一般人には見えない
さすがに深淵に等しいような奈落を見下ろせば、あるいは気が変わるかもしれないと思ったのに……まずいことに俺は、死の気配に鈍感になっていた。
一年とちょっとを戦いの日々を送ることに費やしたせいか、以前よりさらに死を恐れなくなっていたのだな。
もちろん、これは全然自慢にもならない。
本物の勇者なら、ここで発憤して引き返すのだろう……多分。
マヤ様という張り合いを失った途端、早速にして元の駄目なボッチに戻る俺は、やはり勇者には遠かったのかもしれない。
「おいっ、早まるな!」
いきなり胴間声がして、俺は思わず振り向く。
呼ばれたばかりなのか、まだ若い警官が焦った顔で俺を見ていた。「おまえ、ホントにやらかす気か!?」と言いたそうである。
なぜか口元にはメガホンみたいなものを当てていて、物凄く声が響いた。
「死んだら元も子もないぞっ。俺だって、警察学校出たばかりで先輩にいびられてるけど、なんとかやってるんだ」
……などと愉快なことを叫ぶ彼の後ろには、このビルのガードマン達が十名近くと、おまけに野次馬の群れまで遠巻きに俺を見ていた。
もちろん本物の警官も大勢いて、遠巻きに警備に当たっている。なんでこの若い人が代表で叫んでるのかと思うが……せめてもの善意で、俺は穏やかに言ってやった。
「見ない方がいいですよ。多分、あんまり気持ちのいいもんじゃないと思うし」
「いやいやっ。おまえちょっと待てって!」
メガホン持ったまま、慌ててこっちへ駆け寄ろうとした彼を無視して、俺は思いきりよく飛ぼうとした。白状すれば、その瞬間だけは、なんだかひどく気分がよかった。
ようやく、寝ても覚めてもあの人の顔ばかり思い出す生活が終わりになると、そう思ったせいかもしれない。
しかし――まさにその瞬間……ギリギリその瞬間だった。
ビルの中から狼狽したような大声が幾つも上がり、俺は危ういところで足を止め、背後のフェンスを掴んだ。
なぜなら、大勢がてんでばらばらに喚いたような声の中に、「に、日本人じゃないし、言葉が通じないだろっ」と叫んだヤツ(多分、警官?)がいたようなので。
なんとなくそのセリフに後ろ髪を引かれ、屋上へ至る自動ドアをじっと見ていた。
見苦しいが、最後の希望というヤツだ。
……しかし、あいにく俺が見ていたそこには変化がなく、なぜかいきなり「どかっ」と言語道断な音が、屋上隅からした。
そこには非常口となっている階段へ至るドアがあるのだが、その鉄製のドアがくの字に折れ曲がり、すげー勢いで飛んでいった揚げ句、屋上のフェンスにぶつかって落ちた。
この辺りで俺はもう胸がざわざわして、完全にそちらを向き、非常口を見つめていた。
何事かと駆け寄った警官やガードマン達も、次の瞬間には絶句して立ち止まってしまった。
「いや……俺、英語は無理だぞ」
「そうじゃなくて、誰だよ、この場違いな人。なんかの撮影か?」
「ハリウッドの……多分、女優?」
「ぷ、ぷりーず、すとっぷ!」
最後に誰かが拙すぎる英語で警告したが、無視してあの方が颯爽と登場した……恐ろしく不機嫌な顔で。
短いスカートのコルセットドレスに、長い金髪……そして、瞳はあくまでも刺すように鋭く、俺を見つけた途端、急激に色変わりして真紅に染まった。
大きく息を吸い込む。
「やっと見つけたぞ!」
呆然と見つめる俺にしか、その言葉は理解されなかったらしい。なぜなら他の連中は、みんなきょとんとしていたからだ。
そらまあ、彼らに言語変換の魔法なんか、かかってないだろうしな……などと、俺はぐるぐるした頭の中で思う。
俺とマヤ様は、屋上の端と端で、何となく見つめ合う形となった。頭が痺れたままの俺をじばらくじっと見やり、マヤ様はいきなり不機嫌そうに言い捨てた。
「苦労したのだぞ、ナオヤっ。ネージュの力も借りて、いちいちナオヤから聞いた世界に近い場所を探してな。このマヤともあろう者が、何百回無駄足を踏んだことか! 帰還した後に、苦労話をたっぷりと聞かせてやらずばなるまい」
「な、なに言ってるかわかったか?」
「いやぁ、さっぱりだな」
「英語じゃないぞ、しかし。歌声みたいな妙な言語だ」
「前にフィンランド人から、似たような言葉を聞いた気が」
「でも怒ってるのだけはわかるな……」
みんな勝手な予測を述べつつ、「とにかく、どっかの国の若手女優か大物歌手に違いない」などと、そこだけは見解が一致していた。
「あんな一般市民がいるわけないしな」とも。
ただ、皆の注目など意に介することもなく、マヤ様がずんずん歩き始めたので、当然ながら焦った警官連中は止めようとした。
「プリーズ、プリーズ、どんと――」
何を言おうとしたにせよ、手を伸ばして押さえようとした時点で、マヤ様がぎらっと彼らの方を睨んだ。それまでは、そこら辺の石ころに等しい無関心さで、無視していたのである。
「気安く近寄るな、無礼者!!」
「――っ!」
……あ、不可視の力でまとめて四~五名ほど吹っ飛ばされて、さっきの金属ドアみたいにフェンスに叩き付けられた。
当然、白目剥いて伸びてしまっている。
たとえ、魔界から俺の世界に光臨しようが、やはりマヤ様はマヤ様なのだった。
滲んだ俺の視界の中、マヤ様は恐怖に静まり返った屋上を悠然と歩き切り、フェンスの前に立つ。
「ふん?」
頑丈な編み目の金属フェンスを嘘みたいな気安さでバリバリと引き裂くと、ついに俺と同じ「こちら側」に出てきてしまった。
そこでようやく立ち止まり、俺を見つめる……じいっと
ようやく険が取れて、目を瞬いた。少し、視線が優しくなった。
「……何を泣いているのだ、愚か者」
「すみません」
俺は素直に低頭した。
「でも、マヤ様も泣いてますよ」
目の縁に盛り上がった涙を見やり、あえて指摘してあげた。
すいません、長すぎるので最後まで書き切れませんでした。
次回で何とか終われるようにします。




