その2話 : 「わがまま」を英語では「my mother 」とは言いません。
コンピューターの最高峰、ってのは人間の脳だ。スーパーコンピューターがどうのこうの言っても、人間の脳でその働きをさせたら本当に小さくなってしまうんだ。もう、それだけでも「小宇宙」といわれるくらいの性能だ。まあ、「ペガ●ス流●拳」は打てねえけどね。その働きやら仕組みを応用したのが「生体型コンピューター」だ。
ただ、「人間並み」の性能が精一杯だったのだ。でも人間というのは実は脳の1%も使っていないといわれているから、実際の性能は人間の脳の100分の1ということになる。
「せめてあと20倍の性能が欲しい。」
でも、納期は確実に迫っている。どうしたものか。そいつが哲平の悩みだった。木魚たたいて、ポクポクポポク、チーンとでる頓智とはわけが違う。
「叔父さん、便秘かい?」
久しぶりに哲平は甥の光平の見舞いに来ていたのだが、くだんのコンピューターの性能のことばかり考えていて、上の空だったらしい。
鞍馬光平は哲平の兄慎平の息子で、高校2年生だ。しかし、幼いころから心臓に重篤な障害を抱えていて、成人式は生きて迎えることは難しだろうと医師からは宣告されていた。
移民船への乗船が決まってから、哲平と妻の可南子は暇を見つけては病室を訪ねるようにしていた。光平はそれはそれはその話を目を輝かせて聞くのだ。でも、僕も行きたい、というような言葉は一度も口にしたことはなかった。
「すまん。光平。出ないのはう●こじゃなくてアイデアなんだ。」
おおよそ科学者らしからぬ下品な表現に、哲平の妻、可南子は眉をひそめた。
「ちょっと哲平さん、いい加減にしてね。」
可南子のカーテンを引く音の鋭さが彼女の心の機微を表している。
解放された窓から、ブリティッシュ・コロンビアの初夏の穏やかな陽射しが、さわやかな風とともに病室に入り込む。
「大丈夫だよ可南子さん。叔父さんのお下品は生来のものだから。」
光平が屈託なく笑った。
「なんでおめえさんが知ってんだよ。」
「ばあちゃんが言ってた。」
光平は哲平を軽くいなすと真面目な顔で言った。
「でも、詰まっているなら出ようもあるけど、空っぽじゃどうしようもないね。」
光平に痛いところをつかれる。
「ぐぬぬ。……でしょ。」
可南子がくすっと笑いながら哲平の気持ちを代弁した。
「おいおい可南子まで…」
哲平は生体型コンピューターの性能の伸び悩みで行き詰まっていることを述べた。ロケット開発で楽しくないことを光平に伝えたのはこれが初めてだった。
光平は枕元に座る哲平から顔を背け、窓からゆらめくカーテン越しに見える空をしばらく見ている。
そして口を開いた。
「ねえ叔父さん。お願いがあるんだけど。」
「ん…?」
哲平は決してわがままを言わない光平が唐突に口にした『お願い』という言葉に少し驚いた。
「あのさ、そのコンピュータの部品に僕の脳みそを使ってくれないかな?
「え?」
あまりにも唐突で、禁忌な発言に哲平はしばらく言葉を失った。
光平は、いかにも良いアイデアを思い付いた、という顔をしている。
「作れなければ本物を使えばいいじゃない。きっと僕はもうすぐ死ぬ。そうなる前に脳を使ってほしいんだ。」
光平の申し出に哲平は驚いたが、科学者の習性なのか、その可能性について考えてしまった。
「だめだよ。そんなことは倫理委員会が許すはずがない。……絶対に。」
哲平は、俺が、と言わず他人を引き合いに出した。
「そうよ。死ぬなんていっちゃだめ。あきらめないで最後まで病気と闘いましょ。」
可南子も口を添える。
「可南子さん。僕の身体は病気じゃない。障碍なんだ。つまり、絶対に治らない。だから……闘う方向性を変えたいんだ。」
光平の懸命な説得が始まる。
「このままじゃ人類全体が死に絶える。そうなる前にここを出る算段を打ったほうが建設的じゃないか。僕だって、何も遺さないで、ただ死んでいくのは嫌なんだ。僕は誇りある死に方をしたい。」
「光平さん、病気と闘うのだって十分立派よ。誇っていいのよ。」
可南子も負けてはいない。
「光平。君が脳を提供しても、君の意識は死んだままなんだ。だから、そんなことをしても君にとって無駄なことだ。ましてや、コンピュータにつなげたところで、機能するかどうかわからんよ。」
哲平も懸命だ。
「そんなことはないよ。叔父さんたちだってリンカーをつけているじゃないか。脳と生態型コンピュータは同じ理論で作られているから、脳波で動かせるんだ。科学者なら、仮想だけで語るのはおかしいよ。とにかく実験してみてよ。」
リンカーとは脊髄の神経に接続したケーブルが首から出ているものである。ケーブルの先にはジャックがついていて、生体型コンピューターの制御には欠かせないものである。
「そいつあ、とんだマッドサイエンティストじゃねえか。悪い、お前の言うことには一理ある。でも俺もそこまで落ちぶれちゃいねえよ。」
結局、我に返った光平が
「ごめん。僕のわがままだった。」
そう矛を収めて終わった。
「ありがとな、気遣ってくれて。俺が『お見舞い』されるたあざまあねえや。」
哲平も笑った。しかし、光平は再びこの話を持ち出してくるだろう、哲平も可南子もそう思った。
確かに、哲平にとっても光平のこの提案はまさに「悪魔のささやき」であった。 実は脳を人体から取り出して利用することは既出の技術であった。前世紀より死刑囚は脳を摘出され、刑務所から持ち出されて実験に供されていた。それが現在の生態型コンピューターの開発の礎となっていたのだ。
この技術の確立がもう100年早ければ、飛んでくるミサイルに100発100中で当てる『対ミサイルミサイル』もとっくに実用化できたはずで、核戦争も間違いなく起らなかっただろう、と主張する科学者もおり、哲平もそう思う一人だった。倫理委員会は生きた脳を手にするためにどんな悪事を犯すことも辞さない犯罪組織から人々を守るための組織でもあったのである。
それから哲平は何度か 光平を見舞ったが、互いにその話題を持ち出すことはなかった。事態が急変したのは冬の始まりを告げる10月も終わりの頃であった。
次回は12/27です。容体が急変する光平。彼の父(哲平の兄)が語る思いとは。