序章 いきなり一兵卒②
これはもう、土下座でもなんでもして命乞いするべきか――と屈辱的なことを考えたその時、唯一の戸口から、慌ただしいノックの音がした。
いや、ノックというかダンダンッとドアを殴りつけるような音が。
「これから食事だ、遠慮しろっ」
鬼その1が、「ちっ」という顔で怒鳴ると、すかさずドアの向こうから返事が来た。
「馬鹿、それどころじゃないっ。ダークプリンセスが――マヤ様が突然の視察に来られたぞおっ」
この言葉を聞いた時の、人外二人の慌てふためきようときたら!
「な、なんだとぉおおお!」
「なんで、魔王陛下のご息女が、こんな地下の奴隷街にっ」
二人してあたふたと喚いたが、その間にも外ではがなり立てる声がする。
「おいっ、聞こえてるか!? マヤ様はつい今し方、抜き打ちで来られて、もうすぐこちらへいらっしゃる。召喚している場所を見たいとの仰せだ」
「そ、それなら他にもたくさんあるだろっ」
鬼その2が恨めしげに述べたが、向こうはいよいよ激しく怒鳴った。
「もう遅い。言ったろ、抜き打ちだって! すぐにこちらへ――うわ、もう来られたっ」
ドアの向こうでは、焦った声を最後に、いきなりぶっつりとセリフが切れた。後は、ドスドスという足音が遠ざかるのみ。
二匹の鬼は、見事に引きつった顔を見合わせた。
「俺、遠くからご尊顔を拝んだことがあるだけだ」
「お、俺なんかまだ見たことすらねー。しかし、きっついお方だと聞く……粗相があったら、二人共殺されるぞ」
鬼その2の言い草に、他人事のように聞いてた俺はびびりまくった。
こんな……見るからにごつい鬼に恐れられる魔王の娘って、どんな化け物だおい……女性とはいえ、あんまり見たくないぞ。どうせ、「鬼その3」みたいな女だろうし。
そう思った瞬間、間が悪いことにノックの音がした。
ただし、最初より遥かに小さな音で。
それでも、二匹の鬼がドン引きの顔でドアを見つめたのは、無理もあるまい。
「ど、どなた……ですか?」
鬼その2の震え声に、ひんやりとした声が応えた。
「マヤです。すぐに開けなさい」
「うわっ。た、ただいま、ただちにっ」
鬼その1は、妙な言い方をして、文字通り飛び上がった。
大慌てで走り寄り、ごついドアを開ける。
その間、既に鬼その2は部屋の隅で石床に跪き、頭を垂れている。加えて、ドアを開けた鬼その1も、外を見ないままお辞儀した状態で後ずさり、相棒の横で同じく跪いた。
跪いたといっても、両膝と両手を揃えて石床につき、さらに額を石床にこすりつけるような、独特の姿勢である。なんか……見た感じすげーかっこわるい。
土下座した姿勢で、思いっきり尻を上げているような感じだ。女の子ならともかく、ごつい鬼がこんな姿勢とっても、少しも嬉しくない。
つか、なんでこんな恐ろしげな鬼共が、恭しく迎えてるんだ。
と思ったら、その二匹がかっこわるい姿勢を崩さないまま、こっちを睨んできた。
「おいっ。跪け、雑魚餌!」
誰が雑魚餌だよ!
むっとしたものの、相手が魔王の娘(魔王とかマジかっ)というなら、そりゃ尻餅ついてるみたいな姿勢で迎えるのもまずいだろう。
そう思い、俺は慌ててその場で片膝をついた。
鬼の真似して両膝つくのは、あまりにもかっこわるいだろうと。
「ば、馬鹿っ。ちゃんとお迎えする姿勢を――」
鬼その1の声が途中で消えた。
……外から、一人の女の子が入ってきた途端、それこそぶっつりと途切れた。
どんな化け物だと思って俺はこっそり上目遣いに見たが……今度は別の意味でびびった。
なんと、これまで見たことないほど可愛い女の子だったからだ。
着ている服は、光沢のある漆黒のコルセットドレスで、スカートはフリル状の短いヤツだった。むちゃくちゃ形のいい足には、黒いストッキングを穿いている。
(光沢からしてパンティーストッキングにしか見えないが、この世界にもあるのか)
全体的に、「色気を重視したゴスロリルック」と言えばわかりやすいかもしれない。
こんなドレスはよほどスタイルがよくないと着られないと思うが、この少女には恐ろしいほど似合っていた。
口を半開きにしてさらに視線を上げると、ストレートロングの金髪姿の、可憐な少女と目が合った。瞳は薄赤い色で、やや吊り目がち……むちゃくちゃ美人だけど、確かに性格はキツそうだ。
しかし……化け物には全然見えない。ああ、見えるものか!
予想に反したことはまだあって、どうやらこの子、俺の同年代みたいなのだな。コルセットドレスが強調する胸もそこそこあるんだが、やはり年相応なのだ。
これで二十代とかのはずはない。
一人で納得していたら、その子が言った……ブリザードみたいに冷えた声で。
「変わった挨拶の仕方ですね。マヤは初めてみました」
「えっ」
俺がまた阿呆のように訊き返すと、女の子は黙って俺の足下を指差した。どうも、片膝ついた姿勢を指した発言らしい。
「あ、すいません……その、ここに慣れてないので、思わずこんなやり方を。ええと、その二人を手本にやり直します」
もそもそと姿勢を変えようとすると、マヤが首を振った。
「よい。……そちらの方がマヤには美しく見えます」
「あ、ありがとうございます」
わあ、気が合うじゃないかとばかりに俺が笑うと、マヤは釣られたように微笑んでくれた。これがまた、氷の彫像が微笑したような、冷たい中にも気品がちらつく表情で、俺はぼおっと見とれてしまった。
しかし、何がまずかったのか、隅っこで土下座していた鬼共がやかましく騒ぎ立てた。
「おいっ、奴隷の分際で姫様を直接見るとは、どういう了見だっ」
「目を逸らせっ。不敬罪に当たるんだぞお!」
「りょ、了解!」
そういうのは先に言えよっ、と俺は焦って言われた通りにしようとした――が。
そこでマヤの表情が一変した。
それまでは、冷たい中にもどこか俺を思いやる様子が窺えたのに、突然、瞳の薄赤い色が真っ赤に変化したかと思うと、素早く鬼共を振り返ったのだ。
「無礼者っ」
斬り裂くような叱声が迸った。
「誰が、口を利いてよいと許可した!」
言下に、左手を上げて鬼の方に向けた。
途端に、二匹の鬼の巨体があっさり持ち上がり、気安く壁際に放り投げられた。もちろん、誰も直接には触ってないにも関わらず、だ。
野太い悲鳴が上がり、ごっつい鬼共が為す術もなく、壁に叩き付けられてしまう。
「がふっ」
「うごおっ」
二人してキテレツな声を上げ、そのままびたんと石床に潰えた。
うわ、泡噴いてるぞ……こいつらタフそうなのに。
俺が石みたいに固まっていると、問題の姫様ことマヤは、「マヤを怒らせるからです」としれっと述べた。
この子、見た目よりヤバいっ。あと、気が短かすぎ!