僕は。
僕は幼い時から
人のことが嫌いでした。
人間という、臭くて黒くて
モヤモヤとした不安定な存在が
大嫌いでした。
毎日鏡に映る自分を見て
ぼくは、きっと、にんげんになりきっている
べつのいきものなんだ。
そうやって心の中で唱えていたのを覚えています。
母さんは僕に言っていました。
あなたは、強くて、優しい、
誰からも好かれるような、
素敵な人間に、なりなさい。
僕はその言葉を聞くと
胸が締め付けられるように苦しくなりました。
なぜ、ぼくはにんげんじゃあないのに、
かあさんはぼくをにんげんあつかいするの?
幼いながらもずっと悩んでいたのです。
父さんは僕に言っていました。
お前は、社会から認められる
立派な人間になるんだぞ。
僕は人間なんかじゃあないのです。
それでも、僕はその考えを
父さんや母さんや周りの『生き物』には
言うことができませんでした。
それを言うことによって、
きっとみんなは
混乱するだろうと思ったからです。
僕の母さんと父さんは人間です。
母さんと父さんのことは、大好きです。
でも、人間は大嫌いです。
僕はずっとずっと考えました。
みんなは大きくなって、僕も大きくなりました。
小学校に通い始めて、
僕はあることを思うようになりました。
もしぼくが人間じゃあないのなら、
一体なんなのだろう。
僕はそれをずっとずっと考えました。
そして、中学生の時、その答えが出ました。
僕は名前の無い『生き物』なんだ。
僕が人間が嫌いな理由は、
臭くて黒くてモヤモヤしていて
不安定な存在だから。
僕はその反対側にいる『生き物』なんだ。
綺麗で、白くて、周りの人を明るくしてしまう。
きっとそうなんだ。
だって、僕がもし人間なら、
僕が人間を嫌うはずがないから。
僕は中学時代、そう考えていました。
それからというもの、
僕は周りの人を綺麗にしてあげようと、
沢山のことをしました。
友達には、
出来る限りの優しさをプレゼントしました。
僕より大きな大人達には、
思いつく限りの褒め言葉をプレゼントしました。
僕より小さな子供達には、
与えられる限りの愛想をプレゼントしました。
僕は、僕と同じ種類の『生き物』を生み出して、
その『生き物』と触れあいたかったのです。
それでも、周りの人は、人間のままでした。
誰1人として、綺麗にはなりませんでした。
僕は絶望しました。
この世界で、僕は独りぼっちなのだと、
感じていました。
そして、何度も何度も、泣きました。
僕が世界の隅っこで小さくなっていた時、
僕と同じ、名前の無い『生き物』に
極めて近い女性と出会いました。
彼女は、人間だけれども、
僕にとても近い存在の『生き物』でした。
僕は彼女になんとか完全な
名前の無い『生き物』になってもらおうと
必死でお世話しました。
彼女はみるみるうちに綺麗になって、
もう1歩で僕と同じだと言えるところまで
成長しました。
彼女はいつも僕に微笑んでくれます。
僕はそのお礼に沢山の場所に
連れていってあげます。
すると彼女は美味しい料理を作ってくれます。
だから僕はそれを綺麗に完食して、
美味しかったと言ってあげます。
でも僕はそれに苦労はしませんでした。
その料理は、本当に、嘘をつくまでもなく、
本当に、美味しかったから。
彼女はまた、笑ってくれます。
僕は彼女と手を繋ぎ、言いました。
君は、僕にとても近い存在なんだよ。
今まで出会った人達は、
僕から本当に遠い場所にいたんだ。
僕は、独りで、歩いてきたんだ。
言いながら、僕は泣きました。
彼女は優しく頭を撫でてくれました。
そして、僕に言いました。
貴方は、私が最も近い存在だと言ってくれるけれど、
私は、そんなの嫌なの。
近い存在ではなくて、
同じ存在になりたいの。
彼女の優しさは、僕と同じ存在を超えていました。
彼女は僕以上に綺麗な『生き物』でした。
僕は、意を決して聞きました。
君は、とっても綺麗な『生き物』だけれど、
本当に人間なの?
