表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
由衣の冒険3  作者: 和瀬井藤
氷の城
26/32

 由衣は最近「Y&H」によく通っている。自宅から比較的近い場所にあるし、中村とはよく話せるし、朝昼晩と食事もできるので、非常に便利なのだ。

 中村の妻である裕子は料理が得意で、様々な料理を作ってくれた。好き嫌いの多い由衣の好みに合わせて、いつも美味しい料理をつくってくれる。

 今日は土曜日で、久しぶりに残業をせずに帰宅した。なので「Y&H」で夕食を食べようと、早速やってきたのだった。


「やあ、いらっしゃい」

 店内に入ってきた由衣に中村は声をかけた。

「こんばんは、晩ご飯食べに来ました」

 由衣はそう言って、カウンターの席に座った。

「何にする?」

「うーん、今日は何がいいかな……」

 由衣はメニューを眺めた。メニューは日によって違っていて、今日はカレーライス、ハンバーグ、鯖の味噌煮などがあった。由衣はカレーライスにした。

「由衣ちゃん、ご飯どのくらいにする?」

 裕子が聞いてきた。由衣は、この程度で、と大体の量を言った。

「はいはい。でも、もうちょっと食べた方がいいわよ」

「いやあ、それくらいで十分です。それでも結構食べられる様になったし」

 苦笑いしながら話していると、客が入ってきた様だ。


「——いらっしゃい」

 入ってきた客は、小野田貴男だった。

「——いやあ、暑いねえ。もううんざりだ」

 ぐちぐち言いながら、由衣の姿を見つけると、早速その隣に座った。そして、満面の笑みで話しかけてきた。

「やあ、由衣ちゃん。久しぶり」

「あ、えっと……せ、瀬戸先生……ど、どうも」

 その正体を知っているせいか、どうも緊張気味である。小野田は唖然とした表情で由衣を見た。

「……あれ? ど、どこでそれを? ヒロ、お前バラしたな。全く……」

「ははは、別に隠す事でもないだろう。テレビタレントでもあるまいし」

 中村は小野田に水のグラスを出しながら言った。

「あ、あの……先生の小説、とても面白くて……」

「あ、いや……由衣ちゃん、そうかしこまられると僕も困ってしまうが……」

 小野田は困惑していた。逆にどう反応していいか、困ってしまった様子だ。

「そ、そうですか?」

 由衣は相変わらずかしこまっていた。

「由衣ちゃん。貴男は作家ではあるけど、今目の前にいるのはただの中年親父だよ。普通に接してやってほしいな」

「ただの中年親父とは言ってくれるな。まあ、その通りなんだが……」

「で、でも……」

 由衣は、そうは言われても……と思い、簡単には変えられない。どうしたものかと戸惑っていると、

「まあ——なんだ。由衣ちゃんって細いね。もうちょっと食べた方がいいよ。それでこう、おっぱいも……」

 小野田はつぶやきながら、由衣の胸に手が伸びる。

「——ちょー、ちょっと! どさくさ紛れに何しようとしてるんですか!」

 由衣は慌てて、小野田から距離をとった。

「どれ、どのくらい成長して……え? 何、その汚いものを見る様な目は」

 小野田は、由衣や中村から軽蔑の眼差しで睨まれているのに気がついた。

「じょ、冗談に決まっているだろう。こう、場を和ませようとしてだね……」

 しかし、周囲の冷めた視線は変わらなかった。小野田は両手を小さくあげて呟いた。

「……はあ。やれやれ困ったものだね」


 カレーライスを食べ終わり、中村や小野田と雑談していた。由衣はカウンターの上で腕を組んで、その上に顎を置いていた。どうも表情は暗い。

「——わたし、なんかもう会社に行くのが億劫になってきました」

「どうしたの? 何か辛い事でもあったかい?」

 中村が言った。

「ええ、まあ……」

「由衣ちゃんは、いつもそうだが暗いねえ。かわいい顔が台無しだ」

 小野田は由衣の顔をしげしげと眺めながら呟いた。

「そんなに暗いですかね?」

「前の時もそうだが、どうも暗いねえ。ウジウジしてるよ」

「ウジウジって……まあ、それは否定できないです。やっぱり自分でもそう思うし……」

「そんなだから暗くなるんだよ。もっと笑ったらどうだい。ほーら」

