四
由衣は最近「Y&H」によく通っている。自宅から比較的近い場所にあるし、中村とはよく話せるし、朝昼晩と食事もできるので、非常に便利なのだ。
中村の妻である裕子は料理が得意で、様々な料理を作ってくれた。好き嫌いの多い由衣の好みに合わせて、いつも美味しい料理をつくってくれる。
今日は土曜日で、久しぶりに残業をせずに帰宅した。なので「Y&H」で夕食を食べようと、早速やってきたのだった。
「やあ、いらっしゃい」
店内に入ってきた由衣に中村は声をかけた。
「こんばんは、晩ご飯食べに来ました」
由衣はそう言って、カウンターの席に座った。
「何にする?」
「うーん、今日は何がいいかな……」
由衣はメニューを眺めた。メニューは日によって違っていて、今日はカレーライス、ハンバーグ、鯖の味噌煮などがあった。由衣はカレーライスにした。
「由衣ちゃん、ご飯どのくらいにする?」
裕子が聞いてきた。由衣は、この程度で、と大体の量を言った。
「はいはい。でも、もうちょっと食べた方がいいわよ」
「いやあ、それくらいで十分です。それでも結構食べられる様になったし」
苦笑いしながら話していると、客が入ってきた様だ。
「——いらっしゃい」
入ってきた客は、小野田貴男だった。
「——いやあ、暑いねえ。もううんざりだ」
ぐちぐち言いながら、由衣の姿を見つけると、早速その隣に座った。そして、満面の笑みで話しかけてきた。
「やあ、由衣ちゃん。久しぶり」
「あ、えっと……せ、瀬戸先生……ど、どうも」
その正体を知っているせいか、どうも緊張気味である。小野田は唖然とした表情で由衣を見た。
「……あれ? ど、どこでそれを? ヒロ、お前バラしたな。全く……」
「ははは、別に隠す事でもないだろう。テレビタレントでもあるまいし」
中村は小野田に水のグラスを出しながら言った。
「あ、あの……先生の小説、とても面白くて……」
「あ、いや……由衣ちゃん、そうかしこまられると僕も困ってしまうが……」
小野田は困惑していた。逆にどう反応していいか、困ってしまった様子だ。
「そ、そうですか?」
由衣は相変わらずかしこまっていた。
「由衣ちゃん。貴男は作家ではあるけど、今目の前にいるのはただの中年親父だよ。普通に接してやってほしいな」
「ただの中年親父とは言ってくれるな。まあ、その通りなんだが……」
「で、でも……」
由衣は、そうは言われても……と思い、簡単には変えられない。どうしたものかと戸惑っていると、
「まあ——なんだ。由衣ちゃんって細いね。もうちょっと食べた方がいいよ。それでこう、おっぱいも……」
小野田はつぶやきながら、由衣の胸に手が伸びる。
「——ちょー、ちょっと! どさくさ紛れに何しようとしてるんですか!」
由衣は慌てて、小野田から距離をとった。
「どれ、どのくらい成長して……え? 何、その汚いものを見る様な目は」
小野田は、由衣や中村から軽蔑の眼差しで睨まれているのに気がついた。
「じょ、冗談に決まっているだろう。こう、場を和ませようとしてだね……」
しかし、周囲の冷めた視線は変わらなかった。小野田は両手を小さくあげて呟いた。
「……はあ。やれやれ困ったものだね」
カレーライスを食べ終わり、中村や小野田と雑談していた。由衣はカウンターの上で腕を組んで、その上に顎を置いていた。どうも表情は暗い。
「——わたし、なんかもう会社に行くのが億劫になってきました」
「どうしたの? 何か辛い事でもあったかい?」
中村が言った。
「ええ、まあ……」
「由衣ちゃんは、いつもそうだが暗いねえ。かわいい顔が台無しだ」
小野田は由衣の顔をしげしげと眺めながら呟いた。
「そんなに暗いですかね?」
「前の時もそうだが、どうも暗いねえ。ウジウジしてるよ」
「ウジウジって……まあ、それは否定できないです。やっぱり自分でもそう思うし……」
「そんなだから暗くなるんだよ。もっと笑ったらどうだい。ほーら」