彼女は僕を見てじっと黙っていました。
その時間は本当に長く感じられました。
僕は彼女に、聞いてはいけないことを
聞いてしまったと思いました。
ごめんなさい。
変なことを聞いてしまって。
僕は謝りました。
彼女は悲しそうに笑って言いました。
気にしないで。
私は貴方が思うような綺麗な『生き物』ではないわ。
私はただの、普通の、人間なの。
その言葉の通り、本当に彼女は人間です。
彼女はどんな時でも綺麗な『生き物』でしたが
彼女からはたまに、人間特有の、
モヤモヤとした不安定さが滲み出ていました。
僕はどうにかそれを消してしまおうと考えました。
彼女が悪いわけではないのです。
彼女を人間として産み落とした、
神様が少しいたずらをしただけなのです。
ある日僕は思いつきました。
人間を一度辞めてしまえば、
きっと僕と同じ『生き物』になる。
そうすれば、僕達はもっと幸せになれると。
けれども、僕には人間を辞めるということが
一体どういうことなのかわかりませんでした。
沢山の人に聞いてみたけれど、
みんな僕のことを無視しました。
人間は、本当に冷たい『生き物』です。
僕は、彼女に聞いてみました。
彼女は言いました。
人間は、みんな生きているわ。
だから、人間を辞めるということは、
死を迎えるということじゃないかしら。
どうしてそんな事を聞くの?
と首をかしげて、可愛らしく笑いました。
死を迎えるということが、どういうことか、
僕にだってそれはわかりました。
死を迎えて、人間を辞めたとして、
本当に、僕と同じ『生き物』になるのか、
僕は自信が持てませんでした。
それから僕は、またずっとずっと悩みました。
時は経ち、彼女は僕に言いました。
私は、貴方と一緒にもっといたい。
もっと多くの時間を貴方と過ごしたいの。
僕はそれはとても素敵なことだと思いました。
でも、彼女は人間です。
人間が大嫌いな僕としては、
彼女が完全に僕と同じ存在になるまで、
彼女と「そんな風」になりたくありませんでした。
僕は言いました。
それはとても素敵なことだと僕は思う。
けれども、もう少し待って欲しいな。
僕から君にプレゼントしたいものが、
まだ準備できていないから。
彼女はそれを聞いて顔を赤くして、
そして、本当に可愛らしく、笑いました。
僕は彼女に完全な綺麗な『生き物』
という存在をプレゼントしたかったのです。
けれども、僕は1秒でも早く、
彼女と一生を共にするような仲になりたかったのです。
僕には、選択肢は、ありませんでした。
その日彼女は、僕の家へやって来ました。
一緒にテレビを見て、
一緒にご飯を食べて、
一緒にお風呂に入りました。
そして、一緒に寝ました。
僕は、母さん以外の女性の身体を初めて見ました。
彼女の身体は、病気ではないかと思うほど細く、
白く、透き通って見えました。
そして、火傷してしまいそうなほど熱く、
どうにかなってしまいそうなほど
彼女の心臓は音を立てていました。
彼女は僕に言いました。
今、私はとても幸せよ。
もう、本当に、どうしていいかわからないくらい。
彼女は泣きました。
僕は謝りました。
彼女は、首を振って顔を隠しながら、
泣き続けました。
僕は言いました。
泣かないで。ごめんね。泣かないで。
君のこと、嫌いじゃないよ。
君のこと、気になるんだ。
君が、欲しいんだ。
彼女はしばらく泣いて、
僕に言いました。
ありがとう。
謝らないでね。
貴方は悪くないの。
ずっと、私はこの日を夢見てたのだから。
こんな私を欲しいだなんて。
ありがとう。
好きよ。貴方が好きよ。
もっと、貴方といたいのよ。
そう言って、また泣きました。
明日ね、明日。
プレゼントがあるんだよ。
君に、ずっと渡したいと思っていたんだよ。
受け取って、くれる?
