一
二〇一五年頃、世界中で未知の病気が少しづつ広がっていった。
人がありえない速度で歳を取っていく<老化>。その<老化>とは反対に若返ってしまう<若返り>。これらは、未だそのメカニズムは解明されていないが、それでも月日の経過と共に様々な事がわかってきた。また社会もそれに対応するべく、多種多様な世間の歯車を軋ませながらもどうにか噛み合わせて、ゆっくりと動いていた。
現在は二〇一八年、世界は原因不明の奇病が増え始めてから既に二、三年の月日が経っていた。
<若返り>の患者である早川由衣は、長い間その病気に苦しみ、その後少女の姿になった。実年齢から大きく若返ってしまい、様々な事が通用しなくなり、変わる事を余儀なくされ、彼女は様々な苦労を味わう事になった。
挙句、実は彼女は元はといえば男性であった。<若返り>の症状の進行の際に、どういう原因かは不明だが女性の身体になった。元は早川文彦といい、その後改名して現在の早川由衣と名乗るのである。
由衣は退院後に体調が良くなると、以前勤めていた会社から、藤井工業に転職、デザイン設計の仕事をする様になる。そして今まで住んでいた実家からも出て、ひとり暮らしを始めた。
何もかもが変わってしまった、早川由衣の新しい人生の物語。
残暑もまだ厳しい九月の上旬。由衣は忙しく、日々の仕事をこなしていた。そんなある午後、由衣は工場の一角で、つい先ほど持ち込まれている修理品を工員達と取り囲んでいた。
輪の中心は、ある工場の生産設備に取り付けられているカバーである。大きな力がかかってしまったのか、打ちつけられた様な跡と、それに伴い大きく反り曲がっていた。存在を目立たせる為か黄色く塗られた塗装は、変形と共に剥がれたり傷ついている。
「結構、派手に曲がってますね」
由衣は隣にいる向井に言った。
「そうだなあ。これ完全にもと通りには難しいかな……」
向井は腕を組んだまま渋い顔をしている。
これは藤井工業の隣にある機械加工の会社から持ち込まれたものだ。そこが、どこかの工場から設備の修理を請け負って、その修理の一環でこの機械のカバー部品の変形を直さなくてはならないのだが、その会社は金属の曲げ技術の職人がおらず、時々藤井工業に仕事の依頼が来ていた。
「別にそんな綺麗に直す必要はないんじゃ?」
向井の隣で一緒に見ていた末森が言った。
「――それはそうだけど、やる以上は出来るだけ綺麗に直してやりたいんだよなあ」
向井は足元のカバーを眺めながら呟いた。
ここ藤井工業は事務所にいる社長の藤井やその片腕である小宮山などの他に、工場の中で作業する工員がいる。
班長の向井、その次にベテランである松田。若手の末森と吉木、それから野崎の五人だ。彼らは製品の製造作業等の業務を担当する。一番年上の向井でさえ三十三歳で、一番若い野崎はまだ未成年という、若いメンバーばかりだ。
藤井は数年前に父親から会社を引き継いでいるが、その父親の時代にはもっと中高年のベテラン職人が多くいたという。年老いて働けないだとか、身体を壊すなどして次第に数が減っていき、今はもう向井以外は藤井の時代になってから入社した社員ばかりだった。
向井と吉木でカバーの修理を担当する事になった。向井は吉木に指示を出して、準備を始める。由衣は末森に試作品の製作をしてもらう為に、工場奥の作業台のところに行った。
「早川さん、これどうやるんですか?」
末森は図面を見て由衣に聞いた。
「えっと……どれですか?」
由衣も末森の持っている図面を見た。
「これ何ですけど」
「ああ、これは……」
小宮山が、何か機械の部品と思われるものを持って工場に入ってきた。
「悪い、すまんがこれもやってくれんか」
「小宮山さん、何ですか? それ」
向井が小宮山の側にやってきた。
「そのカバーと同じだ。こいつも壊れていたそうだ。これが折れそうになっている」
どういう用途のものなのか不明だが、四角い板状のものに、四箇所に軸が溶接して取り付けてあって、そのうちの二本が曲がっている上に、折れかかっていた。精度も要求されそうに見え、難易度が高そうな仕事だった。
「ああ、これは……結構厄介だな」
「直りそうか?」
小宮山は向井に聞いた。
