三
『……でさ、やっぱあれの方がいいよね』
「うん、じゃあそうする?」
『そうしようよ。じゃあ、それで……じゃね、おやすみ』
「おやすみ」
難波は電話を終えるとスマホを机において、椅子にもたれかかった。
「やっぱあれにするかあ……」
難波は机に向かって絵を描いていた。なかなか可愛らしいイラストで、最近はCGが多いにもかかわらず、難波は鉛筆と筆を使ってアナログに描いている。
難波はイラストを描くのが昔からの趣味で、高校生では美術部に所属し、美大に進学、そこでデザインに興味を持って、就職はデザインの方に進んだ。
しかし、プライベートでは趣味でイラストを描いていた。同じ趣味の仲間とグループを作って、同人誌を発行するなど、相当力を入れて活動していた。
日曜日、難波の家に友達が来ていた。高校時代からの友達で河原里香という。彼女もイラストを描く趣味があり、会社員をしながら趣味でイラストを描いていた。
「はあ……行きたいなあ、コミケ。私もう何年参加してないんだっけ……」
難波はため息まじりにつぶやく。
「そういえば去年もダメだったよね。やっぱ仕事忙しいの?」
河原はそう言って、チョコレートをひとつ手に取ると、口の中に放り込んだ。
「うん、かなり。今年に入ってからは、いくらかましになった気がするけど……夏コミもちょっと無理かもしれない」
「うーん、うちのサークルの看板がいっつも不参加は問題よねえ」
「看板って……そんな事ないよ」
難波は謙遜した。——謙遜したが、実際のところ難波は仲間で作ったサークル「色の庭」のメンバーでは一番人気だった。季刊で製作しているサークル誌では、大概が難波が表紙を担当している。当然人気があるからだ。
また、難波は「なんばあゆみ」のペンネームで活動しているが、サークル誌以外に個人の同人誌も時々作っている。
「歩美が表紙の時と、あたしが表紙の時の売り上げなんて目に見えて違うんだから。ホントよ」
「そ、そうかなあ……」
難波は照れ臭そうに笑った。
「まあ……アッちゃんもマリコも、サトもさ。やっぱ歩美にも一緒に参加したいって言ってるし。どうにかならない?」
「一応、会社には言ってみるよ。やっぱ参加したいもん。先月ね、埼玉のサークルの人……「ポワルージュ」のエリーさん。メールで夏コミはどうなの? って。久しぶりに会いたいってメールが来てね。私も会いたいなあって思って」
「そりゃ絶対参加しなきゃ。そういえばエリーさんって冬の時も、あゆみさんは来てないの? って言ってたねえ」
河原はコーヒーをひと口飲んだ。
「でも大丈夫かなあ、まあ頑張ってみるよ」
難波は由衣のところにやってきた。
「早川さん、あのうちょっといいですか?」
「どうしたの?」
由衣は難波の顔を見た。
「今年のお盆休みはどうなりますかね?」
難波の顔は少し不安げである。
「盆休みかあ、もしかして何か用事が?」
「ええ、まあ。できたら数日休みを取りたいなあと……」
「うん、まあ大丈夫だと思うけど……多分、あの計画が始まる頃と重なるかもしれないから、スタッフにはちゃんと対応できるようにしておいて欲しいな」
「は、はい! ありがとうございます!」
「あ、いや。本来、有給に許可なんていらないはずだし」
「そんな事ないです、相談した甲斐がありました!」
難波は満面の笑みで、自分の席に戻った。
『やっぱ最高だったね! やっぱ歩美が来たら違うわ』
「そんな事ないわよ。でも本当に楽しかった! 冬コミはどうなるかわからないけど、なるべく参加できる様にしたいな」
『そうそう。みんな楽しみにしてるんだから』
「うふふ、ありがと。じゃあ、また電話するね。おやすみ」
『おやすみ』
夏コミから帰ってきた難波は、満足感でいっぱいだった。
疲れもあるし、明後日からまた仕事である事もあって早めに寝る事にした。そうしてベッドに入って間もなく眠りに入った。楽しい夢が見られそうだった。
翌日の朝……というかもう昼に近い時間、難波は携帯の着信音で目が覚めた。
「……はいはい、えっと」
スマホを手に取ると、見慣れない番号である。とりあえず出てみると、やはり知らない人物だった。
「もしもし、難波ですけど……」
『どうも、おはようございます。東京芸術社の「彩」編集部、編集の岡島と言います』
「は、はい……」
『一昨日はどうもありがとうございました』
「は、はあ」
一昨日はコミックマーケットの最終日だ。そう、確かに岡島という女性と会った覚えがあった。名刺交換などして、しばらく色々と話をした。
『いろいろ話し合ったのですが、是非描いてもらいたいとの判断で、詳しい話をしたいのですが……後日時間が取れそうですか?』
「え? ……私が?」
難波は電話の相手に聞き返した。
『そうです、了解できるなら後日詳しい事を話し合いたいのです』
「は、はあ……」
一体なんの話だったのかというと、まず電話の相手はアート系情報誌「彩」の編集者だった。簡単に言うと、この「彩」の表紙イラストを依頼したいという話だった。
この「彩」という雑誌は月刊誌で、この種の情報誌ではイラスト系に寄った内容だ。人気も安定して高く、難波も毎月購読していた。
その雑誌の表紙を描いてほしいという話なのだ。しかも一回のみではなく、最低でも一年以上の契約でという事である。現在描いているイラストレーターとの契約が十一月号で終了する為、あちこちで探していた。
また、他にも色々と計画しているらしく、専業のイラストレーターとして十分やっていけそうな話だった。
難波は心臓の鼓動がとても速くなっているのに気がついた。眠気も一気に吹き飛んだ。もう舞い上がって、踊りだしたい気分である。早速、河原に電話した。
『ええ! 本当に? すごい! ホントにすごい!』
電話口からも河原の興奮が伝わってきた。
「もう私どうしようかなって。ちょっともう、震えちゃって……」
『とうとう、あたしの友達からプロが誕生したかあ』
「いや、まだ決めた訳じゃ……」
『ええ? 本当に言ってんの?』
「う、うん。まあ……」
『こんなチャンスないよ。絶対やるべき』
「うーん。でもねえ……」
難波の反応はどうも曖昧だった。
「プロのイラストレーターか……。一度は目指した道だけどね」
難波はそうつぶやいて、ソファに寝転がった。しばらく考え込んで、起き上がると机に向かって画用紙を取り出した。
難波は画用紙に直接描きこんで、完成してからスキャナでパソコンに取り込む方式だ。あまり凝ったやり方をせず、素朴な感じがむしろ好評なのだ。
何も考えずにひたすら描く。難波自身にも何が描けるかよくわからない。どうして今描こうと思ったかもわからない。
何がなんだかわからない、ヘンテコなものが描けた。
「うふふ、なんだこれ」
思わず笑ってしまった。それからすぐに笑顔が消えた。静かに鉛筆を置いて、机の上に突っ伏した。
「どうしようかな……」
翌日、難波は由衣のところにやってきた。
「あの、早川さん」
「うん? どうしたの?」
由衣は、作業の手を止めて難波を見た。
「あのですね、実は……」
「——課長、福山化学の須藤さんから電話です」
電話を取ったスタッフが、由衣に言った。
「わかった。……難波さん、ごめん、ちょっと待ってて」
そう言って、由衣は受話器を手に取った。
「ああ、いや。また今度でいいです」
「そうなの?」
「ええ……」