狙われた金
この夜は、あらゆる人間たちにとって万事がうまく運んでいた。全て滞りなかった。だが歯車は乱れてしまったのだ。一つとなく、幾つもの点において。
あの、何と言ったか忘れたが件の殺人サークルも、トレーシーを殺してさえいなければ、全滅の憂き目に会わずに密やかに事を進めていたかもしれないし、その場に居合わせていた露子は、アイアトンの手で殺されていたかもしれない。何もかも恙無く。この日までは全てうまく行っていたのだ。
そして、全てうまく行っていた、その事で言えば、最高の一日であった今日が最低の一日へと変貌を遂げつつある、アーバス・カルブレイスにとってはまさに、途中まではうまくいっていたのである。
アーバスはこの日の為に、半年も前から計画を練っていた。全ては、大金を手にするためである。あらゆる情報網と、相棒のパットン・クルーガーの助けも有って、この日の彼らは最高の仕事をやってのけた。
その、アーバスとパットンに金を奪われる事など想像だにしていなかった組織の連中は、今頃は間違いなくてんやわんやのはずである。もっとも、その騒ぎは決して表沙汰になる事はない。それすらも、アーバス・パットンコンビ(仮称)にとって計算ズクの巧緻な計画だったのだから。この二人に金が盗まれなければ、組織は大量の銃火器を横流ししてもらい、この街で一気に頭角を現せる予定だったはずだったが、見事に崩れ去った。
取引に際して、金が無いでは済まない。時間があれば用意できるかもしれないが、その時間すら用意できるか解らない。その後取引がどうなったかは、さて、後のお楽しみである。
アーバスパットンコンビは、計画通りに全てを遂行した。たった二人で。それは素晴らしい仕事だった。
さて、全てが上手く言っている時は、その後も全てうまくいくと思いがちである。
これを〈調子に乗る〉と言う事があるが、もっとも本人達は、調子がいい時には全てうまくいくのだという幻想の中に居るので、別に調子に乗って悪いことが起こるはずはない、と然も当たり前のように思いこんでしまう。
このまま、金を奪ってトンズラすれば良かったのである。
あやしいヒッチハイカーなんて無視してしまえば良かったのである。
序でに、などという考えは起こしてはいけない。逃げて、金を安全な所まで持ち込み自分たちの身の安全まで確保する、そこまでが〈強盗〉なのだ。
ヒッチハイカー相手に押し込み強盗をするなど、計画の内には無かった。
たったそれだけが、この素晴らしい泥棒コンビにとっての汚点となった。欲張ってはいけない。
……車内は暫く無言が続いていた。と言っても、ものの数分の間ではあったのだが。
運転手――アーバスは当然運転に集中しつつ、ユーリはユーリで喋る事も無くなったのでぼんやりと思案顔である。
実際に考えているのは、主に死んだトレーシーの事であったが、不本意ながら友人として、勤めを果たさなければならない、と言う事についてだった。
あの男には、別れたんだか別れていないんだか本当の所はわからないが、嫁さんと娘さんがいる。その連絡先も、社員の個人情報として知っている。困ったことに、そこは日本という僻地だ。
そして、後部座席でカレンと共に寝息を立てている坂田露子もまた、姉の墓参りのために生まれ育った日本に一度戻る積りでいる。これも廻り合わせと言えばそうなのだろうが、WNTに戻ったら、露子を新たに仲間に加える事と、その後の予定についても話さなきゃならない。日本行きの路程を。
「ところで……」思い出したようにユーリが口を開いた。
「あん?」運転手が横目で答える。
「真面目な話、お前ら、街で何をして来たんだ? 別に素人ってわけでもないんだろう?」
「……俺がそれを、お前さんに言う必要があるか?」
「全く無いね。ついでに言えば、このタクシーが目的地に着いたら、後はお前たちがどうしようと我々は一切無関心で済ませる積りでいる。全部チャラだ。道中、ヒッチハイカーを乗せて、そいつらの目的地まで送り届けてやった、それだけだ」
「…………お前ら、カタギなのか?」
「あの街ではあまり機能しているとは言い難い警察機構だが、一つ橋を越えたこの領域内では、あらゆる違法行為は御法度だ。つまり、ルールが違う。――お前が恐れている点について言うなら、俺にも警察官の知り合いはいるよ。それも、良くお世話になっている。優秀な奴だからね」
「そいつぁ、どういう意味でだ」
「有益な情報を与えてくれる。もちろんそれに見合う見返りは必要だが」
「へへ、腐ってやがるな」