「直るのは直りそうだけどねえ。ちょっと時間がかかるかも」
向井は難しい顔をしている。
「それは構わん。まだ今月末までの納期と聞いている。ただ組み立ての都合で、カバーよりこっちが優先になるそうだ」
「ならいいんですけど。また納期短縮したとか言わないですかね」
「それを言われると、何とも言えん。悪いが頑張ってほしい」
小宮山は苦笑した。こういった事はよくある事で、下請け会社はいつもその対応に苦慮している。
「ええ、まあそれは……」
向井も苦々しいが、我慢しなくてはならないのだった。
由衣が試作品の部品を使って、末森に説明をしていると向井がやってきた。
「おーい、末森。こっち手伝ってくれないか」
「何かあったんですか?」
「小宮山さんが追加を持ってきた。結構厄介なんだ……早川さん、悪いけど……」
向井は由衣の方を見て、申し訳なさそうな顔をした。
「あ、いえいえ。別に大丈夫ですよ。そっちを優先してください」
「じゃあ、早川さん。また後で」
末森は向井についていった。
由衣は、さてどうしたものか、と周りを見てみると、吉木が先ほどのカバーの修理をやっていた。向井にできる範囲でいいからやってみろ、とでも言われているのかもしれない。
由衣は吉木の元に行ってみた。
吉木はどうやら、溶接によって修理をしようとしているらしかった。よく見てみると、大きく曲がったところ以外にも、曲がった際によほど大きな力がかかったのだろう、別の箇所にも一部に割れがある。さらに、ここは割れた上に曲がっているからどうやって直そうかと困っている様子だ。
「吉木くん。それはねえ、先に曲がっているのを戻さないと溶接できないよ」
「は、はあ……でもどうやって直そうかと」
吉木は頭を掻きながら由衣を見た。
「これだと、もう叩いた方がいいと思う。ハンマーでここを叩いて」
由衣は吉木に指示を出した。
「でもさっきやろうとして、うまくいかないんですよ」
「それは多分、叩く箇所が良くなかったんじゃないかな。こっちから、ここを叩いてみて」
由衣はくの字に曲がった、真ん中の出っ張ったところを叩く様に言った。
「こっちっすか……あ、ホントだ」
「ここが曲がっているからって、そのままここを叩いても直る訳ないよ。反動で逃げるでしょ」
吉木はくの字に曲がった箇所の端を叩いていたのだった。その為、反対側が逆方向に動いて衝撃が伝わらず、歪みが直らない。
「うーん。あのねえ、吉木くん。それを言われるまでわからないってうのは相当恥ずかしいよ。初心者じゃあるまいし」
「は、はあ……すいません……」
「まあ、それはわたしがどうこう言う事じゃないから……とりあえずもっと頑張って勉強しよう」
吉木は申し訳なさそうに、由衣の方を見ているのだった。
「じゃあ今度は溶接だ。ティグ溶接だね」
由衣が言った。
「はい、どうやってやったらいいですかね」
「……どうやってやるのか、まず自分で考えるという事をするべきだと思うよ、吉木くん」
「は、はあ……すいません……」
吉木はまた、申し訳なさそうに由衣を見ている。見ているだけで動かない。由衣が少しキツめに睨むと、
「と、とりあえずやってみます!」
吉木は慌てて、割れている箇所をすぐに溶接しようとした。
「ああ、ちょっと待った! まだ駄目でしょうが!」
「え、ええ? ど、どうしたら……」
「叩いて直したといっても、完全に面が揃っている訳じゃないでしょ。シャコ万力を噛ませて面をぴったり揃えるのが先!」
「す、すいません……えっと」
「この辺に噛ませて」
由衣は割れている箇所の端の辺りを指示した。
「で、でもこれじゃ溶接できないっすよ」
「……いや、あのねえ。仮付けをしてから溶接しなきゃダメでしょうが」
「あっ、仮付けか! そ、そうですよね、すいません……」
由衣はこの要領の悪い若者にあれこれ作業を説明するのに苦労した。向上心が強く、技術を覚えるのに熱心だった若い頃の由衣は、少し教えてもらったら、あとは自分で勝手に勉強して試行錯誤して覚えていくが、吉木は、一から十まで教えないと全くできないし、わからない。そもそもやろうとしない。これは別に吉木だけではないが、こういう人間に教えるというのはとても大変だ。