 小野田はそう言うと、由衣の脇をくすぐろうとした。

「お、小野田さん! 何しようとするんですか」

「な、何を言っとるのかね。僕はただ、由衣ちゃんのおっぱ……じゃない、脇をくすぐって笑わせてやろうとね」

「小野田さん……」

「貴男……」

「な、何だ! またその目は! まるで犯罪者を見る様な目は!」

「貴男、呆れてものが言えないな……」

「……全く、君達はジョークを理解しない様だねえ」


「何かはじめてみたらどうかね」

 小野田は提案した。

「――何か、ですか?」

「うん。由衣ちゃんさ、嫌な事があるなら気分転換した方がいいだろう。時には違う事とかやってみるのもいいかもよ」

「違う事……かあ。でも何を」

「——それを考えてみるのもいいんじゃないのかな」

 中村が言った。

「なるほど、それもそうですね」

「由衣ちゃんは頭いいよねえ。あれなんかどうだい。株とか」

 小野田は思いついた事を口にした。

「株って……どうなんですかね、考えた事はあるんですけど」

 由衣は以前に投資を考えていた事もあった。フジイでしばらく働いてきて、収入も安定している上に忙しい事が多く、あまりお金を使っていなかった。その為、特に貯金をしているわけではないが、口座には一千万円程度のお金があった。

 フジイに入社して、わずか三年でこの金額まで貯まっていた。

「大儲けできるかもしれないよ」

 小野田はニヤニヤしている。

「そんな簡単な話ですかね? よくは知らないけど、運とかもあるんじゃ……」

「うーん、それもあるだろうけど、何が上がるかを見極める『眼』が重要じゃあないかな」

 中村はその様に分析した。確かにどの銘柄が上がるのか、それを予測する必要があるのだから、そうだろう。

「『眼』ですか」

 由衣は少し上を見上げて考えた。

「あと……忍耐力とか?」

 小野田が言った。

「忍耐力……? まあとにかく、やっぱり難しそうですね。そういえば、小野田さんはやっているんですか?」

「僕はやってないよ。だって損しそうだし」

 さも当然だろ、という風で言った。

「損しそうなものを人にやれって言ってるんですか」

 由衣は途端に不審な目で小野田を睨んだ。

「いや、由衣ちゃんなら大丈夫なんじゃない。……多分」

「多分って……」

 由衣は小野田のいい加減さに開いた口が塞がらなかった。


「まあさ、生きてりゃ辛い事も楽しい事もたくさんあるもんだ。辛い時は休めばいい。何言われてもサボりゃあいいんだ」

「——そうでしょうか」

「どうしても辛くて逃げたくなったら、遠慮なくやめちゃえばいいんだよ」

 小野田は言った。

「それでどこかに旅行とか行って、うまいもの食べて、温泉入ってさ。いい気分だなって」

「——小野田さん」

 由衣は、微笑みかける小野田の顔を見た。それはとても輝いて見えた。

「……それでだが、もし旅行に行くなら僕となんてどう? ふたりっきりで」

 途端にニヤニヤした顔になった。

「け、結構です!」

「そんなに強く否定しなくても……」


 しばらくして、小野田は帰っていった。由衣は小野田の言っていた事を頭の中で復唱する。

 ——時には休む事も必要……その通りだ。でもまだ逃げるわけにはいかない。心はまだ折れるには早い。でも今後も仕事をやっていくうえでは、少し休みを取らないと厳しいかもしれない。

 そう考えて、由衣はまた明日から始まる仕事に向かっていくのだった。


 翌日、朝のミーティングの後。由衣は今日の業務第一弾を行うべく準備していた。そうしていると、難波が側にやってきた。

「どうしたの? 難波さん」

 由衣が尋ねると、難波にオフィスの外へ呼ばれてついて行った。

「何か相談事?」

「あの、早川さん……その」

 難波はどうも言いにくそうで、なかなか言葉が出てこない。由衣はさらに問いかける。

「何かあったのかな?」

 難波は意を決した様に口を開いた。ついに飛び出した言葉は、由衣には予期しない言葉だった。

「——私、会社を辞めようと思います」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