僕は不安で不安で、そう聞きました。
彼女は、嬉しそうに笑いました。
ありがとう。もちろんよ。
また明日ね。明日。おやすみなさい。
泣き疲れた彼女は、眠りにつきました。
僕は、彼女へのプレゼントの準備を始めました。
彼女の寝顔を、僕は初めて見ました。
あんなに美しいものを、
僕は生まれてから、
一度も見たことがありませんでした。
しばらく彼女の寝顔を眺め続けました。
妙に泣きたくなったことを、覚えています。
彼女の身体を仰向けにして、
僕はその上に馬乗りになりました。
彼女は、本当に、よく眠っていました。
僕は、彼女の頬を撫でました。
僕の目から、涙が少し、零れました。
彼女の首筋を、指で線を描くように、
ゆっくり、優しく、なぞりました。
それから、それから。
僕は彼女の首に、ゆっくり、
本当にゆっくり、手をかけました。
彼女の身体の、眩しいような白さ、
透き通って、触れられないかのような肌。
それらが僕の頭の中をぐるぐると回っていました。
僕の手に伝わる彼女の暖かさが、
僕の心臓の音を、どんどんと、
大きくしていきました。
彼女の首の熱さは、
先程僕が感じた、
彼女の熱さとは、全く違いました。
僕の涙は、彼女の口元に落ちました。
僕は、自分の体重を、手元にかけていきました。
徐々に強く強く、彼女の首に、
今まで生きてきて、
僕の身体の中に入り込んできた物、
全ての重さを、彼女の首へと送りました。
彼女の顔色は、どんどん悪くなっていき、
呼吸が浅くなりました。
もう少しで、君は、
僕と同じ『生き物』になれるよ。
そうしたら、僕と、ずっとずっと、
一緒に暮らそうね。
僕は、彼女に語りかけました。
彼女の目から、涙が筋となって流れました。
多分、彼女は、ずっと前から、
起きていたのだと、思います。
僕は少し驚きましたが、
それでも、手元の力を緩めることはしませんでした。
僕の涙は、彼女が流した涙へと、
落ちていきました。
彼女は笑っていました。
完全に、彼女が人間を辞めた時、
彼女は微笑んでいたのです。
なんだかやるせない気持ちに、なりました。
僕は彼女の隣に寝転びました。
お疲れ様。
明日の朝には、
君は、もう僕と同じ存在だからね。
もう、泣かなくてもいいからね。
もう、苦しい思いはさせないからね。
おやすみなさい。
また明日。
僕は、彼女に向かってそう言いました。
彼女は返事をしませんでした。
今は、人間を辞めている時だから、
明日の朝になれば、
また、いつもと同じ笑顔で、
笑ってくれるはずだと、思いました。
そして、その時には、
臭くもなく、黒くもなく、
あのモヤモヤとした不安定さもないのです。
僕は、彼女には秘密で買った、
お揃いの指輪を取り出して、
しばらく眺めてから、枕元に置きました。
彼女の驚き、喜ぶ顔が、
目に浮かびました。
僕は、少し冷たくなった彼女の体を、
暖めるように、強く抱きしめて、
深い眠りへと、落ちていきました。
彼女は、どうやっても
再び目を覚ましませんでした。
僕は彼女を綺麗な『生き物』にすることに、
失敗してしまったのだと、悟りました。
彼女を強く強く抱きしめて、
僕は声を上げて泣きました。
いつもなら、彼女が優しく、
僕の頭を撫でてくれます。
いつもなら、彼女が笑顔で、
僕に面白い話をしてくれます。
いつもなら。
いつも通りでないということが、
こんなにも恐ろしいものだと、
僕は初めて知りました。
僕は泣き止むと、
もう一度彼女を人間にする方法を
考えました。
心臓マッサージをしました。
人工呼吸をしました。
固くなった彼女の身体を揉みほぐそうとし、
冷たくなった彼女の身体を暖めようとしました。
それでも、彼女は目覚めませんでした。
夜が来て、空には今まで見たことの無いほどの
沢山の綺麗な星が浮かんでいました。
胸の前で、手を合わせて、
涙を流しながら、僕は祈っていました。
そんな毎日を、幾度か繰り返しました。
彼女はもう、本当に、起きないんだ。
僕は、初めて、そう、しっかりと感じ取りました。
彼女は人形のようでした。
微笑んだまま、動かない、
可愛い人形のようでした。
彼女を見つめていると、
僕の中に、とても、今までになかった、
とても真実に近いような考えが生まれました。
彼女は、もう既に、綺麗な『生き物』になったんだ。
その『生き物』になって、
こんな人間だらけの汚い世界じゃあなくて、
