三
二月下旬、由衣にはまた寂しい出来事があった。
工務の向井が辞めるという。藤井工業だった頃からの、よく知っている古参の社員だった。色々と助けてもらったり、親しくしてもらっていただけに、由衣は動揺を隠せなかった。
その噂を聞いた由衣は、折をみて向井に会いにいった。ちょうどひと仕事終えて休憩に戻るところだった。
「よう、早川さん。どうしたん?」
向井は由衣を見かけて声をかけた。
「……向井さん、辞めるって聞いたんですが……どうして?」
「ははは、いやまあ。いい会社が見つかってね。ここも給料は悪くないけど」
「そ、そうなんですか……」
「まあ、ここも長く安泰なんだろうけど……やっぱりここは俺の仕事とはちょっと違うしね。やっぱり俺には鉄工所の職人が似合うよ」
向井は少し照れ臭そうに話した。
「早川さんは、頑張ってくれよ。いい仕事してるじゃん」
「いえ、まだまだというか、至らないところも多いです」
「何言ってんだ。早川さんあってのフジイだろ。もっと自信持ってもいいんだぜ!」
向井はそう言って、由衣の背中を強く叩いた。少し前のめりそうになる。でも、その力強さは向井の激励だと感じられ、少し嬉しくもあった。
「――向井さん、新しい職場はどこにしたんですか?」
「広田鉄工ってところだ。そこに連れがいてね。前に飲みに行った時に、来ないかって誘われてさ」
「へぇ、大きい会社なんですか?」
「そんなに大きくはないな。社員も十二人だったか。でも向いてるんだよな。俺には」
広田鉄工は小規模の鉄工所で有限会社だ。水島の元請け鉄工所から仕事を受注している。
「良いじゃないですか。やっぱりやりたい仕事って大事だと思います」
由衣は笑顔で言った。
「ははは、そうだな。それに今のご時世、こうやって誘ってくれるやつがいるだけでも幸せなもんだ」
「それは向井さんが優秀だからですよ」
「はは! わかる? そうだよな。俺って優秀だから! ってね」
向井はわざとらしくおどけてみせた。
「あはは」
由衣もあわせる様に笑った。
「今週は来て、来週から有給使い切るつもりなんだ。もう数日だけど、怪我無い様に気をつけなきゃな」
「はい、それじゃあ……」
向井は軽く手を挙げて、工務課の部屋の方に歩いていった。由衣はその後ろ姿をずっと見送っていた。そのまましばらく立ちすくんでいた。
由衣はその間、えも言われぬ寂しさを感じていた。
――向井さんも会社を去っていく。わたしより以前から会社にいた人が辞めるのも三人目か……。
そんな事を考えていた時、ふと視界に難波の姿を見つけた。難波も由衣の姿に気がつくと、こっちやってきた。
「早川さん、もう時間ですよ。企画会議の時間!」
難波は慌てた様子で、そう言った。
「あ、そうだった。ごめん」
由衣は腕時計を見て駆け出した。
「ではこれから始める」
小宮山は会議の進行役をよくやっている。今回もそうだった。
「まず今回の議題を社長の方から……」
藤井は立ち上がって、正面のホワイトボードの方にいった。
「最近、時代の流れが急速になっている。半年前には盤石だった計画が、今では全く過去の遺物になってしまう様な速さだ。我々もそのスピードに対応していかねばならない」
藤井は腕を振り上げて熱弁している。
「また、次々と新しい技術が生み出され、新しい商品が世に出てきている。今までどおりはもう許されない。我々も変わっていかねばならない!」
次第にヒートアップしていく藤井。
「僕らは今まで、家具インテリアなどをメインにおいてきた。これはこれでいい。現在の売り上げも好調だ。しかし! これだけではその後、確実に失速するだろう! そこでだ。新しい事業をスタートさせる事を提案する」
藤井はそう言うと、ホワイトボードに書き始めた。
<アウトドア事業>
