震えない魂
「な……っ」坂田は、カレンの一言に驚愕した。
心底から。
同時に戦慄している。
表情からは、血の気が失せていた。
「あぁ……やっちまった」
言葉に諦めが混じり、同時に、ついに言ってしまったな、とユーリは思った。
ユーリ自身は実の所、其れだけは言うべきではないと内心思っていたために、思った事をただ滔々と並べたてただけでは無く、それなりに言葉は選んでいたつもりである。
自尊心なんてものは大したものではない。
とはいえ。とはいえ、重要なものであるのもまた真実だ。最低限は持っている、または虚栄心と言うものを。
特に坂田の様なタイプにとっては。
それは最後の砦のようなものである。――坂田は殺し屋、であれば、ターゲットは必ず殺さなければならない。そしてそれが自分にはできる、その自信が無ければこんな仕事はやってられない。
だからこそ、言うべきでは無かったのだとユーリは思っていた。
『復讐復讐言ってるけど、衝動的な行動に走ったのは失敗だったと言わざるを得ない。そもそも、カレンが助けて無かったら、死んでいたのはお前なんだぞ』
本当は何度か言いかけた。命拾いしたのだ、とは口にしたが、坂田の癇癪に遮られたのだった。
或いはユーリの口から、はっきりそう言っておくべきだったのかもしれないが。
「あっれれ~~~~、まっさかぁ、本当にそれに気付いて無かったのかね? この子ったらもう、勘違いも甚だしいわぁ」
ユーリとは違い、カレンは専ら煽り嘲笑する事に徹していた。
もはや侮辱である。
――尤も、先ほどの言葉が偽りであったなどとはユーリは考えてはいない。
確かに(殺人が半ば生業の人間がそういうものに娯楽として傾倒しているのも奇妙ではあるのだが)刑事ドラマあたりに良くある、君のお姉さんは復讐なんて望んでいない、だからそんなことをさせる前に止めた、というカレンのその言葉は彼女の真心にかけて本音である。
ただ、事実ではない。坂田の死によりその復讐は成就する事は無かったのだから。
――真実を告げるだけでなく、確実に、坂田の自尊心を毀損する言葉の刃が容赦なく降り注いでいた。
悲嘆に暮れる坂田は、『こんな奴に命を拾われたのか』と思っているに違いない。それほどにカレンの態度は下卑ている。
まったき深い絶望も坂田の胸中を蝕んでいた。
まかり間違えば死んでいたと言う恐怖。そして助けられたという現実。
坂田は考える。
どちらにせよ、アイアトンを殺す事など、自分にはできなかった――それどころか、奴自身に殺されていたかもしれないのだ。
いや、確実にそうなっていただろう。アイアトンは銃を向けられても平然としていた。命乞いの一つや二つを期待していた。惨めな姿を拝んで、それから――しかし気付いたら引き金を引いていた。
冷静では無かったのだ。衝動に任せて行動をした。殺し屋にあるまじき醜態を曝したのは自分の方だったのだ。
助けられた事を感謝すべきなのか――しかし。
なおも野卑な笑みを浮かべたカレンの面罵は途絶えること無く。
「あたしは恩を売る気は無いけどぉ、ねえ、あんたはあたしに助けられたんだよぉ? アイアトンを殺したら、死ぬつもりだった? 笑わせるわぁ、あんた、気付いてるよねぇ、アイアトンに殺されてたって自覚するくらいには頭が働いてるみたいだけど、そしたらどうよ、さっきから怯えきって、ずっと震えてるじゃんか。生れたての子羊みたいにさぁ」
「カレーン、それ多分小鹿だぞー」
「ユーリうるさい」
「へいへい」
確かに、指摘通り坂田は震えていた。
自分自身、死を実感するのはこれが初めてだった。死の危機に瀕したと言う意味ではない。それくらいの状況なら彼女も何度も潜り抜けてきている。実感したのは、この瞬間、カレンの言葉によってつい先ほどの時分の記憶にピントが合った瞬間だった。目の前に迫る死。それは終わりだ。
アイアトンだって、そこまで余裕があった訳ではないはずだった。実際坂田がその意図を明らかにした瞬間、驚いた様子を見せても居た。
しかしカレンが察知した殺気は、アイアトンの笑みに含まれていたのだ。その笑みは、アイアトンが坂田に向けたものであったが、それが殺される危機に瀕した喜びの為であったのか、それとも坂田を返り討ちにする確信を持ってのものであったのか。アイアトンが死んだ以上推し量る術も無い。
しかし坂田が二人から告げられたのは、アイアトンは殺される事すら楽しんでいたという事実だった。あいつを殺して、自分は満たされる事が果たして。考える事すら虚しい。もはや自分には何も残っていない。
自分の覚悟が薄っぺらなものだったとは思わない。目の前の小娘に、それを貶められて、黙っている訳にもいかないじゃないか。
――もはや退路は断たれた。
坂田は立ち上がる。
カレン共にお互い視線は逸らさない。
逃げようと思えば逃げられる。行動に出るのは簡単だ。だが背後を見せた瞬間、カレンは一体どう動くのだろうか。
……もしかしたら見逃してくれるのかもしれない。
だがそれは賭けだ。坂田の脳裏には再びアイアトンの薄ら笑いが去来する。目の前で不敵に笑う小娘は、あいつと同じ人種だろうか。――それは自分も同じだった。
普通の人生を歩んでいた姉と、家を出て荒んだ生活を送った自分。きっかけは両親の離婚だった。そんな事はどうでも良い。逃げた所でどうなるものか。
自分は、アイアトンに殺されていたかもしれない。それは事実だった。先ほど実感した死はそれほどまでに現実性を帯びて圧し掛かってきた。圧倒的恐怖。
そう、自分は死を恐れている。
同時にそれも理解した。刺し違えもせず、アイアトンを殺す事も出来ず殺される。それでも良いと思った訳じゃない、やけっぱちでもない。そんな中途半端な覚悟であいつを殺そうと思った訳じゃない。
姉は自分とは違った。何も悪くなんかない。罪なき姉の命を絶ったあの男を、決して許せるはずが無かった。幸いにしてか姉が殺される以前から坂田はもはや裏の世界の住人であった。何の躊躇いもなく、あの男を始末できる。優しかった姉の笑顔を奪ったあの男を。
――姉は恐らくそんな事は望んでいないだろう。
言われるまでも無い。百も承知だ。こんな連中に、言われるまでも無い事だった。言われなくたって解ってる。
――ほんとにね、今さらだよ。お姉ちゃん。私はもう、いい子には戻れない。地獄の業火に焼かれるのを待つだけ。
じゃあ、これからどうする?
そんな事は知らない。姉の笑顔が思い出される。そうだ、私が人を殺す事を望まない以上に、私が死ぬ事を望むはずも無いのだ。罪を償って生きてほしい、人はいつだってやりなおせる。――もう遅いかもしれない。
でも、それに気付いた時、アイアトンの薄ら笑いは霧の様に掻き消えた。同時に、震えも止まった。
これからどうする?
そんな事は解らない。
でも、一つだけ湧き上がってきた事がある。
「……なんて最低な夜なのかしら」その呟きは二人には届かず、なおもカレンの嘲笑はやまず。
そして坂田は段々と、腹が立ってくるのだった。再びその身体が震えだす。
恐怖では無い。怒りによって、だ。今は湧き上がる怒りに震えていた。
ここで、こんな所でこんな奴らに殺されるなんて。
「…………冗談じゃない」