もっと美しい世界で、僕を待っているんだ。
僕は、自分が彼女を「誤って」だけれども、
殺めてしまったということが、
正当化された気がして、なんだか楽になりました。
でも。
でも、もしもそれが本当なら、
僕は一体なんなのだろう。
この世界で生きる『生き物』が人間ならば、
僕はどんな存在なのだろう。
まさか、僕も、人間なのだろうか。
震えが止まりませんでした。
僕は、本当は人間である。
そう想像しただけでも吐き気がしました。
僕は、ほとんど何も口にしていなく、
空っぽの胃袋の中身を、
洗面所で吐き出しました。
目を上げて、鏡を見ると、
そこには恐ろしい『生き物』がいました。
髪は無造作に、ぐしゃぐしゃになって、
目は、ギラギラと鈍く光っていました。
目の下の隈は、真っ黒になっていて、
かさかさに乾燥した唇には、
その殺風景になってしまった顔に、
似合わないほどに、
真っ赤な血が、滲んでいました。
僕は、悪魔なのかもしれない。
そう、思いました。
もちろん僕は人間なんかじゃあない。
人間なんて、僕が思う中で、
最も汚く、嫌悪感に満ちた『生き物』です。
僕は、悪魔だったんだ。
今まで思っていた綺麗な
『生き物』じゃあないけれど、
大嫌いな人間なんかよりも、
よっぽど美しく、病的に黒く笑う悪魔。
鏡の中の僕は、嬉しそうに、
にっと笑いました。
僕は今、この文書を書いています。
そろそろ書き終わる頃でしょう。
僕と、彼女の、左手の薬指には、
同じ、シルバーの指輪が、光っています。
僕は、悪魔を辞めます。
そして彼女のもとへと、行きます。
あまり、待たせるのはよくないのですが、
これを書き終わってから、行きます。
彼女と同じ方法では、悪魔を辞められません。
なので、最期はもっと、悪魔らしく、
指輪と同じように、シルバーに光るこのナイフで、
首筋を、掻っ切ろうと、考えています。
上手くいくかは、わかりません。
でも、確実に、悪魔を辞められるように、
既に手首には、大量の切り傷をつけておきました。
切り傷というより、ほとんど切断面
と言った方が、いいかも知れません。
僕は、初めて、この目で、
人間の「骨」というものを見ました。
僕の手首は、もうぐちゃぐちゃです。
痛いです。苦しいです。
悲しくないのに、
これから彼女に会えるのに、
勝手に涙が出てきます。
綺麗な『生き物』に生まれ変わって、
彼女に会う時には、
もっと、強くて、優しくて、
父さんや母さんが望んだ存在になりたいです。
彼女に会うまで、
ずっと独りでした。
彼女に会うまで、
世界のことを、知りませんでした。
彼女に会うまで、
人を愛したことがありませんでした。
そして、僕がこの世に生まれてくるまで、
僕の父さんも、母さんも、
僕に関わった多くの人も、
そして彼女も、きっと、幸せでした。
ごめんなさい。本当に。
生まれてきて、本当に、ごめんなさい。
違うんです。
ちゃんと、わかってるんです。
僕は、僕は僕は僕は。
ああ、僕は、人間なんです。
わかってるんです。
最初から、幼い時から、
ちゃんと、わかってるんです。
父さんや、母さんや、周りのみんなと、
同じ人間で、とっても、嬉しいんです。
ただ、何にも取り柄の無い僕にとって、
才能だらけの周りのみんなと、
同じ人間であるということが、
本当に、本当に本当に本当に本当に、
辛くて、悲しくて、痛くて、堪らなかったんです。
こうやって、思い込むしかなかったんです。
ごめんなさい。
ああ、世界がどんどん暗くなっていきます。
僕の身体には、こんなにも大量の
血液が入っていたんだろうか。
ベッドの上は、もう、真っ赤になっています。
僕は涙を、もう、堪えきれません。
こんな人間になってしまって、ごめんなさい。
母さん、
僕を、人間として産んでくれて、
本当に、ありがとう。
父さん、
僕を、精一杯愛してくれて、
本当に、ありがとう。
何の孝行もしないで、
人に迷惑をかけるだけかけて、
勝手なことをしてしまって、ごめんなさい。
これから、彼女に会いに行きます。
今度は、しっかり、
僕達は「本当に」幸せになります。
みなさん、どうか、
この綺麗な、大きな、
幸せに満ちた世界で、
綺麗な、幸せな、人間らしい人間として、
ちゃんと、生きて、ください。
最期に、僕は、思うんです。
人間で、よかった。
ありがとう。
さようなら。