小野田はそう言うと、由衣の脇をくすぐろうとした。
「お、小野田さん! 何しようとするんですか」
「な、何を言っとるのかね。僕はただ、由衣ちゃんのおっぱ……じゃない、脇をくすぐって笑わせてやろうとね」
「小野田さん……」
「貴男……」
「な、何だ! またその目は! まるで犯罪者を見る様な目は!」
「貴男、呆れてものが言えないな……」
「……全く、君達はジョークを理解しない様だねえ」
「何かはじめてみたらどうかね」
小野田は提案した。
「――何か、ですか?」
「うん。由衣ちゃんさ、嫌な事があるなら気分転換した方がいいだろう。時には違う事とかやってみるのもいいかもよ」
「違う事……かあ。でも何を」
「——それを考えてみるのもいいんじゃないのかな」
中村が言った。
「なるほど、それもそうですね」
「由衣ちゃんは頭いいよねえ。あれなんかどうだい。株とか」
小野田は思いついた事を口にした。
「株って……どうなんですかね、考えた事はあるんですけど」
由衣は以前に投資を考えていた事もあった。フジイでしばらく働いてきて、収入も安定している上に忙しい事が多く、あまりお金を使っていなかった。その為、特に貯金をしているわけではないが、口座には一千万円程度のお金があった。
フジイに入社して、わずか三年でこの金額まで貯まっていた。
「大儲けできるかもしれないよ」
小野田はニヤニヤしている。
「そんな簡単な話ですかね? よくは知らないけど、運とかもあるんじゃ……」
「うーん、それもあるだろうけど、何が上がるかを見極める『眼』が重要じゃあないかな」
中村はその様に分析した。確かにどの銘柄が上がるのか、それを予測する必要があるのだから、そうだろう。
「『眼』ですか」
由衣は少し上を見上げて考えた。
「あと……忍耐力とか?」
小野田が言った。
「忍耐力……? まあとにかく、やっぱり難しそうですね。そういえば、小野田さんはやっているんですか?」
「僕はやってないよ。だって損しそうだし」
さも当然だろ、という風で言った。
「損しそうなものを人にやれって言ってるんですか」
由衣は途端に不審な目で小野田を睨んだ。
「いや、由衣ちゃんなら大丈夫なんじゃない。……多分」
「多分って……」
由衣は小野田のいい加減さに開いた口が塞がらなかった。
「まあさ、生きてりゃ辛い事も楽しい事もたくさんあるもんだ。辛い時は休めばいい。何言われてもサボりゃあいいんだ」
「——そうでしょうか」
「どうしても辛くて逃げたくなったら、遠慮なくやめちゃえばいいんだよ」
小野田は言った。
「それでどこかに旅行とか行って、うまいもの食べて、温泉入ってさ。いい気分だなって」
「——小野田さん」
由衣は、微笑みかける小野田の顔を見た。それはとても輝いて見えた。
「……それでだが、もし旅行に行くなら僕となんてどう? ふたりっきりで」
途端にニヤニヤした顔になった。
「け、結構です!」
「そんなに強く否定しなくても……」
しばらくして、小野田は帰っていった。由衣は小野田の言っていた事を頭の中で復唱する。
——時には休む事も必要……その通りだ。でもまだ逃げるわけにはいかない。心はまだ折れるには早い。でも今後も仕事をやっていくうえでは、少し休みを取らないと厳しいかもしれない。
そう考えて、由衣はまた明日から始まる仕事に向かっていくのだった。
翌日、朝のミーティングの後。由衣は今日の業務第一弾を行うべく準備していた。そうしていると、難波が側にやってきた。
「どうしたの? 難波さん」
由衣が尋ねると、難波にオフィスの外へ呼ばれてついて行った。
「何か相談事?」
「あの、早川さん……その」
難波はどうも言いにくそうで、なかなか言葉が出てこない。由衣はさらに問いかける。
「何かあったのかな?」
難波は意を決した様に口を開いた。ついに飛び出した言葉は、由衣には予期しない言葉だった。
「——私、会社を辞めようと思います」