イノセント
伸びた髪を少し煩そうに揺らしている。カウンターの中で客のために酒をつくっているそのうつむき加減の顔をさっきからずっと眺めている。若い女の客が何人かで、彼を見て騒いでいるのが判る。
ふと顔を上げた彼が、こちらを見る。微笑んだ彼の顔を見て、自分がずっと冬耶を見つめていたことに気付いた。
バカみてぇ……これじゃぁその辺の女と一緒だ。夏廉は慌てて視線を逸らしたが、やはりまた冬耶の方を見てしまう。
周りがかなり騒がしい。それは耳から入るものと、直接響いてくるものと―――
シャットアウトしているせいで、遠くに聞こえてはいるが余り聞きたくはないものだった。自分たちに関係ないものもあるが、冬耶にあからさまな関心を寄せているそれは、あまり上品な思考の類ではない。それを知って不愉快になっている自分が居る。人間のそんな感情には慣れっこの筈の自分が……である。
『モテる恋人にヤキモチを焼くその辺のヤツと一緒だな』一人で笑いが漏れる。それにしてもまったく何時から自分はこうなってしまったのか。冬耶は冬耶で時々心配そうな視線を送ってくる。
『大丈夫だって』あんまり彼が心配するので、他の店には行かずにここで過ごすことにした。
とりあえず、ギャンブルの相手が見つかるも良し、見つからなければそれで仕方ない。冬耶はここへ来ることすら反対したが、冬耶が一人で働く稼ぎでは二人で生活するだけでいっぱいだろう。
また何時この街を出なければならないかも知れず、多少のまとまった金はどうしても必要だった。生きていくということはそういうことだ。綺麗事は言ってはいられない。
本当のことを言えば、ギャンブルでなくても以前は稼ぐことが出来た。ちょっと我慢して誰かの相手をすればいいのである。男でも、女でも。その気になれば相手はいくらでもいる。
新しい街へ行って住むところが見つからなくても、一晩や二晩夏廉を家やホテルに泊めてくれる相手はすぐに見つかる。
でも、まさか今はそんなわけにはいかない。前の自分はそんな暮らしをしてきたのだが。冬耶はほんとにそんな自分を判ってるのかと思う。事細かに話したことはない。
そんな話は聞きたくもないだろうし、夏廉も無理に話すつもりはない。けれどそれは事実だし、今だって。冬耶だけでなく自分に向けられているあからさまな感情を跳ね返すだけで疲れる。長い時間こうしていれば、また頭痛に変わるのは判っていた。
その時感じたもの。いつか部屋にいるときに感じたものと一緒だった。
一瞬、身構えた。そして、『なに?』いきなり、目の前に立った男を見て警戒した夏廉に男が言った。
「久しぶりだな?戻ってるとは知らなかった」
『誰?』めまぐるしく思考が動いたが、生憎すぐに思い出せない。
「おや、忘れたのか……まぁお前にとってはそれくらいのことで、いつもの事ってヤツだな」
男はフン、という感じで夏廉を見下ろす。そしていきなり『それ』をぶつけてきた。
頭が割れる、と言うよりは直接心臓に響いてきた感じだった。『うっ!……っ』と、声にならないうめきの後はしばらく動けないのでじっとしているしかなかった。
椅子に座っていなかったら、倒れていたかも知れない。テーブルの端を掴んだまま、周りに悟られないように俯いてやり過ごした。苦痛で冷や汗が流れる。意識を失わないのが不思議なくらいだった。
「思い出したか?」
男は面白そうに苦しそうな夏廉を見下ろしている。だが夏廉には声が出せない。もう一度同じ感情をぶつけられたら、今度は無事でいられそうにない。
こいつ、知ってて……相手が誰か思いだしたと同時に、目の前の男が夏廉の能力を知った上で行動していることを悟った。感情を消して近づいて、目の前でいきなり最大にして憎しみをぶつけてきたのだ。
「どうしました?」
