クライシス
冬耶は自分が働く店に夏廉を来させていた。ここへ来させたくないから自分がここで働くことにしたのに。
なにやってんだ俺は?自分の無能さに腹が立ったが、変なヤツが夏廉の周りをうろついていると知れば夏廉を一人にしておきたくなかった。
以前部屋でも夏廉があの男の意識を感じたとなると、それは余計にだった。
あの時は冬耶が側にいたのに。
冬耶が側にいると夏廉が感じる他人の意識が遮断されるのを冬耶も知っている。それでもそれを感じたとなると、そいつの感情はかなり強いものだと言うことだ。
先日の夏廉のダメージを考えると軽く見過ごせないものがある。以前二人の間がどんなだったか冬耶は知らない。本人の夏廉でさえ細かく覚えていないらしいからなおのこと判らない。
ただあの男が夏廉に執着したことを想像することは容易かった。冬耶でさえ夏廉につきまとったのだから。
その男を手ひどく振り払ったのも同情するつもりもない。おそらく男だって夏廉がどんな暮らしをしていたのかは知っていたはずだ。それを承知で寝たくせに。
冬耶の胸には男に同情するどころか、許せない気持ちの方が勝っている。あの男が夏廉を抱いたと思うと許せない。判っていても理屈ではなかった。ましてやその事で逆恨みするなどとんでもなかった。
面倒なことにならなきゃいいけど。溜息が出た。忙しいのだが、目が夏廉から離せない。
彼はと言うと、放っておくときりがない。彼に意味ありげに話しかけてくる人間。男も、女もだ。何を言ってるかは想像したくもないが、こんな所に居れば仕方ないかも知れない。
夏廉はその度に相手を見上げ、例の表情のない目で面倒くさそうに見ている。ただ、相手の値踏みだけはしているようだった。
やめとけ、と言いたかった。以前、金が絡んで喧嘩をして体中傷だらけになって帰ってきたことがあった。そうやって、あちこちを転々と彷徨う資金を夏廉は稼いできたのだ。
そうでなければ、誰かに……あの男と同じような男女がたくさん居る。そう思って冬耶は一瞬目を閉じた。
想像なんてしたくなかった。仕方なかったのはわかっている。子供の時から一人で、そうやって誰かに生きる糧を与えて貰うしかなかったのだ。そうでなければ夏廉は生きて来られなかった。冬耶も夏廉と会うことができなかった。
だからその人間達や夏廉をを責めるのは間違っていると思う。そして冬耶が夏廉の面倒を見ると言うと、怒る夏廉の気持ちも分かる気がする。多分夏廉は今までの相手と、冬耶を一緒にしたくないのだ。
生活のために冬耶を利用しているわけではないことを、冬耶に判らせたいのだろう。たしかに、夏廉を外に出さず自由を奪ったら、今までの人間達より酷いかも知れない。わかっている。それでも冬耶の心配はつきないのだ。
『愛している』その免罪符でどこまでが許されるのだろう?
