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由衣の冒険3  作者: 和瀬井藤
スターティングオーバー
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 藤井工業の事務所の二階、しばらく使われておらず倉庫になっていた部屋の中。ひとりきりで少女がパソコンに向き合い、真剣な顔つきで仕事をしていた。

 由衣は「開発室」と書かれたドアの向こうで仕事をしている。CADという製図をする為のソフトを使って製品の図面を制作しているのだ。

 パソコンのディスプレイに表示される製品の図面は、だいたい八割程度といったところで、今日中に仕上げるつもりにしている。今はもう十六時、この調子では多分残業になるだろう。


「ふう……」

 区切りのよいところまで来て、椅子の背もたれにグッともたれかかって背伸びした。由衣が<若返り>発症後に転職して仕事を始めて、そろそろ二ヶ月くらいなるだろうか。そろそろ仕事をする事にも慣れてきたつもりだった。

 とはいえ、今のようなパソコンの前で仕事をするのは慣れていない。それまでは金属加工の職人であり、力仕事も多かった。そういう仕事をずっとやってきたからなのだろう。

 しかしこの仕事は、とても楽しい。今までは製品自体を作る仕事だったが、今はその製品をどんなものにするかを設計する仕事なのだ。毎日大変な仕事ではあるけれど、思った以上にやり甲斐のある仕事だった。

 静かな部屋に車の音が小さく聞こえる。工場からは機械の作動音が響いている。由衣の仕事がここにある。


「毎日、毎日……騒々しいねえ」

 藤井は窓の外を見ながら呟いた。外では選挙の街宣車が、自身の政策主張を叫んでいる。現在衆議院選挙の真っ最中であり、来週の日曜日が投票日だ。

「選挙か……ケンゾウ爺さんは引退したし、どうなるかねえ」

「一区は井沢の地盤だろう。あの宇多川という新人が勝つだろうな。そのまま引き継いだのだから」

 小宮山が言った。

 ――藤井工業のある岡山一区は、井沢兼造という大物の選挙区であったが、今回の選挙で引退した為、甥の宇多川真一郎が出馬する事になった。宇多川は井沢の妹の息子である。数年前に外務省を辞めて井沢の秘書になった。その頃から、井沢の後継者となるのではないかと噂されていた。

「でも、それじゃあ面白くないね。せっかくケンゾウ爺さんが退いたんだから、大混戦になってもいいけどねえ」

「まあ、宇多川を見る限りでは……ほぼ決まった様なものだろう。民新も社会党もパッとしない」

 ――岡山一区では、宇多川の自由党以外に、民主新生党と社会党から候補者が出る。しかし井沢の甥というのはやはり強力で、宇多川のひとり勝ちで決まった様なものであった。

「そうかねえ……てか、まあそうだよねえ」

 そう言って藤井は、目を細めてしばらく窓の外を眺めていた。

 ちなみに……藤井は井沢の事を『ケンゾウ』と呼んでいるが、正しくは『かねぞう』である。


 由衣は机から離れて、窓のところに行った。外では民新党の候補者が、消費税の減税を訴えている。窓を閉めているが、意外と外の声は聞こえてくる。

 選挙が始まっているので、この様な演説の声はしょうがないのだが、それでも集中している時に大きな声が耳に届くと仕事を妨害されている気分だ。迷惑だとは言いたくないが、もう少し時と場合を考えて欲しい、などと勝手な事を考えて外を眺めていた。

 それにしても、去年から始まった税率十パーセントも世間では非難轟々だ。与党である自由党内では、一年後の衆院選に影響があるとかで、延期するべきという意見も出たそうだが、結局はそのまま実地された。もう一年半くらいなるだろうか、内閣支持率は下落の一途だが、春頃から少し安定してきた様だ。おそらくだが、その頃から少しづつ景気が良くなってきているのもあるのだろう。景気が良くなるのは藤井工業にとっても良い事である。

