬間また歩き出すと、部屋を出て行った。そこには、少なからず動揺の色が見えていた。