三
八月二十四日。この日から新しい住所に会社を移転した。とても綺麗なオフィスは、以前の零細町工場と言った面持ちとは一変した。やはり新しいものにはわくわくするものである。
今月に入って、何度も新工場に出向いた。やれオフィス内の配置を考えろだの、どういう設備がどれだけいるのかとか、通常の仕事も忙しいのにやたらと大変だった。
由衣は、この最中に<若返り>の定期検査を受けるのに、一日休みたいと言ったら渋い顔をされた。法律で決まっていると言って強引に休んだら、次の日に藤井の視線が冷たかった。――やれやれ、こんなんじゃ先が思いやられるな……とがっくりきたものだ。
「やっぱりいいですねえ。机まで新しくなってるし」
難波は自分の机を触りながら嬉しそうにしていた。
「そうだね。しかしどれもこれも新しくしてしまうとは……」
「机とか前のを使うと思ってたんですけどね。それにパソコンも」
「ううむ、本当に思い切ったなあ……」
難波と他愛ない雑談をしていて、ふいに由衣は時計を見た。そろそろ集合時間だ。
「みんな、そろそろ会議室に行くよ」
「我々は今ここで、新しいスタートラインに立った……」
会議室に全従業員を集めて、社長である藤井の挨拶が行われていた。新工場の操業式典が行われているのだ。由衣は、そこまでするほどだろうか? と思ったのだが、何事もセンセーショナルにやりたい藤井の事だからしょうがないか、と思っていた。
この会議室は社内にある一番大きな会議室で、およそ四十から五十人くらい入れる広さだ。現在四十三人の従業員がいる。工場移転に伴い人員募集をかけて、春頃から一気に倍増した。特に工場の作業員を増やしており、実際明日からうちの工場にて、秋に出荷開始予定の製品が製造される。
式典にはクラテックなど、関係のある企業や業界の人などが出席している。由衣が驚いたのは、瀬戸内新聞が取材に来ていた事だ。瀬戸内新聞は岡山県を中心とした地方紙だ。多分記事の扱いは小さいのだろうが、まさかマスコミが来るとは思っていなかった。
また、さらに驚いたのが、政治家が出席していた事である。県会議員ふたりと、衆議院議員がひとりだ。その衆議院議員は、あの宇多川真一郎である。一体どこにそんなパイプを持っていたのか? 藤井の外交の賜物なのか? それとも宇多川の唱えている地域活性化の政策の一環として、地元の企業に顔を売ろうとしているのか。
「では、今式典にご出席下さった、衆議院議員の宇多川真一郎先生の……」
正面では藤井が宇多川を紹介している。そして宇多川が祝辞を述べ出した。あまりにも退屈で、由衣は半分眠っていた。
「何かすごかったですね。議員とか来てたし」
難波は部屋に戻る最中に由衣に話しかけた。
「そうだね。こんな中小企業にわざわざ来るとは……」
普通に考えると、この会社には偉い人がやってくるほどの影響力を発揮する力はないはずだ。それが、どこにそんな力があったのか、まるで見当がつかなかった。
「社長、政治家とも付き合いがあるんでしょうかね?」
「かもしれないね。顔が広そうだし」
開発チームの部屋に戻ると、まず全員を座らせて、今後の会社の事を説明した。色々と今日から変わる為、まず最初に説明せよと社長の方からお達しがあった。他の部署でも同じ様な事をやっているはずだ。
由衣はホワイトボードの前に立って、とりあえず挨拶した。
「ええと、皆さん。これからこの新工場に移転後、今までといろいろな部分が変わってきます。それを説明します」
由衣は、ホワイトボードに『フジイ』と書いた。
「もう周知の事ですが、今日より社名が『株式会社フジイ』、英語表記で『FUZII・inc』となります」
そして、足元から社名のロゴをプリントした紙を取り出すと、それを貼り付けた。
「これは新しい社名のロゴですね。うちの難波さんがデザインしたものです。自分で言うのもなんですが、わたしのデザインより良いですね」
由衣はそう言って笑顔を作る。それに合わせるかの様に、スタッフから拍車が起きた。難波は照れ臭そうに笑った。
「それから――会社の組織構造が新しくなりました」
そう言って、ホワイトボードに次々と書き込んでいった。そこにはこう書いてあった。
社長直轄――開発課
総合本部――総務課、販売課
営業部――営業課
製造部――製造課、工務課
と、なっていた。由衣の開発課は藤井の直属となり、本部や製造には属さず独立している。
「ええと、まあ、恐縮ですが……わたしが開発課長の辞令を受けました。とはいえ今まで通りではありますが、よろしくお願いします」
由衣が軽く頭を下げると、再び拍手が起こった。
「総合本部長と総務課長は小宮山さんが兼任します。本部はもう言うまでもなく経営の拠点、政府みたいなものですね。販売課は谷田課長の元、オンラインショップや、店舗への商品の出荷など販売に関する事をやっていくそうです」
販売課の谷田も藤井が連れてきた人物だ。冷たい印象があり、由衣とは気が合いそうな感じはしない。
「営業課は木村課長のもと、営業に関する事を全て担当します。製造部は若田課長のもと、製品の製造と工場の操業に関する事を全面的に担当します」
製造部は、これから始動するという感じになる。実際、三日後から本格的な社内生産の製品がここの工場で製造される。
「まあ、別に大きな会社でもないので、シンプルですね。わかりやすくていいですね」
由衣はそう言って笑った。しかし部下達は全く笑わなかった。やたらに真剣な顔で見ている。その有様に、由衣はすぐに笑う事を止めざるを得なかった。
それから、高橋は本部販売課に所属、そして向井達職人は、製造部工務課に所属する事になった。工務課は工場内設備の修理、保全を担当する部署だ。今までは外から仕事が来ていたが、今度は工場内で同じ様な仕事をする事になった。しかし、ここでの仕事は向井などからしたら、あまり本意ではないという風でもあった。
「とりあえず、今日は今までの仕事を再開できる様にセッティングする事。明日からは再び通常の仕事に戻ります。以上」
皆、それぞれにパソコンを立ち上げて、準備をし始めた。由衣も自分の席に戻ってパソコンを起動させる。由衣の使うパソコンはiMacである。他の机にも同じパソコンが据えられていた。
新品はやっぱりいいなと思いつつ、どうせならMacProにしてくれてもいいのにな、と思った。
新しい職場となり、社名も変わって心機一転動き出そうという時に、由衣にとって残念な事があった。
由衣の入社以前からいた、野崎が辞めるという。野崎はもともとあまり会社に馴染んでいなかった。由衣が入社した頃も、周りの人達から何となく浮いてる感じがあった。すでに四十人以上の従業員に増大し、一気に人が増えた事も野崎にとって良くなかったらしい。向井と話していた際、そういう様な事を言っていた。
しょうがないとはいえ、また昔からいる社員が去っていくというのは、由衣にとってやはり寂しいものだった。