若い女が、夏廉にもたれかかるようにしているのが見えた。ブランド物を身につけ、いかにも金がありそうな身なりをしている。気のない素振りの夏廉にしつこく話しかけている。ろくに返事もしない夏廉に顔を近付けていた。
綺麗な顔をした女だった。唇が夏廉の顔をかすめるように動くのが見えた。 それを見て冬耶の頭に血が上った。思わず相手が店の客だと忘れかけたとき、
『落ち着け』声が聞こえた?かれん?夏廉を見つめると、うざったそうに女をどけてこっちを見ていた。
驚いた顔をすると、『聞こえたか?』落ち着いた優しい夏廉の声が聞こえた。
あぁ、そうか。夏廉のテレパスか。
『やっぱり聞こえるんだ』
『うん、聞こえた』
『そうかやっぱりな、もしかしたらと思った』
『こんなことも出来るんだ』
『誰にでも……じゃないと思うけど』
『すごいね』
『オマエ、わかりやすすぎ!いますごい顔で俺のこと見てたぞ』
『おまえじゃないよ、女だよ』
『やきもちかぁ?』
『違うって!』
『わかりやすくて助かるよ』
『うそつけっ!どうせ人のこと覗いたくせに』
『そうじゃないよ、オマエの顔見てわかったもん』
『うそつけ!』
『ほんとうだって』
「うそだっ!」
最後の言葉を声に出してしまって冬耶は焦った。思わず周りを見回してしまう。夏廉が可笑しそうにこっちを見て笑っていた。
冬耶がカウンターの中でちょっと困った顔をしている。離れた場所からそれを見ていた夏廉はそんな冬耶を可愛いと思った。
単純なヤツ。真っ直ぐで裏表が無くて、自分を飾ることもしない。嘘も付かない。単純でいること、純粋でいることがどれだけ難しいことか夏廉が一番知っていた。
難しい、少なくとも夏廉には出来ないことだったし、今までそんな人間に出会ったこともなかった。相手の心は読むことはあっても話しかけるなど、今まで夏廉は試したことはなかった。
非常に危険だし、やってみたいとも試そうとも思ったことはない。多分出来るだろうとは思っていたが、こんな人混みの中でもちゃんと冬耶に自分の想いが聞こえることが判って何だか安心した。
店が混んできて冬耶は忙しそうだった。それと同時に夏廉の周りも騒がしい。さっきの女のようなのが後を絶たない。一人二人、簡単な賭を持ちかけて小金を巻き上げてやった。
そんなことは容易い。金を持っていそうな相手にちょっと笑いかけて、持ちかければ夏廉への下心も手伝って簡単に引っ掛かる。
そのあとだってその気なら……ナンパされてやれば、いっそのことその方が簡単なのだが。先ほどの賭で巻き上げるのとは桁が違う額が夏廉には簡単に稼げる。だがいまはそんなことが実際に出来るはずがない。冬耶が許すはずもないし、夏廉自身ももうそんなことが出来るとは思えなかった。
実際、冬耶の部屋を飛び出したときはまたそういう生活の戻るつもりだった。なのに飛び出したあの晩はどうしても客を取る気にはなれなくて、初めて着いた町で何もせずに夜を明かした。
明日にすればいい。今思えばそれが「逃げ」の言い訳だったことがわかる。
結局自分はもう、冬耶以外の人間には抱かれたくないのだ。それまで嫌も好きもなくて、必要だったからしてきたに過ぎないのに。他の人間に触れさせると思っただけでだめだった。
結局、一晩中町をふらついて時間をつぶしていたら明け方には冬耶に見つかった。
たった24時間。丸一日で、違う町に来た夏廉を冬耶は見つけてしまった。
あの時の驚きと安堵を夏廉は忘れられない。そしてたぶん、あの時冬耶と出会えなかったら生きていく糧の「仕事」を失ってしまった自分は死ぬしかなかっただろう事もわかる。
なんでもないことだったのにな。まるで「物」のように他人に与えていた身体は、もう冬耶一人のものだった。ひとはこんなに誰かに出会って変わるものなのだろうか?信じられないくらい変わってしまった自分を感じる。
何も要らない、必要ない。冬耶が居ればいい。夏廉にはそれだけだった。
『ちょっと来いよ』それはどこから聞こえたのか。直接夏廉に呼びかけてくるとは。
