出世を目指す――その3
その3
今ひとつ意味がわからず、俺が首を傾げると、マヤ様は何も言わず、いきなり俺の上半身に手を伸ばした。
ちなみに俺は今、ここへ来た時に着ていた学生服ではなく、他の奴隷と似たような灰色の貫頭衣(頭からすっぽり被る胴衣みたいなの)を着込んでいる。
その左胸に手を当て、小さく呪文みたいなのを唱えた。
途端に、左手首の辺りが一瞬だけ燃えるように熱くなり、俺は飛び上がりそうになった。
「つっ。なんです!?」
「案ずるな。おまえの身分を証明するためだ」
「えっ」
マヤ様の視線を追って、俺は自分の左腕を眺めた。
そこには、あのクソ忌々しい鬼に填められた銀色のブレスレットがあったはずだが、それがなぜか赤い色に変色していた。
無言の疑問に、マヤ様があっさりと教えてくれた。
「所属によってブレスレットの色が変わるのだ、ナオヤ。銀色は共通して魔族軍の一般奴隷の証だが、赤色はこのマヤ直属の家臣ということだ。……階級はさすがに、今は上等戦士にしてやるのがせいぜいだが、所属が変わるだけでもかなり違うはずだぞ」
その説明を聞いて、俺はだいぶ驚いたね。
上等戦士というのは、奴隷長の今より二つ上の階級で、つまりは俺の直属の監督官に当たる二等戦士より上なのである。
もはや奴隷じゃないってだけでも万々歳なのに、いきなりすげー出世――のように思えた。
いや、上を見りゃまだまだ全然下っ端だが、それでもこれは驚異的な出世のような。
「……不服かもしれぬが、さすがに今はそれがせいぜいだ」
得も言われぬよい香りが漂い、俺はいつの間にかマヤ様に至近で見つめられていることに気付いた。
「ま、まさか! 厚遇に驚いているところです」
「驚くな、その程度で」
マヤ様はどっちかという素っ気なく言ってのけた。
胸の下で腕を組み、厳しい目つきで告げる。
「どうせなら、いつか魔界を――いや、全世界を支配する、このマヤの右腕になることを考えるがよい。マヤは、覇気のない男は嫌いだ」
「はっ」
ぐさっと胸に刺さる思いで、俺は軽く低頭する。
まあその通りだろうけど、俺にも言いたいことは多い。そのせいか、とっさに口にしてしまった……言わずにおこうと思ったのに。
「一つ質問していいですか」
「なんだ」
「俺と同じように、召喚されてここへ来たヤツも多いと思いますが、そいつらはどうなりました?」
「生き残った者は少ない」
マヤ様の返事は端的だった。
「百人のうち、一人残ればいいところだろうな。実際は、もっと少ないかもしれぬ」
「そう……ですか」
普段からほとんど似た境遇(つまり異世界人)のヤツを見かけないし、そうだろうなとは思ったが、改めて聞くとがっくりするな。
心中では既に警告ランプが点っていたが、勢いに任せて俺は言った……言わずにはいられなかった。
「お願いがあります」
「聞こうではないか」
「……俺はまあ、この世界に馴染んできたし、こうして戦うことに後悔もないんですが……大抵のヤツは、俺ほど順応できないはずなんです。今すぐとは言いませんが、将来的には、あの身も蓋もない無理矢理召喚をやめてもらえませんか」
ぶちまけた瞬間、俺は内心で大いにブルった。
なぜなら、黙って聞いていたマヤ様の薄赤い瞳に、雷光にも似た怒りが走るのがわかったからだ。密かに思っていたけど、やはりこの人は、他人に忠告されることに慣れていないようだ。
こ、これは殺されるっ。いや、殺されないまでも、一年前の鬼共みたいに壁に叩き付けられる――と身構えかけたのだが。
しばらく押し黙った後、マヤ様は大きく深呼吸などした。
そしてまた俺を見た時には、既に怒りの表情は消えていた。
「道理の通った臣下の諫言は、腹が立っても耳を傾けるべし――昔聞いた父の言葉だが、なるほど、諫言とは腹が立つものだな」
ち、父って魔王陛下のことだよな? 魔王様の割に、なんと話のわかる人だ。俺みたいな下っ端だと、見かけたことすらないけど。
「ちなみに、この召喚自体は父が始めたことだが、ナオヤの進言にも聞くべき点はある。確かに、戦う覚悟のない者を無理に戦場へ放り込んでも、結果は見えているようだ。生存率がそれを証明している」
マヤ様は冷静に語り、一つ頷いた。
「よし、ではこうしよう。近々、父におまえの意見をこのマヤの意見として進言しておく。父は話のわかる方故、意見を聞いてくれるかもしれない。……今のマヤには、ここまでが精一杯だな。これでいいか?」
「十分です……身分を引き揚げてくれたばかりか、俺の意見を聞き入れて下さり、どうもありがとうございます」
心からの感謝と共に、俺は丁寧に一礼した。
顔を上げた時、なぜかマヤ様は悪戯っぽく笑っていた。
「では、今度はマヤの番だな」
「……えっ」
「えっ、ではない。おまえに期待するが故に、その進言にもきちんと耳を傾けたのだ。当然おまえも、このマヤの臣下に相応しいところを見せねばならない。無能者の進言を聞く暇など、このマヤにはないのだぞ」
「えー、具体的にはどうせよと」
「……うふふふ」
艶然と微笑んだ後、マヤ様はくびれた腰に片手を当てて俺をとっくりと見た。
いや、それだけではなく、何と小さな手を伸ばして俺の頬をゆっくりと撫でた。まさに、姫君がペットの犬を愛でるような目つきに見えた。
「マヤに感謝せよ、ナオヤ。おまえのために、最初の任務を選んである。マヤの直臣に相応しい任務だぞ! ぜひ期待に応え、華々しい武功を上げるがよい」
「え、ええと」
なぜかむちゃくちゃ嫌な予感がして、俺は脂汗をかいて突っ立っていた。