二
寒さも厳しい二月の上旬、由衣は中村雑貨店という店にやってきた。ここは由衣の友人である、中村博之の経営する雑貨店だ。
中村は<老化>の発症者で、以前入院していた山陽医科大学病院にて知り合い、親しくなった。退院後には時々、店を訪れていた。
「仕事はどうだい? まあ、来てくれるたびに聞いてるけどね」
中村は苦笑いして腕を組んだ。
「ふふ、忙しいですけど順調ですよ。人も増えたし、いろいろ大変です」
「このあいだも新聞に載ってたよ。今急激に業績を伸ばしているんだってね。すごいな」
中村の言う通り、フジイは非常に景気のいい会社だった。利益はぐんぐん上がり、二ヶ月前にもらったボーナスなど、三ヶ月分にもなり、基本給自体の急上昇と相まって、支給額が百万円を超えるという、信じられない金額に驚愕していた。
「今のところうまくいってますが、将来も安泰とは限らないですよ」
「まあそれは由衣ちゃん達の頑張り次第だねえ」
「ふふふ、そうなんですけどね」
由衣は屈託ない笑顔を見せた。基本的に人付き合いに距離をとる由衣にとって、中村は遠慮せずに話せる数少ない友人だ。由衣はこの店にやってきても、大して買い物をするわけでもない。ただ滅多に客のいない店内で、他愛ない雑談を楽しむばかりだった。
「……最近はどうも忙しすぎる。前から忙しいかったけど、最近は特に忙しいし」
由衣は少し愚痴っぽく呟いた。
「残業の毎日かい?」
「そうなんですよ。定時に帰った試しがない」
由衣は両手を小さく挙げると、大きくため息をついた。
「それは辛いね。業績が良いのなら、人を増やしたりしないのかな?」
「実は結構増やしてはいるんですよ。うちは新卒にこだわらないから……でも、増えたら増えた分、仕事も増えるんですよね」
藤井は実際、どう考えているのかは不明だが、どうも新規分野への進出を考えているらしく、今までにない事をする機会が増えた。それによって仕事も増える事になる。
「そりゃあ、大変だねえ。まあ儲かっている証拠なんだろう」
「そうなんですけどね」
「そういえば、藤井くんはどうだい? 最近会ってないから……」
中村と藤井は以前から親しいらしく、時々飲みに行ったり食事に行ったりしていたらしい。
「ああ、そういえば親しいそうですね。なんていうのかな。相変わらずですけどね。前からそうだけど、とにかく忙しい人ですよ」
「そうだね。とにかく情熱的な人でねえ。うちにもよく来て将来はこんな製品を作りたい、だとか、こんな事をしたいだとか、よく話していたなあ」
懐かしむ様な表情で語る中村。実はかれこれ一年くらい会っていない。
「今もそういう部分は変わってないと思うんですけど……なんだろうな」
「と言うと?」
「――ちょっとやり方が……強引すぎる気がして」
言うべきかどうか、少し迷って結局話し始めた。
「強引?」
「経営者である以上、雇われ者のわたしとは立場が違うにしても……もう少しやり方があると思うんですけどね」
「ふうん、何かあったの?」
中村は少し関心がありそうで、詳細を促した。由衣は、藤井のワンマンぶりや、手段を選ばない経営判断などを説明した。
「最初はそんな感じはなかったんだけど……」
由衣の藤井に対する第一印象は、調子のいい事ばかり言うセールスマンと言った印象だ。それゆえに会社経営者としての非情さといったものは感じなかった。
「そうだろうね、僕も藤井くんにはそういう印象はなかったから」
中村も同意した。
「彼と会ったばかりの頃は、随分と夢の大きい人だったねえ。僕は日本一、いや世界一の会社を作るんだ、とか会うたびに言ってたよ」
「そうですね、わたしの場合もそうでした。とにかく夢を語って、ちょっとふざけてるのかなって思ったくらいで」
「彼は彼なりに頑張っているんだと思うんだけどねえ」
「わたしもそう思いたいです。思いたいんですが……」
