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由衣の冒険3  作者: 和瀬井藤
氷の城
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 ——由衣は耳を疑った。全く予想していなかった言葉に心は動揺していた。

「早川さん……すいません。こんな勝手な事」

 難波は真剣な表情で由衣をじっと見ていた。何か、とても固い決意の様なものを感じた。

「……何か、あったのかな?」

「あの、私……なんていうか。ちょっと、趣味の方で」

「趣味?」

 由衣はなんとなくわかってしまった。しかし、難波はその先を言わない。言いにくいのだろう。

「……それは何か趣味でやっていた事を、仕事にしたいから、っていう事なのかな」

「はい、要するにそうですね……絵を描く仕事、イラストレーターをやろうと思っています」

「——イラストレーター」

 由衣は、無意識のうちにつぶやいていた。

「ああ、難波さん。イラストが描けるんだね。それもそうか、確かに絵がうまかった」

 難波は特に自分の趣味について会社で言った事はなかった。当然、同人誌を作っている事なども言ってはいなかった。なので、もちろん由衣は知らなかった。

「私、絵を描く仕事にずっと憧れていました。とはいえ、一度はデザインの道に進んだのだし、趣味で楽しめればいいなと思っていました」

 難波は淡々と話し続ける。

「でも仲間と一緒に活動して、いつの間にか私のイラストを好きだと言ってくれる人もたくさんできて、描いてくれないかって仕事の依頼もきました」

「そ、そうなんだ」

「友達もみんな応援してくれて……早川さん、すいません。本当にすいません。今まで、すごく助けてもらったっていうのに……」

 難波はいつの間にか、うつむいていた。その方はわずかに震えていた。


「――難波さんはすごいね。私なんかじゃもうとても追いつけないな」

 由衣は苦笑いしながら頭を掻いた。

「そ、そんな事ないですよ。早川さんはすごい人だと思いますから」

「難波さんは、プロのイラストレーターになるんだよね。それはすごい事だと思うんだ。そもそも知り合いに、イラストレーターがいるっていうのがもうすでに……」

 由衣は、動揺を隠したい一心で必死に言葉を探した。平静を装うとした。でも、いい言葉はひとつも思い浮かばなかった。いくら探しても駄目だった。

 少しの沈黙があって、難波が口を開いた。

「今まで……本当にどうもありがとうございました」

 難波は頭を下げた。そして、少しだけ由衣の姿をを見たら、「——では」と言ってオフィスに戻って行った。

 由衣はそのまま、何も言えずに立ちすくんでいた。何もできなかった。もちろん難波は、やりたい仕事を実現させて辞めていくのだ。悲しいが笑って送り出してやるべきなのだ。

 しかし由衣は、難波について何かしてやれたのではないかとも思った。それができていたら、イラストは趣味のままで、相変わらず由衣と一緒に仕事をやっていたのかもしれない。

 また、由衣のそばから親しい人が去っていく。

 なのに由衣は何もできない。ただ時間の流れに任せて、事が起こって、そして流れていくのを見守っているだけだった。

 ——どうして何もできないんだろう? 自分のこの性格が恨めしかった。


 月が変わって九月。難波は退職した。夢を実現させて会社を去っていく。由衣としては笑って送り出してやりたかった。

 でもできなかった。先日の送別会の時は笑っていたはずなのだけれど、家に戻ってくるとやっぱり少し泣けてきた。

 人間は生きていれば、出会いと別れは何回もあるし、今までもたくさんの人を見送ってきた。もしかしたら、今まではせき止められていた涙が、今回の難波で漏れ出して来たのかもしれない。

 由衣は日が落ちて真っ暗になった窓の外を眺めて、様々に思いを巡らせていた。

 ——自分はいつまで働くのだろう? 年齢は重ねていっても、身体は全く老いる事のない由衣は、どこにゴールがあるのだろう。どこまで歩けばいいのだろう? そんな事を考えて、遠く車のヘッドライトが流れていく様をしばらく眺めていた。