 とはいえ、この衆議院選挙は自由党にとっては厳しい選挙になるという。厳しいとはいえ、ここ岡山一区のような選挙区は盤石なのだろうが。

「――さ、仕事しよう」

 由衣は再びパソコンの前に戻った。まだしばらくは選挙演説の声は聞こえていそうだ。


 午後六時時過ぎ、小宮山がやってくる。

「早川さん、まだ続けるかね」

「ええ、もうちょっとでキリがいいので。七時までやると思います」

「ああ、わかった」

 小宮山は出て行った。

 

 午後七時、由衣は椅子から立ち上がる。先ほどパソコンの電源を切ったところで、机の上を少し片付けて、これから帰宅だ。

 エアコンを切ると、リュックを持って部屋を出た。事務所に降りると、藤井がいた。パソコンに向かって何か事務作業をしていた様だ。由衣に気がついて声をかけてきた。

「終わったかい?」

「ええ。明日から工場で実物の試作をやろうかと思います」

「順調だねえ、早川さん! じゃあお疲れ!」

「お疲れ様です」

 由衣は事務所を出た。外は薄暗く、もう日が暮れていた。昼間に比べて大分暑さも和らいできたと感じた。会社の門のところで小宮山と遭遇する。会社のすぐ外にある自動販売機で飲み物を買ってきていた様だ。

「お疲れさん。終わったかね?」

「はい、お疲れ様です」

 由衣は小宮山に挨拶して、会社を後にした。


 由衣は徒歩で通勤していた。車で通勤するには近過ぎるが、自転車はまだ持っていない。しかし歩くのには少し遠い気がするものの、足腰を鍛える事も考えて、あえて徒歩で通勤していた。

 会社を出て、大通りの方に向かうとコンビニがある。コンビニ大手のひとつである「トライA」という、三角形とアルファベットのAをミックスしたようなロゴマークで有名な店だ。由衣はよくこのコンビニで買い物をしていた。

 残業をした時など、ほぼ毎回来ている。今日も残業帰りに弁当を買うつもりでやってきた。

「いらっしゃいませー」

 店員の声が聞こえる。いつも見かける、おばさんの店員だ。他には女子高生のバイトと、大学生と思われる若い男がいる。

 由衣は入ってすぐに置いてあるカゴをひとつ取ると、とりあえず本の売り場の前を通り過ぎて、その奥にある飲み物の棚へ向かった。これはいつもどおりの行動だ。

 ――新商品はないかな、と並んでいるペットボトルの飲み物を見て回るが、特にはない様子だ。由衣は炭酸の飲み物が苦手なので、炭酸でない飲み物を選ぶ。

 実は以前はコーラなど、炭酸のジュースは好きだったので好んで飲んでいたが、今の身体に変わってからは、炭酸を飲むと気分が悪くなってくるのだ。その為飲まなくなった。しかし先月だったかに少し飲んだ際は、以前より不快な気分にはならなくなっていたので、次第に良くなってきているのかもしれない。やっぱりお茶がいいと思い、麦茶を選んだ。


 由衣が買ったのはパンをふたつ、おにぎりをひとつ、ペットボトルの麦茶の四点だ。これが夕食になる。

 これが夕食? と思うかもしれないが、由衣かなりの少食であり、これでもパンをひとつ残すかもしれないのだ。また、未だ自炊を面倒に思うせいか、滅多に自炊していない。これではダメだと思いつつも、いつの間にかこのコンビニの常連になってしまっていた。

「ありがとうございましたー」

 レジの女子高生から商品の入ったレジ袋を受け取ると、そのままコンビニを後にした。


 大通り沿いの歩道を自宅の方に向かって歩く。街灯と車のヘッドライトの明かりが夜の街を薄暗く照らしている。外を歩く人はそんなに多くない。

 由衣はいい加減に涼しくなった街の空気に、少しだけ走ってみようと考えて、やっぱり止めた。

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