「いくら何でも、この程度は言われるまでもなく、わかってなきゃダメだよ」
ため息をつく由衣。
「は、はい。すいません」
「あ! ちょっと、曲げ過ぎ!」
「あ、しまった……」
「違う、違う。そうじゃなくて……」
由衣はさらに吉木に説明する。吉木はわかった様なわからない様な、釈然としない態度である。
――うーん、大丈夫かな……由衣は少し心配になった。
「こっちを曲げる時は、こう。でないとさっき直したこっちもまた歪んでしまうよ」
「は、はあ……」
由衣に言われてアタフタしながら直していく。
この後、さらに戻し過ぎ、曲げ過ぎ、を何度か繰り返してやっとまずまずなところまで直した。
「お、割合いい具合になったな。あと、この辺がもうちょっとかな……」
向井がある程度まで直したカバーを見て言った。
「早川さんのおかげっす!」
吉木はニコニコしながら向井に言った。
「それにしても、早川さんは詳しいね」
向井は由衣が女性の割に、あまりに作業技術に詳しい事に少し驚いていた。何せこういう仕事では、女性の職人は滅多に見かけないからだ。由衣が<若返り>で今の様な子供の姿になっているのは聞いているのだが、これは不思議だった。
もっとも、この由衣の姿にもはじめはみんな驚愕だった様で、入社当時に向井には「何で子供が?」と言われた。その時はやはりショックだった。
「まあ……なんていうか」
由衣はどうしたものかと考えていた。
「えっと、知り合いに詳しい人がいて……まあ、そんな感じで」
「へえ、そうなんだ」
向井が言った。
「もしかして、早川さんの彼氏とか?」
末森が少しニヤニヤした表情で言った。
「い、いや。そういうのじゃなくて……」
「本当に?」
「本当だって」
由衣は、これ以上いじられても困ると思い、話を変えた。
「それよりも、もうちょっと練習をする様にしないと厳しいよ。吉木くんなんか特に。基礎が満足にできてない様に思える」
「それを言われると辛いです……」
指摘された吉木はうなだれた。
「確かになあ。この半年くらいで随分忙しくなったし、吉木も野崎も前に比べて全然練習してないな」
「時間が取れないっすよ」
「まあ、居残りしてまでやれとは言わんが、もうちょっとやる気見せてもいいんじゃないか?」
向井は吉木の方を見た。
「ま、まあ……それは」
再び吉木はうなだれた。向井はそれに構わず、由衣の方を見て、
「それはそれとして……早川さん。ウチは今後どうするんだろうね? 社長のやりたい事は分かっているんだけど、それだともうこういう職人の手作業での加工とかさ、必要ないというと極端だけど、だんだん使う機会が減っていくんじゃなかろうかと思うんだけど」
向井は以前から気になっていた事を言ってみた。藤井が会社をただの鉄工所から製造メーカーにしようとしているのは一目瞭然だった。そうしてくると、鉄工所の職人である自分達は今後どうなっていくのか。少し心配でもあった。
「確かに今の方針だと、設備の修理や工事関係は規模縮小になっていくんだろうけど……やっぱり不要にはならないと思う」
「そう?」
「やっぱりね、わたしは手作り感のある製品を世に出していくのがいいと思う。それには今のまま腕のいい職人を多く抱えて、技術をアピールしていくのがいい。大規模工場による大量生産は、この会社の良さを消してしまいかねないよ」
「なるほどね」
向井が言った。
「製品の魅力を出す為には、職人の技という部分をアピールするべきだと思うし、みんなはそれに応えられる様に頑張って技術を磨いてほしいを思うし」
由衣は力説した。――本当にこうあるべきなんだ。藤井の考える価値の高いブランドを作り出して商売をするには、絶対にこの方がいい。由衣はそう信じていた。
「早川さんはすごいっすね。オレ、よくわかんないっすが、何となくすごそうな事なんだろうなって」
「お前なあ……もうちょっと理解しろよ」
末森が吉木に突っ込んだ。それを見て、みんな笑った。
「さあ、もう四時半過ぎたし、そろそろ掃除して片付けませんか?」
由衣が時計を見てそう言うと、向井は「そうだな」と言って、みんなそれぞれ掃除と片付けに入っていった。