「腐敗しているという意味なら、それは的外れな意見だな。残念だが、俺はこの後でお前らを警察に引き渡すことだって出来るんだから」
「…………あぁそうかよ、勝手にすれば良い」
「それにしても、運転なかなか上手いじゃないか。素晴らしい泥棒が、なんでついでに追い剥ぎなんかやろうと思ったんだ?」
「あ? お、おい、何でそれを知っている――」
「見知らぬ相手の車に乗るにあたって、先ずトランクの中身くらいは検めているに決まっているだろう、念のために。まあ、本当の所は、君の相棒を放り込んだ時にちょっと、な」
「抜け目の無い野郎だ」
「へえ、その通りだったのか」
「は?」
「今のは、半分くらい嘘だ。そもそも――」ユーリはそこで少し声を落とした。
「そもそも?」
「最初に自分らの事を強盗だと言っていたのは君たち自身だった。何をいまさらと思っているかもしれないが、その時はまだ君たちは、我々の口を塞ぐつもりでいたのだから――まあ油断していたから口が滑ったと言う所にしておこうじゃないか。つまり、教えてくれたのはお前だよ」
「そうかよ」
「にしても、俺は皮肉を籠めて『素晴らしい泥棒』と言ったんだぜ。それに引っ掛かる節があるなんて、余程の仕事をやってのけたようだな?」
「ああ、今日は本当に、何もかもうまくいく良い日だったんだ。泥棒として名が知られるとか、そんな事はどうでもいい。ただ完璧にこの日の計画を遂行して、大金持ってトンズラすりゃよかった。だが、お前らが現れて――調子に乗ってたんだよ。銃を見せりゃ、こいつらも思い通りに出来る――そんな風に思ったかもしれねえ」
「後ろの二人――俺の連れも、好きに出来るとでも?」
後部座席の露子とカレンはすっかり寝息を立てて、夢の中である。
「……いや、金は有るんだ、わざわざ拾ってまで、そんな……する事じゃねえよ。口を封じてそれまでだったさ」
「で、さっきはどうでもいいと思っていたが、もしかするとそうもいかなくなるかもしれないから聞いておこう。あの金は、お前ら一体、どこから盗んで来たんだ」
「……俺たちは半年前から計画を練って来たんだぜ。全てはこの日の為だったさ。俺の答えは変わらねえよ。何でそれをお前に言わなきゃならない?」
「……こっちの街の、辺境伯ジョスト・カールトン・ウィルコックス警部の目は決して節穴じゃあない。チンピラの小競り合いならともかく、あの街でそれだけの金が動く取引が今日行われているんだとしたら――」
「もしかしたら情報だけは届いているかもしれないが、俺たちが行ったのはその裏の裏ってやつさ。裏で行われていることが、表沙汰になる事はねえはずだ、表に引っ張って来ない限りは。そのお知り合いの警部に、今日どんなことが起きるはずだったか、聞いてみたらいい、へっ」
「……取引の一方が用立てなきゃならなかった金がここにある……お互い、無傷で済むだろうか?」
「へ、俺には関係ないさ。そしてこのままどうなる事か、もう解ったもんじゃねえ、最低の日だよ、今日は」
「だが、もし俺たちを乗せていなかったとして、この街を抜けて行くのにはまだお前の知らない関門がある。だからウィルコックス警部の渾名は辺境伯なんだ――きっとこのままだと、お前たちは逃げられない、かもしれない」
ふとユーリはここ数日、ブローディアが懸かりきっていた事務仕事について、思い当たる節が有った事に気付くのだった。
――死んだ彼奴の持っていた情報も、ウィルコックスの情報も精査しなければならなかったハズだ。で、何か良からぬことが起こる筈だったとして――
「……だから、警察にでも何でも勝手に突き出せって、さっきから言ってんだろうが、俺は!」
「――それが昨日、いや今日だったと言う事か?」
その瞬間、猛烈なエンジン音を背後から轟かせ一台のバイクが彼らの車の脇をすり抜けて行った――刹那。
「こんな時間に、なんだあのバイクは? まさか、俺たちを追って――?」運転手は俄に怯えを見せたが、ユーリは逆に驚いたように、眠たげだった瞳の焦点を前方のバイクに合わせた。
そのバイクに、ユーリは見覚えが有ったのだ。
「……あいつは、イルニア・リヤンか」
呟いたユーリは、シートベルトを外し、ウインドウを開けて車体から身を乗り出した。
バックミラー越しにそれを注視していたバイクの主も、同様に視線を背後へ向けた。
「――あれは、ユーリじゃないですか。なんであんな車に……」
すべてが上手く行っていたのは、この女にとっても同じだったのかもしれない。
「どうやら、あいつも目的地は同じらしい」
懐かしい相手を目にした喜びに微笑みを浮かべながら、ユーリは静かに元通り腰を下ろした。