由衣はやはり、少し納得のいかない風だった。
「そういえば、最近<老化>や<若返り>の人が増えましたよね。うちの会社でも増えているんですよ」
「そうだろうね。僕も知人に何人かいるねえ」
「そうなんですか? わたしにもいるけど、あんまり会いたくないヤツで」
たぶん黒田の事を言っているものと思われる。心底嫌っている、というわけではない様子だが。
「そうなの? あまり仲が良くない人かな」
「そう。チャラいヤツで、会いたくない時に出てきて、せっかく隠れたのに、目ざとくわたしを見つけるという……」
「ははは、隠れなくてもいいんじゃないかい。それはそれでひどいなあ」
中村は苦笑した。
「でもねえ、すぐ自慢したがる嫌なヤツなんです」
「――<若返り>の人は特に優秀な人が多いです。今年に入社した<若返り>の人がいるんですけど、すごいですよ。まだ半年かそこらですが、もううちのスタッフの中心的な存在だし」
今度は岡崎の事を言っているらしい。
「へえ、すごいものだね。由衣ちゃんはそのトップにいるんだろう。すごい事だ」
「いやあ、まあ……そ、そんな事ないですよ」
否定しているが、まんざらでもない風だ。
「しかし、今は企業でも活躍してる人が増えているというのはテレビでも見たよ」
「先週も確かやってましたね」
「うん。電気自動車の話だったかな? 五年以内には日本の自動車を、半分は電気自動車にするとかって」
「やってましたね。バッテリーをカートリッジ形式にする事で充電時間を短縮できるだとか、インフラの整備も画期的なのが計画されているだとか、結構現実味のあった話だった」
「うん、やっぱり頭のいい人がたくさん揃うとすごい事をやってのけるものだねえ」
中村は感心して微笑んだ。
「わたしの車はまだハイブリッドですらないけど、頑張って乗り続けて、次は電気にいっちゃおうかな」
「いいねえ。僕のはもうそろそろ買い換えてもいいけど、少し迷うねえ」
「進化の進行具合が加速している様な感じもするし、中村さんも少し様子を見てもいいかもね」
由衣はそう言って笑った。
「実はね。この店、閉める予定なんだ」
中村は唐突に、意外な事を言った。
「え? 閉店するんですか?」
由衣は驚きを隠せなかった。
「どうしてまた……」
「いや、この店は閉めるけどね、実は別のところに店を出すつもりなんだよ」
「じゃあ、移転するって事ですか?」
「移転じゃあないね。今度は喫茶店にするつもりなんだ」
中村の口から意外な言葉が飛び出した。
「え? 喫茶店ですか?」
「うん。というのも知人がね。喫茶店をやってたんだが、農業するから店を畳むんで、やってみないか? と言われてね」
中村は楽しそうに話した。
「なるほど、店を譲ってもらうんですね。それで喫茶店を……」
「前からやりたかったのはあるんだ。妻もそう言っててね。まあ、こんな時になってやる事になろうとは」
「それは良かったですね。いいじゃないですか。そういえば、店はどこですか?」
「中仙道だね。由衣ちゃんの家からは割合近かったと思うよ。あの近辺じゃなかったかな? 小さいが結構繁盛していた。僕も常連だったんだよ」
その店は、デザイン好きな連中がよく集まる店だった。店長が特にデザイン好きなわけではないが、そういう客が集まる様になって、店内の椅子をイームズの椅子にしてみるなど、デザイナーズ家具が多くある店だった。
「中仙道だったら、もしかしたら歩いてでもいけるかも。しかし、中村さんのコーヒーかあ。ちょっと楽しみです」
「ははは、期待に応えられる様に頑張るよ」
そうしていると、背後で電話が鳴った。
「おっと、電話だ」
「じゃあ、わたしもそろそろ……中村さん、また」
「またいらっしゃい」
由衣は店を出て振り返った。
――中村さんも移転か。それに喫茶店とは。ちょっと楽しみだなあ。
そう思って、少し笑顔になった。