『裏まで来い!』立ち上がった夏廉は冬耶に視線を送った。忙しく客のオーダーを受けている冬耶はこちらに気付いていなかった。夏廉は冬耶の目に触れぬようにそっと席から離れた。
裏口に出ると路地の奥にあの男が居た。夏廉よりだいぶ年上だったはずである。覚えているのはそれくらいか。
「随分しゃれたマネするな、俺に直接呼びかけるなんて」
男の口元が少し歪んだ。
「それはこっちのセリフだろ、まさか呼びかけて聞こえるヤツがいるとはな。本当にあの時は驚いたぜ。人のことをコケにしやがって。オマエのことを随分さがしたけど判らなかった。もう忘れた頃に会うとはな。」
内心夏廉は失敗したと思った。この街へ来なければ良かった。
「ちょっとな、いろいろ研究させて貰ったぜ。現実味のない話しかと思ったら世の中じゃ結構科学的に研究なんかされてんじゃないか?えっ?超能力とかいうやつか?」
バカにされたような気分になったが、まともに相手になる気はないし、昔この男に自分がしたことを思えばいまは何も言えない。
「俺はオマエの事が好きだっただけなのに、オマエは俺のことをバカにして、利用だけして捨てたんだ」
「捨てた覚えはねーよ、だってはじめっからそんな関係じゃねーもン」
「そうだろうな、オマエはそう言うヤツなんだよ」
「勘違いすんなよ、俺は誰かのもんになったことはない。金と引き替えにこの身体を貸してやるだけだよ。時間切れになったら終わりになるのは当たり前だろ? ルールは守れよ」
「なんだとっ!」
勘違いは自由だが、この男のものになったことなど無い。夏廉は誰のものにもならないし、なったこともない。たった一人、冬耶のものになるまでは。
男が夏廉に詰め寄った。後ずさろうとしたとたんに、男が飛びかかり首に手が回された。すごい力に一瞬で息が詰まった。
冬耶が気付いたとき、夏廉の姿がなかった。トイレにでも行ったんだろうか?忙しくて注意がそれていたが、少し待っても夏廉が戻ってくる様子がない。生憎客の切れ目もなくて、探すこともできない。
イライラしながら過ごす。ふと思った。目を閉じて呼んでみた。
『かれん!?』返事はない。自分からじゃ無理なのか?夏廉のことを思い浮かべて必死に呼んでみる。『かれん!』やはり返事はなかった。ダメなのか。自分はテレパスじゃないから、夏廉から呼んで貰わないとダメなのかも知れない。
『夏廉』海辺で見た笑顔を思い出してもう一度心で呟いた。何処に行ったんだろ?早く戻ってこい、そうでないと落ちつかな……『トウヤッ!』 聞こえた声に思わず冬耶は振りかえったが、当然後ろにはグラスと酒が並ぶ棚以外何もなかった。
『どこっ!?』『夏廉、何処なんだ?』音で聞こえているわけじゃないので方向が判らない。いつものように、何も考えていなかった。体が先に反応する。 すぐに裏口から飛び出していた。
夏廉の首を絞めていた男は本気だった。殺される、と思った。以前の夏廉なら、素直に殺されてしまったかも知れない。生きていることは面倒なことばかりだから。
でも。自然に手足が男の手から逃れようとしていた。『ヤダ……トウ・ヤ……』『冬耶、助けて……トウヤッ!』声なんかでなかった。意識がなくなる前に気持ちを飛ばした。そして気付いたら、男の手がはなれていた。
頭がガンガンする。声どころか、呼吸もままならない。倒れ込んで呼吸を整えていると男の声が聞こえた。
「そう言うことか」
男は立ち上がり去っていった。冬耶に殴り飛ばされたらしい。
「おい」
「だいじょうぶだ」
冬耶に抱き起こされて夏廉は呟いた。
「もうちょっとオマエが遅かったら、危なかったかも?」
笑う夏廉の顔を見て冬耶は怒っていいのか泣いたらいいのか判らなかった。
「アイツ逃がすんじゃなかった」
夏廉の姿に驚いて冬耶は追いかける事を忘れていた。
「オマエ、死んじゃったかと思った」
冬耶の方が青ざめて死人のような顔をしていた。
「平気だよ、お前がちゃんと来てくれたから大丈夫」
安心させようとする夏廉に、
「ダメだ、早くここを出よう」
冬耶が夏廉を抱きしめたまま呟いた。