由衣はそれを見て、やっぱりやるのか……と思った。以前デザインした工員向けの作業服は三ヶ月ほど前に全社員に配布され、好評を得ていた。しかし、その後もデザインや機能の改良、安価なバージョンも作れないかと、様々な指示があった。また、それを匂わせる小物類の試作も指示されていた。
「アウトドアですか。まあ、確かに近年はますます人気が出ているらしいですな。私も時々友人と登山に行ったりするし、人気の高さは実感しますね」
製造課の若田が言った。
「そうだろう。うちで持っている技術を意外と活かしやすいのも都合がいいのだ」
「ちょっと待ってくれ。いきなり突拍子もない方向に行きすぎではないか? アウトドア用品など、本当に技術を生かせるのか? 全くノウハウも経験もない様に感じるが」
なんの疑いもなく話が進みそうなのを、小宮山が待ったをかけた。
「活かせる要素はいろいろとある。後で説明する」
藤井は小宮山に反論する。
「……あ、あの。わたしもどうかと思います。そう簡単にいくとは思えません。それにアウトドアは、激戦区と言っていいんじゃないでしょうか? 食い込んでいけるかどうか……」
由衣も慎重論を唱えた。
「その弱気がダメなんだ。新しい事をはずめるのにリスクはつきものだ!」
藤井はすかさず由衣に応戦した。
「フジイのブランド認知度は悪くないでしょう。これを生かして、まず一点だけ集中して仕掛ければ、余裕で食い込んでいけるでしょう。そうすれば自ずと道は開けますね。そして、それはそう難しいとは思いませんね」
営業の柚木は藤井を援護した。
「何を根拠にそんな事……」
「早川課長、あなたは商品開発においては優れた能力と実績をお持ちでしょう。しかし、マーケティングなどはさほど得意だとは思えませんねえ。私の目で見て、この事業は比較的手堅いと思いますよ。何より……」
柚木は得意の弁舌で、さらに由衣を圧倒する。口下手な由衣には歯が立たない。由衣には柚木の言う事も、いまいち見通しが甘すぎると感じたが、言い返せなかった。
「そうだろう。そうしてどんどん成長するんだ。まだまだこんなものじゃない!」
藤井の熱弁の前に、結局何も言えなくなってしまった。
「しかし、アウトドアは製品の種類は膨大ですよ。どの方面に展開するつもりですか?」
販売課の谷田が言った。
「そうだ。それなんだが、とりあえずウェアだ。これは開発の方で素晴らしい作業服を作った。これをさらに改良したものを試作している最中だ」
「テントや折りたたみ椅子の方がよいのでは? ノウハウはありますし」
若田が言った。
「うむ、まあ当然その方面も考えている。しかしとりあえずはウェアだ。それで――開発の方ですでに様々考えさせてある」
そう言うと、藤井はあれこれ説明を始めた。
ひとしきり話し終えると、藤井は由衣の方を見た。
「じゃあ次だ。これもとっておきなんだ。早川さん、資料を」
「――あ、すいません。持ってきます」
由衣は慌てて席を立つ。今日の会議用に資料を用意しておいたものの、うっかり持ってき忘れてしまった。
「おいおい、何やってんだ。事前に言っておいただろう。早く持ってきてくれ」
藤井は由衣の後ろ姿を睨んだ。
由衣は内心、向井の事で頭がいっぱいだった。向井が退社する事自体で、そこまで残念な気持ちになっているわけではなかった。まったく根拠はないが、その後このままズルズルと芋づる式に、よく知った人達が会社を去っていってしまわないか、そんな事が頭の片隅をかすめたのだ。
由衣にとって嫌な予感はいつも当たる。嬉しい予感はいつも外れるのに。どうしてそうなんだろう。どうして……。
その後も、開発課で用意した資料を基に会議が続いたが、由衣は散々だった。
――今日はもう、本当に駄目な日だ……。
ふと見た窓の外は、由衣の心の中と同じ様な曇り空だった。