 翌日、この日も残業で由衣は最後までオフィスに残っていた。そんな時、小宮山が開発課のオフィスに入ってきた。

「いつも残業、大変だな」

「あ、小宮山さん。お疲れさまです」

「どうかね? 開発課は。人事が人を探しているそうだが。今のところは大丈夫かね?」

 小宮山は缶コーヒーを二本持ってきていた。そのうちのカフェオレを由衣に渡して、もう一本のブラックを開けて、ひと口飲んだ。そして空いている椅子に腰をかけた。


「——昔からの人間がだんだん減っていくな」

 小宮山は、そう呟くと小さく笑みを作った。

「そうですね……」

 由衣は終始うつむいていた。

「人と出会い、そして別れていくのは当然だろう。そう気を落すな」

「はあ……」

「難波さんとは親しい様だったから、残念に思うのはわかる」

 小宮山は缶コーヒーをひと口飲んだ。

「だが、いつまでも引きずってはいかんな。気持ちは切り替えないと」

「え、ええ……まあ」


「……小宮山さん、小宮山さんは大丈夫ですよね?」

「何がだ?」

 小宮山は由衣の顔を見た。

「小宮山さんは、辞めたりなんか……」

「それはわからん。社長は意見の合わない者を排除する傾向がある。私など裏では目の敵にされててもおかしくはない」

「そんな……」

「どちらにせよ、世の中には永遠などないよ。まさに世界は無常だ」

 小宮山は最後のひと口を飲んで、椅子から立ち上がった。

「では、仕事に戻るか。——早川さん、無理はするなよ。休みたい時は遠慮なく休め」

 そう言って、小宮山は部屋を出た。


 数日後の夕暮れ時。数人いたオフィス内もいつの間にか由衣と岡崎だけになっていた。ふと岡崎が机の上を片付け始めた。どうやら終わらせたらしい。

「課長。まだ続けますか?」

 岡崎はそう言って由衣の方を見た。

「うん、もうちょっとかかりそうだから」

「わかりました。どのくらいかかりそうですか?」

「そうだな、九時までには終わらせたいと思う」

「わかりました。本部にそう伝えておきます。お疲れ様でした」

「――お疲れ様」

 岡崎は部屋を出ていった。

 由衣はそれから少しして、ひと息つく為に休憩所の自動販売機に飲み物を買いに行った。


 オフィスに戻ってくると、再び作業を再開した。由衣だけしかいない開発課の部屋でキーボードを叩く音だけが小さく響いていた。

 ふと時計を見ると午後八時を過ぎている。外はもう真っ暗だ。

 不意に、由衣は思わず両肩を抱いた。急に寒気がしたのだ。そのままうつむいて、机の上にうつ伏せた。しばらくそのままじっとしていた。目を瞑ると眠ってしまいそうだ。

 少しして、体を起こして周囲を見渡すと、視界に映る部屋の壁が、いつの間にか透明の壁に変わっていた。そして由衣の心は急激に冷えていった。

 ——寒い。どうしてこんなに寒いのだろう? ここはどこ? ここはどうして……。

 ——冷たい、とても冷たい……とても……。


 ……どのくらい時間が経っただろうか、由衣は体を起こして時計を見ると、すでに午後九時を過ぎていた。

「……おっと、いけない」

 ディスプレイを見ると、やっていた作業はほぼ出来上がっていた。もう少しである。急いで完了させると、慌てて片付けてオフィスを出た。

 ――九時まで終わらせるつもりで、過ぎているんだから何か言われるかな……。

 由衣は本部のオフィスにまだ明かりがついているのを見て、室内に入った。中にはひとりだけ、小宮山がいた。

「すいません。遅くなりました」

「ああ、構わんよ。もう帰るかね」

「はい、小宮山さんは?」

「もうちょっとやってからだ。お疲れさん」

「お疲れ様でした」

 由衣は本部のオフィスを出ていった。それから事務所を出て、駐車場に向かった。自分の車のロックを解除してドアを開けると、乗り込む際に会社の建物を見た。

 暗い闇夜に、外灯で照らされる会社の建物。その姿は、由衣の瞳にはどう映ったのか? 由衣はエンジンをかけると、車を発進させた。

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