その時冬耶が話しかけてきた。向こうで見ていて不審に思ったんだろう。その事に気づくと男は何も言わずに去っていった。
「かれん?」
男の背中を見て冬耶が夏廉の顔を覗き込む。真っ青な夏廉の顔を見て、何も判らない冬耶が不安な顔をする。
「大丈夫だよ」
もう感情の波は去っている、何事もなかったように。
「もう帰ろう?」
1時間後、早めに仕事を上がった冬耶が夏廉を促す。だが冬耶と部屋に戻っても夏廉は落ち着かなかった。
「ここを出なきゃいけないかも」
冬耶に告げた。
「さっきのヤツか?」
「あぁ、明日とは言わないけど、そうなるかも」
「べつにいいさ、でも準備はいるな?」
「そうだな」
自分ひとりだったときと比べて、身軽にはいかない。行き先だって決めなくてはいけないし、すぐに住むあても決めないといけない。やはりまとまった金が要る。すぐには無理だが準備しないといけない。
『俺に話す気ある?』それは言葉ではなかった。冬耶は背中を向けたまま自分の感情を送ってきた。夏廉は溜息をひとつついた。
「構わないけど、お前が聞いて気持ちのいい話じゃないぜ? 今更俺はオマエに綺麗事を言う気はないし」
「なに?」
今度は声に出して振り返る。
「俺のことが嫌いになるかも知れない」
「まさか?」
冬耶が笑った。
「夏廉、オマエ俺を見くびってるだろ」
夏廉は黙ってそんな冬耶を見つめた。
「さっき、大丈夫だったのか?」
ベッドの中、夏廉を抱き寄せて冬耶が呟く。返事の替わりに夏廉は冬耶の首にしがみついた。そしてそのまま話し出した。
「俺さ、この街はじめてじゃないんだ。もう十年近く前になるかな?どうせもう知ってるヤツなんて居ないと思ったから……オマエにも言わなかった」
「さっきのヤツは?」
「忘れてた。 最初は顔を見ても判らなかった」
「思い出したの?」
「アイツ……」
まだ10代だった夏廉はそれでも今と同じ様なことをして過ごしていた。むしろ今より若かっただけにやっていたことは、今よりかなり無茶をしていた。
誰にも頼らず、一人で生きていたし、どうでもいい気分で生きていたのだから仕方がない。
あの男もその頃知り合った一人で、夏廉に出会って夢中になった。どんな人間なのかたいして知らない。夏廉にはそんなことどうでもよかった。自分に関心があるヤツを利用することには良心は痛まない。向こうだって自分の体が目当てだったりする。一回か二回、寝てやった記憶がある。
あとは……何だかしつこく追い回されてうざったくなったので、金を巻き上げた挙げ句に例のごとく自分の能力を使い相手の感情を逆撫でしてこの街を出た。
別にあの男に対して何か恨みの感情があったわけではない。夏廉にとっては、人間は皆同じで使い捨ての相手でしかなかった。それが証拠に顔を見てもすぐに思い出せなかった。
「だが、あっちは違ったわけだな」
冬耶が呟く。
「俺ってつくづく嫌なヤツだな」
夏廉が溜息を付いた。冬耶に出会うまでは、そんなことは考えたこともなかった。多分今でも同じ事を平気でしていたはずである。なのにいま、冬耶にこんな事を話さなくてはいけないことが少し哀しかった。
「俺は平気で、誰とでも……」
冬耶の指がその先を塞いだ。
「もういいよ、わかってるから。 俺もオマエと同じなら良かった」
「ん?」
「同じようにオマエの心が判れば、こんな事オマエに聞かなくてもわかってやれるのに……」
優しい冬耶の言葉に夏廉も言葉が詰まった。
「オマエが同じじゃなくて良かったよ」
「なんで?」
「こんな苦しいこと、俺だけでたくさんだ」
やっとそれだけ言った夏廉を冬耶が抱きしめた。
「もっと早く……」
「うん?」
冬耶がたどる唇と指のあとを意識で追いかけながら夏廉は思った。もっと早くお前に会いたかった
今日も朝日が昇り、二人を包んでいた。